石舞台古墳(いしぶたいこふん) 蘇我馬子を葬った桃源墓とされている古墳

桜の咲く頃の石舞台古墳
桜の咲く頃の石舞台古墳 (撮影 2012/04/13)

巨岩を積み重ねて造られた飛鳥時代最高の実力者の奥津城

石舞台古墳の入口
石舞台古墳の入口
 鳥巡りの象徴的観光スポットとして知られる石舞台古墳は、国営飛鳥歴史公園の石舞台地区の中にある。週末ともなれば多くの観光客がバスを連ねてこの地を訪れる。人気の秘密は、玄室の天井石と側壁の上部が露出した異様な景観と、親しみやすいその名称にあるのだろう。

 常の古墳で、封土が無くなって石組み遺構だけが露出している例は少ない。石舞台という名称も、一般には天井石の上部が平らなことから付けられたとされているが、昔狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話や、この地にやってきた旅芸人が大石を舞台にしたという話もある。ちなみに石舞台古墳には30数個の岩が使われ、その総重量は2300トンとのことだ。特に天井石は北側が約64トン、南側が約77トンと推定され、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわせる。

 の古墳の被葬者として、飛鳥時代に絶対的な権勢を誇った蘇我馬子(そがのうまこ)が江戸時代から最有力視されている。しかし、確定している訳ではない。封土は流出したのではなく、大化改新後に墓が暴かれたためだとする説がある。墓が暴かれるほど反対派から憎まれた歴史上の人物をあげるとするなら、やはり蘇我馬子ということになるのだろうか。

 舞台古墳の知名度を全国に広めたのは、江戸時代の1848年に世に出た「西国三十三所図絵」らしい。その中で露出した巨石遺構をイラスト付きで説明し、天武天皇を仮埋葬した墓であるとの伝承を伝えている。観音信仰で西国三十三カ所の観音霊場巡りをする当時の旅人にも、石舞台古墳の異様な形は興味と驚きで見られたのであろう。ちなみに、近くには西国三十三カ所のうち第7番目の札所にあたる岡寺がある。

 我馬子の死亡時期については、異説がある。『日本書紀』は推古34年(626)の条で、夏5月20日大臣(おおおみ蘇我馬子が死亡し、桃原墓(ももはらのはか)に葬ったとある。だが『法王帝説』は翌年の推古35年6月に薨ると伝える。『扶桑略記』によれば、何を根拠にしたか不明であるが、馬子の死亡年齢を76歳としている。推古天皇より3歳年上だったことになる。

 うまでもなく、蘇我馬子は生前に絶対的な権勢を誇った蘇我本宗家の当主である。570年、父の蘇我稲目(そがのいなめ)が死ぬと、父が築きあげた地位と権力を引き継ぎ、天皇家をしのぐほどの実力者として大和朝廷に君臨した。

 の権力のすごさは、キングメーカーとしての手腕にも見ることができる。587年、用明天皇が崩御すると、政敵の大連(おおむらじ)物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし、傀儡として崇峻天皇を皇位に付けた。崇峻天皇が反抗的な態度をとると、592年に刺客を放って天皇を暗殺し、後継に姪の額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を皇位につけ推古天皇とした。そして、自分は外戚として政界に君臨しながら、聖徳太子に協力して、仏教興隆をはじめ新しい国作りを行なった。聖徳太子の業績とされるさまざまな施策も、実は馬子に帰すべきであるとする説もある。

ライトアップされた石舞台古墳
ライトアップされた石舞台古墳
 我氏に対して批判的な『日本書紀』の編者でさえ、蘇我馬子には一目置いている。推古天皇34年の条で、「大臣は蘇我稲目の子で、性格は武略備わり、政務にもすぐれ、仏法を敬った」と記し、尊敬の念を隠していない。さらに続けて「(大臣は)飛鳥川のほとりに家居した。その庭の中に小さな池を造り、池の中に小さな島を築いた。それで時の人は、嶋大臣といった」と記述している。

 の飛鳥川の畔の家は、現在の明日香村島庄にあったとする説が有力である。石舞台古墳の横の坂道を下りてくると、右手の食堂の先に、他の畦とは方向を違えて田圃の畦が「く」の字形に曲がっているところがある。発掘調査の結果、「池田」とよばれていたこの場所には、一辺が42m、深さ2mほどの隅丸方形の石組み池があったことがわかっている。

 和8年(1933)と10年(1935)に京都大学と奈良県が共同で石舞台古墳の発掘調査を行った。和8年の発掘調査では石室の学術調査が行われ、昭和10年の調査では外堤と周湟が調査された。その結果、以下のことが明らかになった。

  • 南西に開口している石室は、30数個の巨大な花崗岩を用いた両袖式横穴石室である。
  • 石室の全長は19.1mである。
  • 玄室の大きさは、長さ約7.6m、幅約3.5m、高さ約4.7m
  • 羨道の大きさは、長さ約11.5m、幅約2.5m、高さ約2.4m
  • 玄室の奥壁、側壁に排水溝を巡らし、溝は羨道の排水溝へ通じている。
  • 玄室内より凝灰岩の破片が出土し、石棺の存在を示している。
  • 墳形は、封土の大半を失っているため確定はできないが、2段の方墳か上円下方墳と考えられる。
  • 墳丘下部は1辺が約51mの長さで、周囲に空濠を巡らせてある。

地底に吸い込まれそうな羨道入り口
地底に吸い込まれそうな羨道入り口
 存整備された現在の石舞台古墳は、封土基部が方形で、外斜面に自然石を貼りつけてある。一辺の長さは約55m、その外側の空堀の幅は底部で約5mまたは7.6mで、北方の幅は約6.5m。その外側に上幅約5mの外堤が築かれている。

 大な石材を架構した雄大さは、羨道の入口の石段を下りて中へ入ると一層実感できる。ぽっかりと黒い口を開けた石室の上からのしかかる巨石は、まるで侵入者を圧殺しようとする意志をあらわにしているようだ。天井に使われている石の重さは上に述べたように北側が約64トン、南側が約77トンもあるという。これらの巨石はどこから調達してきたのか、またクレーンなど無い時代にどのように組み立てたのかなど、さまざまが疑問がわいてくる。

玄室底部から羨道中央部を南に通る排水溝
玄室底部から羨道中央部を南に通る排水溝

 室の中は意外と明るい。天井石の隙間から注ぎ込む光のせいである。その明かりの中では、玄室の4隅に掘られた排水溝がはっきり見える。

 日香村の水田で稲穂が頭を垂れる時期になると、恒例となった2つのイベントが催される。「飛鳥光の回廊」と「彼岸花祭り」だ。光の回廊とは、カップに入ったロウソクを村中の道路脇に並べ、村内の名所旧跡を文字通り光りの回廊で結ぶ。普段は有料の名所旧跡もこの催しの期間はライトアップし、午後6時からの拝観も無料になる。 石舞台古墳の石室の中にもカップに入ったロウソクが点灯される。

 前、光の回廊の催しのとき石舞台の石室に一人で入り込んだことがある。たまたま他の見学者が誰もいなかったので、一人玄室の奥にたたずむことになった。ロウソクの灯りの他に、入口からライトが照射されていたが、それでも中は暗い。そうした環境に身を置くと、霊気のようなものが感じられるから不思議だ。肩に何かが重くのしかかってきた気がしたが、あるいは馬子の霊が何かを語りかけたかったのかも知れない。

復元した凝灰岩製の石棺
復元した凝灰岩製の石棺
 掘調査では、石棺は発見できなかったが、石室から平らに加工した凝灰岩の破片が見つかっている。調査の成果と飛鳥時代の古墳の知見を基にして復元された石棺が、外堤の一画に展示されている。石棺のレプブリカを前にして、被葬者と推定される蘇我馬子はどれくらい安眠できただろうかと思う。蘇我本宗家を滅亡に追いやった乙巳の変は、馬子の死からわずか19年後に起きている。乙巳の変の後に桃源墓が暴かれたとすれば、安眠できた時間はそんなに長くはなかったはずである。

隣接地から見つかった石舞台古墳造営時の工事宿舎跡

 立橿原考古学研究所(橿考研)は平成18年(2006)3月、明日香村島庄の島庄遺跡で、7世紀前半の建物群跡や大柱跡とみられる柱列、柱穴が見つかったと発表した。柱列は石舞台古墳の東側丘陵にあり、並び方の方位が石舞台古墳の主軸とほぼ一致するため、蘇我氏一族が馬子の墓を造るため周囲に建てた宿舎跡の可能性が高いとのことだった。

 掘現場は石舞台古墳の石室から東へ約100mの場所で、比高が約10mほどある棚田である。遺跡は、県道新設計画に伴う調査で見つかった。3月11日に現地説明会が開かれたのでそれに参加して説明を聞いた。配布された資料の調査区全体図を見ると、2枚の細長い棚田のうち下側が第一調査区、上側が第二調査区と呼ばれている。仮設の見学通路は発掘されたトレンチに沿って築かれていた。

発掘現場と石舞台古墳との位置関係 発掘場所
発掘現場と石舞台古墳との位置関係 発掘場所

 一調査区でめぼしい遺跡は大型の柱穴だった。大きさは一辺1.8m、深さ1.8mで、上から覗くと直径30cmの柱を建てた痕跡があった。それと対をなす大型柱穴がもう一つ第二調査区でも見つかっていた。こちらは一辺1.6m、深さ1.5mで、やはり直径30cmの柱の痕跡がある。第二調査区ではさらに、主軸方向が東へ25度振れた柱穴列も2列見つかっている。北側の柱穴は一辺が0.5mで1.7m前後の間隔で5間分確認されている。南側の柱穴の規模や間隔も北側のものと同じだが、こちらは2間分が確認された。石舞台古墳造営時の工事宿舎跡だとすると、これらの発掘現場を見学しながら興味ある『日本書紀』の次のような記述が頭をよぎった。

発掘された棚田を見学する長蛇の列(第一調査区を北から見る)
発掘された棚田を見学する長蛇の列(第一調査区を北から見る)

 子の死に遅れること2年、推古天皇は75歳の生涯を終えた。その遺言が曖昧だったため、皇嗣選びが難航した。後継者の候補としては、敏達天皇の孫に当たる田村皇子(たむらのみこ)と聖徳太子の長男・山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)の二人がいた。大臣の位を継いだ蘇我馬子の長男・蝦夷(えみし)は田村皇子を推したが、馬子の弟・境部摩理勢(さかいべのまりせ)は山背大兄皇子を推して一歩も譲らなかった。そのころ、蘇我一族が皆集まって馬子のために墓を造るべく墓の周りに宿っていた。だが、馬子の墓とされる石舞台古墳は、本人が亡くなって2年も経つのにまだ完成していなかったようだ。

第一調査区に掘られた四角い穴
第一調査区に掘られた四角い穴
 る日、造営中の馬子の墓を見下ろす丘陵に築かれた摩理勢の(いおり)に、阿倍臣麻呂(あべのおみまろ)中臣連弥気(なかとみのむらじみけ)が連れ立って訪ねてきた。二人は、次期大王に田村皇子を推すよう摩理勢を説得するための使者として、大臣・蝦夷から派遣されてきたのだ。

 理勢はどうやら武人的な性格の一徹な老人のようだった。それに、生前の厩戸皇子(うまやとのみこ)(=聖徳太子)からさまざまな恩義を受けていた。その恩に報いるためにも、群臣たちの先頭にたって山背大兄皇子を次期大王に推した。当時の皇位継承は群臣たちの総意に基づいて決定された。したがって、対立候補が複数いる場合、群臣会議を主導する大臣に強力なカリスマ性がなければ、なかなか決着するものではない。

 我蝦夷は実直な男だったが、父・馬子のカリスマ性を受け継いでいなかった。そのため、推古女帝が崩御して10ケ月も経つのに、未だに次期大王が決まらなかった。蝦夷は田村皇子を次期大王に決めていたが、それに対抗して叔父・摩理勢が山背大兄皇子を協力に推しているため、いつも群臣会議が紛糾し、未だに大王を決められない状態が続いた。

 使者としてやってきた二人は、蝦夷の伝言を伝え、執拗に協力を要求した。その余りの執拗さに、摩理勢は怒って二人を追い返すと、部下に向かってこう指示した。
「直ちに(いおり)を打ち壊せ。そして、一族郎党をすべて私有地へ退去させろ。いかに兄の墓所造りとはいえ、これ以上蝦夷に協力はできぬ」

 上は『日本書紀』が記す一幕である。この後、蝦夷は再び使者を出して、摩理勢の翻意を促すが、摩理勢は応じなかった。こうして叔父・甥の仲は決定的に崩れ、最後は蝦夷が差し向けた軍によって、摩理勢は非業な最後を遂げたという。




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