飛鳥寺()我が国の本格的仏教寺院第一号の中金堂跡で法灯を守る寺

飛鳥大仏がおわします飛鳥寺安吾院
飛鳥大仏がおわします飛鳥寺安吾院 (撮影 2012/04/13)

蘇我一族の権威のシンボルとして仏教寺院を建立した蘇我馬子

安吾院の飛鳥大仏
安吾院の飛鳥大仏
 日香村の飛鳥集落のはずれに小さな寺がある。飛鳥寺安吾院(あすかでらあんごいん)という。現在は飛鳥大仏を安置する本堂と小さな鐘楼だけが主な建造物だが、飛鳥観光の目玉としてこの寺の参拝を省くわけにはいかない。なぜなら、まさにこの場所に我が国最初の仏教寺院「法興寺(ほうこうじ)」が時の権力者蘇我馬子(そがのうまこ)によって建立され、その金堂に安置するため止利(とり)仏師が鋳造した釈迦如来像(飛鳥大仏)が、火災で原型をほとんど留めていないほど修復されているとはいえ、厳然と今も当時設置された場所に鎮座しているためである。

 号の「法興寺」は、創立者の馬子が「仏法興隆」の願いを込めて中の二字を選んで付けたとされている。後に、平城遷都で新しい都に移されてからは「元興寺(がんごうじ)」と呼ばれるようになるが、一般には、地名による法号「飛鳥寺(あすかでら)」の名で親しまれている。この寺の起源やその後の栄枯盛衰を知らずして、我が国の仏教の歴史は語れない。

 我馬子がこの地に本格的な仏教寺院の建立に着手したのは、崇峻天皇元年、すなわち西暦588年とされている。馬子は前の年の7月、諸皇子・群臣たちを糾合して宿命の政敵・物部守屋(もののべのもりや)を討ち滅ぼす戦いに打って出た。その際、戦いに勝利できたら、寺塔を建立して、仏法を広めることを誓った。幸い守屋を滅ぼすことができた馬子は、寺院建立の技術者派遣を百済の国王に要請するとともに、真神原(まがみはら)にあった飛鳥衣縫造(あすかのきぬゆいのみやつこ)の祖・樹葉(このは)の家をつぶして寺地とし整地作業が始めたとされている。

現在の真神原
現在の真神原 (橘寺から北方を望む)
 神とはオオカミの別名である。当時、この付近一帯はオオカミが跳梁する原野だった。当時の文化の中心は磐余地方であり、飛鳥には何もなかった。馬子がこの地に寺地を定めたのには理由がある。渡来人の樹葉が住んでいたあたりにはケヤキの巨木が茂る林があった。古来、ケヤキは(つき)の木と呼ばれ、その巨木は神々が降臨する依り代であり、槻の木の生えている付近は聖なる土地と見なされていた。

 法が崇拝する釈迦如来は蕃神かもしれないが、神であることには変わりない。その神を祀るに適した場所は槻の木の林が最適である。おそらく馬子はそう考えたのであろう。彼は樹葉に立ち退きを命じ、その家をつぶして整地することにした。ただし、家の西側に枝葉を茂らせていた槻の木は何本か残すようにした。やがて飛鳥寺が完成すると、真神原は我が国の文化の中心となり、その後100年間の王城の地となった。

>西側から見た飛鳥寺復元イメージ
西側から見た飛鳥寺復元イメージ

 鳥寺創建の歴史をもう少したどってみよう。崇峻天皇元年(588)の末までには、百済の威徳王は恩率・首信(すしん)らを遣わして、6人の僧侶と寺院建立に必要な技術者を派遣してきた。『日本書紀』には、寺工の太良未太(だらみだ)文賈古子(もんけこし)、鑪盤博士の将徳・白昧淳(はくまいじゅん)、瓦博士の麻奈文奴(まなもんぬ)陽貴文(ようくいもん)凌貴文(りょうくいもん)昔麻帯彌(しゃくまたいふ)、画工の白加(びゃくか)の名前が伝えられている。

 こで、注目すべきは派遣技術者の中に造仏工がいないことだ。その理由については後で述べる。馬子はこれらの僧侶や技術者たちを時折槻曲(つきくま)の家や石川の家に招いて宴会を催すとともに、その都度彼らが準備した絵図面を前にして繰り返し寺院の構成や伽藍配置、および派遣技術者の指導で養成すべき大工や瓦工の人数などを打ち合わせたであろう。おそらく次の一年は寺地の造成と、そうした自前の工人たちの訓練に当てられたはずである。

南側からの飛鳥寺遠望
南側からの飛鳥寺遠望

 しろ、これから真神原の中央に建設するのは、今まで誰も見たこともない七堂伽藍の寺院である。瓦葺きの金堂や講堂、天に届くかと思われる五重塔など、当時の列島のどこにもなかった。周りを見回しても、住民たちが住んでいたのは竪穴住居か高床式建物、あるいは渡来人の大壁建物に過ぎない。真神原に集められた工人たちがこれから作り上げる寺院は、中ぶくれの柱に朱が塗られ、堂内は白の漆喰の上に見たこともない仏画が描かれ、回廊には目にも鮮やかな緑の連子窓がはめ込まれる。まさに釈迦の王宮のような建物である。

 子の命令で、配下の渡来系氏族集団の中から優秀な工人たちが大勢真神原に集められた。彼らはあらかじめ用意された工人宿舎が割り当てられ、そこで寝起きしながら、百済の技術者から道具の使い方などの手ほどきを受ける日々が続いたであろう。今までオオカミが徘徊するような寂れた原野が、瞬く間に当時としては第一線の工業団地に変わっていった。

かっての中金堂の跡に建つ飛鳥寺の本堂
かっての中金堂の跡に建つ飛鳥寺の本堂

 峻3年(590)になって、伽藍の用材の伐採が始まった。当時は、飛鳥川や冬野川の上流に伽藍の柱として使える巨木が多く存在したであろう。だが、伐採された生木はそのままでは加工できない。長い間水に漬けて樹液を抜かなければならない。そのための巨大な池が、真神原に築かれていたであろう。

 峻5年(592)10月になって、ようやく仏堂と歩廊の工事に着工することができた。しかし、1ヶ月後の11月3日、誰も予想しなかった大事件が勃発した。東国の調を献上する儀式で、馬子が東漢直駒を使って崇峻天皇を誅殺してしまったのだ。臣下が天皇を刺殺するなど今まで見たことも聞いたこともなかった。騒然とした世情不安を鎮圧させるため、その年の暮れに馬子は史上初の女帝・推古天皇を登極させている。

埋納された舎利容器
 が明けて推古元年(593)1月15日、仏舎利を塔の礎石に安置し、翌日塔の芯柱を建てる行事が行われた。『扶桑略記』によれば、この日蘇我馬子ら100人あまりが百済の服を着用して儀式に参列したという。 昭和23年(1957)の発掘調査で、塔の心礎中央の舎利孔から、舎利容器のほか、金環・勾玉・管玉・切子玉・ガラス玉・金銀の延板と 小粒などが発見された。舎利供養のため、有縁の人びとによって喜捨されたものである。

 目されるのは、心礎の上面に刀子・ケイ甲の武具や、馬鈴・ 柁行状鉄器などの馬具が置かれていたことである。馬子の妻は守屋の妹であった。飛鳥寺の造営には、物部守屋の没収資財が充当されたと考えられる。 飛鳥寺の心礎の周辺に施納された武器や馬具は、滅ぼされた守屋が最後まで身につけていたものであり、馬子とその妻が守屋の冥福を祈り、埋納したと思われる。

塔心礎の埋納品の中のケイ甲の武具
塔心礎の埋納品の中のケイ甲の武具(手前)
 古3年(595)になると、高句麗から慧慈(えじ)が来朝し、前後して百済から慧聡(えそう)も来朝した。二人は飛鳥寺の唆工を予定して、馬子が両国の国王にあらかじめ招請していたものと思われる。ここで、聖徳太子と師として著名な高句麗僧・慧慈の名が突然史書に出てくる。そのことから、百済の技術支援によって完成したと思われている飛鳥寺であるが、実は高句麗からの技術支援も相当あったと筆者は推測している。

 れはともかく、崇峻天皇4年(596)11月、飛鳥寺が竣工した。落慶の日に慧慈と慧聡は飛鳥寺に入った。寺の体裁が整ったということで、馬子の長男・善徳も寺司とされた。馬子が七堂伽藍を供えた巨大な仏教寺院を真神原に建立した目的は、一族の権威を誇示するためだったであろう。その目的は一応達成された。

創建飛鳥寺の西門跡
創建飛鳥寺の西門跡

 が、馬子はそれ以上ものを期待していたはずである。当時の僧侶は単なる宗教家ではない。経典はもちろん歴史や文学にも詳しい一流の文化人であり、さらに医術や薬草の知識も兼ね備えていた。慧慈と慧聡は寺に止宿し仏教を広めたが、寺院前の広場では半島や大陸から伝えられた仮面劇や舞踊が毎日のように催された。飛鳥寺は仏教寺院であると同時に、さまざまな文化を発信する総合文化センターの機能も備えていた。蘇我氏は、そうしたさまざまな先端技術も手に入れたのだ。

発掘調査が明らかにした創建飛鳥寺の伽藍配置
発掘調査が明らかにした創建飛鳥寺の伽藍配置
 の芯柱を建ててから4年で仏教寺院が完成することなどありうるのだろうか、という疑問は当然沸いてくる。なにしろ 実際の工事に従事したのは、今まで寺院建築など見たこともない蘇我氏配下の工人たちであり、しかも彼らは百濟の技術指導を受けながらの工事だった。度重なる失敗で予定通りに工事が進捗しなかったことは十分想定できる。

 鳥寺の創建を伝える『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に書き記された塔露盤銘の写しは、工人たちを指導して塔の露盤を製作した4人の技術指導者の名を伝えている。意奴弥首(おぬみのおびと)辰屋、阿沙都蘇首a(あさづまのおびと)未沙乃(みしゃの)鞍部首(くらつくりのおびと)加羅爾(からに)山西首(かわちのおびと)都鬼(つき)である。いずれも渡来系の人物で、鑪盤博士の白昧淳に鑪盤の製作技術を伝授されたのであろう。

 の鑪盤銘から類推して、このとき竣工したのは塔だけだろうとする説がある。別の説では、創建飛鳥寺の完成を止利仏師が鋳造した丈六の釈迦像を中金堂に安置し斉会を行なった推古14年(606)あるいは推古17年(609)としている。このあたりが飛鳥寺創建の謎の一つとされている。

 はまだある。当時の東アジア世界では南門−中門ー塔−金堂ー講堂が一列に並ぶ伽藍配置が一般的だった。なぜか飛鳥寺は塔を3ツの金堂で囲む一塔三金堂の伽藍配置を採用している。しかも、そのことが明らかになったのはわずか半世紀ほど前のことである。

 950年代半ば、飛鳥盆地に農業用水の導水路を通す計画が持ち上がった。導水路が敷設される予定線上には多くの遺跡があり、計画的な事前発掘調査が要求された。飛鳥寺院跡がその最初の発掘対象として取り上げられた。華やかな古代史の舞台となった日本最初の本格的寺院遺跡の発掘事業は、1955年5月に開始され1957年まで続けられた。三次にわたる発掘調査は、従来の諸説を大きく改変する成果をもたらした。

四天王寺式と一塔三金堂様式
四天王寺式と一塔三金堂式
 藍の配置としては四天王寺様式または法隆寺様式が想定されていたが、実際は中央の塔の周りに中金堂、東金堂、西金堂を配した一塔三金堂式の伽藍配置だった。しかも、一塔三金堂はきわめて正しく真南北線とそれに直交する東西線にのっていた。このような伽藍配置は誰も予測していなかった。一塔三金堂の周りには、回廊が取り巻き、講堂は回廊の外側に位置していた。回廊の南は中門に繋がり、中門の外側に南門が、また回廊の西には西門が配置されていた。

 掘調査では、その他にもさまざまなことが判明した。現在の飛鳥寺安居院の本堂は、かっての中金堂の位置に建っていることがわかった。塔の心礎は地中深く埋められ、その上に一辺が1.5mの方形の柱が建っていたと思われる。

 鳥寺の寺域は東西2町、南北2町(1町は約100m)もあり、一塔三金堂とこれらを囲む回廊に中門、南門、講堂を加えた中枢伽藍部分は寺域の西南二分の一を占めるに過ぎない。現在では民家が建ち並んでいるため地下構造が解明できないが、講堂の左右には鐘楼や経蔵が位置していたはずである。また、中枢伽藍の東や北に広がる広大な空間は、僧侶が生活するための設備や寺を維持管理する建物があったはずである。

創建飛鳥寺の謎:なぜ蘇我馬子は一塔三金堂の伽藍様式を採用したか?

創建飛鳥寺の伽藍配置イメージ
創建飛鳥寺の伽藍配置イメージ
 念ながら、今まで筆者はこの疑問に答えてくれる説に遭遇していないため、勝手に想像を巡らしてみた。そして、あるヒントをえた。それを付記しておこう。『日本書紀』は蘇我馬子と物部守屋を崇仏派と廃仏派の巨頭として蘇我・物部戦争の顛末を描いているが、そのことを鵜呑みにするのは間違いである。物部氏は軍事氏族として古くから朝鮮半島の問題に関与しており、百済にも多くの配下の人物を派遣していた。当時の百濟の王都泗沘城(しひじょう)で仏教が栄えていることは、彼らから物部本宗家の総帥・守屋の耳にも達していたはずである。それどころか、守屋は蘇我氏に先駆けて一族の氏寺を建立していた証拠すらある。JR八尾駅近くの渋川廃寺は物部氏の寺跡だったとされている。

「渋川廃寺跡」の碑がある渋川天神社
 我馬子の妻は守屋の妹だった。その縁で馬子は何度も渋川の守屋の別邸を訪れており、当然建設中の物部氏の寺を何度も見ていたと思う。渋川で物部の氏寺を建設していたのは、敏達6年(577)に百済に派遣された大別王(おおわけのきみ)が帰国の際、律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工ら6人を連れてきた。大別王は彼らを難波に住まわせ寺を建立させるつもりでいたが、病気でそれができなくなり、懇意にしていた守屋に百済人たちの処遇をまかせた。守屋は彼らの力を借りて氏寺の建立を始めていた。それは四天王寺式の伽藍様式の寺だった。

 かにつけて物部守屋に対抗意識を燃やしていた馬子は、なんとしても守屋の寺を越える寺院を建立したかった。ところが、588年に来日した百済の寺工たちが示す図面は、あいかわらず四天王寺式の伽藍配置だった。崇峻2年(589)、大陸では隋が陳を滅ぼし中国を統一した。そのことに恐怖を抱いたのは他ならぬ高句麗の平原王である。隋が新羅または百済を連合して攻めてきたらひとたまりもない。それを防ぐには両国の背後にある倭とよしみを通じる以外にない。

 時の倭国を主導しているのは蘇我馬子である。その馬子が仏寺の建立を考えていると知ると、平原王は特使として高僧や優秀な造寺工を送り込んできたにちがいない。慧慈の派遣もその一環として理解すべきである。馬子が百濟の四天王寺式の伽藍配置に難色をしめしていると知ると、平原王はすぐに大同江右岸の清岩里土城に唯一存在した一塔三金堂式の寺の伽藍配置を提示させたにちがいない。馬子は高句麗の提案を受け入れた。それだけではない。東金堂と西金堂の建設は高句麗の技術者の指導で行なうことまで決定した。

 門家の中には、当初は伽藍が一直線に並ぶ四天王寺式で建立されたが、その後何かの事情で東西金堂が追加されたという考えもあるようだ。その根拠として、塔や中金堂の基壇が、花崗岩の地覆石と凝灰岩の羽目石からなる壇上積基壇を採用しているのに対して、東西両金堂の基壇は下成壇上に小礎石を配する特殊な二重基壇であることが指摘されている。 だが、こうした指摘こそ高句麗系の工人が東西両金堂の施行を指示した証拠であると、筆者は考えている。当初は四天王寺式で工事を行い、新たに東西金堂を増設するには、東西の回廊を外側に移築しなければならない。だが、発掘調査では、回廊部分が移築された痕跡は発見されていない。当初から三金堂を建設することで伽藍配置の基本設計がなされていたことになる。

中金堂の本尊が遅れて鋳造された理由は?

 日本書紀』の推古紀には、次のような記事が載っている。推古13年(605)4月1日、推古天皇は金銅製と刺繍の丈六仏像をそれぞれ一体作ることを誓願し、鞍作止利が提出した仏の図が女帝の意にかなったものだったので、止利に制作を発注したという。一年後の推古14年4月8日、金銅製と刺繍の丈六仏像が完成したが、丈六の金銅仏が金堂の戸より高くて堂のなかに入れることができなかった。工人たちは堂の戸を壊して搬入しようとしたが、止利は戸を壊さずに立派に堂に入れることができた。それで、天皇は止利に叡智を褒め、あわせて鞍作氏が三代に渡って仏法興隆に尽くしてきた功績を鑑みて、止利に大仁(だいにん)の位を授け、近江国坂田郡の水田20町を賜ったという。(注:『元興寺縁起』に引く「塔露盤銘」では中金堂に安置する丈六釈迦仏銅像の完成を推古17年(609)としている)

安吾院の飛鳥大仏
安吾院の飛鳥大仏
 の記述を根拠に創建法隆寺の完成は推古4年(596)ではなく、推古14年(606)だと主張する専門家がいる。だが、その主張はおかしい。どの仏教寺院に本尊の完成を待たずに落慶法要を営む寺などあるだろうか。推古4年11月に落慶法要を営んだということは、その時点で三金堂にそれぞれ本尊が安置されていたことを意味する。

 前に指摘したように、蘇我馬子が百濟の威徳王に寺院建立の技術者の派遣要請したとき、造仏工を要求していない。すでに10年以上も前に、大別王の養成を受けて百濟は造仏工を我が国に送り込んできており、派遣を要求する必要がなかったためだ。創建飛鳥寺の三金堂に安置された仏像は、おそらくその造仏工の指導のもとに制作されていたはずである。あるいは、物部氏の渋川寺に安置するために制作された仏像がすでに存在し、馬子がそれを我が物としたのかもしれない。

 は、推古13年(605)になって、なぜ推古天皇があらたに金銅製と刺繍の丈六仏像を作って飛鳥寺に安置しようとしたのであろうか。想像するに、蘇我馬子が建立した飛鳥寺は蘇我氏の氏寺に過ぎなかったが、推古13年頃になると各豪族が競って氏寺を建立するようになった。すこし時代は下るが、推古天皇32年(624)9月、それぞれの寺および僧尼を調査して、詳細にわたる各寺の縁起や僧尼の出家の理由、出家の年月日を記録させたところ、その時点での寺の数は46,僧816人、尼569人、合計1385人だったという。わずか四半世紀足らずでかなりの普及率である。

飛鳥大仏復元イメージ
飛鳥大仏復元イメージ
 廷としては、宗教政策としてこれらの寺々の僧尼の管理を行なう寺の中の寺が必要になってきた。蘇我一族の氏寺だった飛鳥寺に全国の僧尼を統括する僧官が住む官寺的機能を持たせるには、従来の中金堂の本尊ではいささか見劣りするものを感じたのだろう。そこで、新しく丈六金銅仏を作ることを推古天皇が発案したと思われる。天皇の要請に応えて止利仏師がこのとき制作したのは、単なる丈六の釈迦仏ではなかった。現存の飛鳥大仏の台座を調査したところ、両脇に脇侍を従えた釈迦三尊像だったことが判明している。

 極3年(645)の乙巳の変で蘇我本宗家は滅亡し飛鳥寺は檀越を失う。しかし、飛鳥寺は7世紀後半の天武朝の時代には大官大寺、川原寺とともに三大寺に遇せられ、国家的仏教行事の拠点として朝廷の尊崇を集めた。7世紀末から8世紀初めの藤原京では、薬師寺が加わり、飛鳥寺は四大寺の一つとされた。

 銅3年(710)に都が藤原京から平城京へ移ると、飛鳥寺も養老2年(718)に新京に移され、山号を「元興寺」と変えた。しかし、創建飛鳥寺の堂宇が全て移建されたのではなく、主要な建物はその後も存続し、移されたのは僧坊など一部の付属施設だけだったようだ。だが、鎌倉時代の初めの、建久7年(1196)、雷火で塔と金堂を焼失し、寺勢は衰えた。中世にはすべての建物が失われ、法灯も絶えた。法>隆寺の僧・訓海が著した『太子伝玉林抄』によると、文安4年(1447)の時点で、飛鳥寺の本尊は雨ざらしのまま放置されていたという。

飛鳥大仏の顔
飛鳥大仏の顔
 戸時代の初期に形ばかりの草堂を建てて大仏を雨露から守り、後には尼僧が大仏のためにお堂を建ててお守りした。これが現在の真言宗安居院の始まりであるという。本居宣長が明和9年(1772)に飛鳥を訪ねた時、飛鳥寺には「門などもなく」「かりそめなる堂」に本尊釈迦如来像が安置されるのみだったと『菅笠日記』に書いている。現在の本堂は、江戸末期の文政8年(1825)に大坂の篤志家の援助で創建飛鳥寺の中金堂の跡に建てたもので、創建当時の壮大な伽藍の面影はない。しかし、補修が甚だしいとはいえ本尊の釈迦如来像(飛鳥大仏)を飛鳥時代と同じ場所に安置して祭り、21世紀の今日まで法灯を守り続けている。

西門跡の西にある入鹿の首塚
西門跡の西にある入鹿の首塚

今も時折行われている発掘調査

創建飛鳥寺の講堂跡の南端から巨大な礎石4個を発見

 鳥寺跡の大がかりな発掘調査は1956年から57年にかけて実施された。創建時の境内には現在民家が建ち並んでいて、全域が調査されている訳ではない。したがって民家の建て替えなどの機会に今でも追加的に調査を行っているようだ。

講堂遺構図
講堂遺構図
 成18年(2006)11月13日、奈良文化財研究所(奈文研)は「わが国初の本格的な寺院、飛鳥寺跡(奈良県明日香村)で、講堂の柱を支えた巨大な礎石4基が出土した」と発表した。飛鳥寺の講堂跡は1950年代の調査ですでに東西と北端で、礎石や礎石の痕跡が確認されている。だが、南端がわからないままだった。今回の調査で新たに出土した3個の礎石で南端の位置が判明し、創建時の講堂の大きさが東西35.15m、南北18.7mであることが確定したという。

 掘現場は飛鳥集落の中ほどにある来迎寺(らいごうじ)境内の南西部だった。創建飛鳥寺の回廊の北側、中金堂の北方にあたる場所で、そこは長い間竹藪や巨木が生い茂っていた場所である。その調査区の西半分で、花崗岩の巨大な礎石がL字型に4個並んでいるのが見つかった。そのうちの幾つかはケヤキやカシの木の根にしっかりと抱きかかえられていて、チェーンソーが使えず掘り出すのにずいぶん苦労したようだ。

掘り出された礎石
掘り出された礎石
 1月14日から3日間、現場を見学できるというので、早速出かけて来た。今回出土した4個の礎石は、いずれも花崗岩で作られている。最大の大きさのものは1.5mもあるという。これらの礎石は土を突き固めた基壇に埋め込まれ、柱を据える上面は直径80cmの円形に作りだしてから、平らに加工されている。したがって、それぞれの礎石の上には、直径60〜70cmの柱が立っていたと推定できる。この柱の太さは、法隆寺金堂(7世紀後半)の柱の直径(約70m)と同規模で、当時としては極めて大きかったと言える。

 と柱の間隔は、東2個の礎石間で4.5m、他では3.85mとのことである。また、各礎石の間には一辺80cmの足場穴が見つかっていて、足場を組んで講堂が建てられたと推察されている。初期寺院の建築方法を知る上で貴重な知見が得られたとのことだ。

 れにしても、今回発掘現場を訪れて驚いたのは、わずかに表土を剥いだだけで、礎石が創建時の状態で見つかったことだ。しかも礎石の色や形がとても1400年前に作られたようには見えない。つい最近石材店から持ち込まれたみたいに、冬の朝日をうけて白く輝いていた。

飛鳥寺の南にあった「石敷広場」の南西部の一部を検出

 立橿原考古学研究所(=橿考研)は、平成21年(2009)の11月から飛鳥寺の南で第164次調査を実施した。調査の目的は、世界遺産登録に向けた「世界遺産登録推進事業」の一環として、飛鳥京の北限または北部地域の様相を明らかにすることだった。そのため、飛鳥京跡の内郭から北へ約400m、飛鳥寺から南へ約150mの地点に1区と2区の2カ所の調査区が設定された。

発掘調査地2から見た飛鳥寺

 成22年(2010)2月9日、橿考研は1区で飛鳥京跡で最大の石組み溝が、そして2区では飛鳥寺南の石敷き広場の一部が見つかったとマスコミに公表し、14日に現地説明会を開いた。石敷き広場の”発見”のニュースを聞いたとき、正直なところ「なんで今更」という気分だった。飛鳥寺の南門の南に石敷きの広場が存在していたことは、奈良文化財研究所(=奈文研)が奈良県教育委員会と共同で1956から57年にかけて実施した3次にわたる発掘調査で、すでに判明している。調査内容は、その後に公表された「飛鳥寺発掘調査報告」に詳しい。

石敷広場の位置
 報告書によれば、南門から南へ幅2mの石敷きの参道が45m続き、この参道が南端で、幅20mほどの、これまた石敷きの道路状遺構がT字状に近く交わっていた。しかも、この遺構は参道に直行せず、東で南に七度振れていることも報告されている。奈文研は1982,83年度にもこの石敷き広場を調査し、南北約20m、東西約70mの広場だったと推定している。さらに2008年11月には、石敷き広場の東北の角を検出している。今回調査2区見つかった石敷きは、遺構の南西部分の一部で東西約4m、南北約5mの区域にすぎない。言ってみれば、すでに存在が判明している遺構の未発掘部分の一部が、たまたま見つかったようなものである。

 地説明会に参加して、発掘現場を見てみた。表土が剥がされた後は、直径30〜40cmの平たい石を敷き詰め、南側はやや大きな石で縁取りされていた。その縁から一段さげて幅80cmの石敷きテラスが張り出し、その南に幅約90cm、深さ30cmの丁寧な造りの側溝が東西方向に築かれていた。

検出された石敷遺構
検出された石敷遺構
 敷き広場は、広場なのか道路なのかを発掘担当者に質問してみた。しかし、今までの発掘データからだけではなんとも言えないそうだ。広場としてみた場合、北東の角は確認されており、また今回南の縁が明らかになったが、南東の角や広場の西側がどのあたりまで広がるのかは分かっていない、場合によっては、南東の隅は延長されて現在のバス通りに接続されている可能性もあるという。そうであれば、限られた空間の広場ではなく、飛鳥寺の南門の前を通る大通りだったことになる。




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