高松塚古墳(たかまつづかこふん)発見から40周年の節目の年を迎えた極彩色壁画古墳

築造当時の状況に復元整備された高松塚古墳の墳丘 (撮影 2012/03/21)

悲しい運命、飛鳥美人が黒い涙を流して泣いていた

元禄の頃の高松塚
 成24年(2012)は、明日香村の高松塚古墳の石室から鮮やかに彩色された壁画が発見された昭和47年(1972)から数えて40年めの節目の年である。高松塚古墳の発掘調査は今から40年前の昭和47年3月1日から開始された。発掘のきっかけは、昭和45年10月ごろに村人がショウガを貯蔵しようと高松塚に穴を掘ったところ、穴の奥で古い切石が見つかったことによる。

 時の明日香村は村の発足15周年を期に村史を編纂するため、未調査の遺跡の発掘を進めており、県立橿原考古学研究所(橿考研)に高松塚の調査を依頼した。橿考研は当時の関西大学助教授だった網干善教氏らを中心とした関西大学・龍谷大学の研究者・学生の調査チームを編成して発掘にあたった。鮮やかに彩色された壁画が発見されたのは、それから3週間後の3月21日のことだった。

発掘当時の高松塚古墳
 もが予想しなかった彩色壁画の発見は3月26日にマスコミに公表され、それ以後連日のように報道される壁画のカラー写真で、日本中に考古学ブームを巻き起こした。我が国初の装飾古墳発見という前代未聞の状況を前にして、末永橿考研所長はこの極彩色の壁画が人類文化史上に持つ重要性をいち早く察知され、記者会見の後ただちに古墳を密閉することを命じられた。

 れから2週間後の4月4日、果敢な決断を下された。壁画の保存と調査研究の万全を期すために、古墳のすべてを国の保存と管理に委ねることとし、文化庁の所管に引き渡された。国民の財産とも言うべき壁画を、完存の形で次代の日本に伝えるためには、それが最善の道と判断されたとのことだ。

発掘当時の飛鳥美人
 内庁も遺跡の重要性を鑑みて、早々と翌年の昭和48年(1973)4月には高松塚古墳を国の特別史跡に指定し、さらに古墳とは別格に、昭和49年(1974)4月には石室内に描かれた壁画そのものを国宝に指定した。8月には保存施設として空調設備の工事に着工し、1年後の8月に空調設備を完成させた。

 室の壁画に描かれた飛鳥美人たちの女子群像の写真に惹かれて、高松塚古墳を訪れるようになった人は多い。飛鳥歴史公園館から丘陵を上ってくると、約10分ほどで高松塚古墳の裏側に出る。古墳は竹藪に覆われたこじんまりとした小山である。だが、正面に廻ると、そこには写真などで見慣れた醜い姿があった。

竹藪に覆われたかっての高松塚古墳
竹藪に覆われたかっての高松塚古墳
 松塚古墳の壁画を保存するため空調設備が設置されたが、その出入り口がむき出しになっている。やむを得ないこととはいえ、古墳を正面から見ると、まるでコンクリートで固めらたトーチカだ。上下二つに設けられた入り口が銃眼のように奥まって見え、そこから今にも機関銃の弾が飛び出してきそうな雰囲気がある。筆者自身も初めて高松塚古墳を見たとき、「何だ、これは!」と思わず絶句した。飛鳥美人とはおよそ場違いなものがそこにあった。

 色壁画の発見によって高松塚古墳が飛鳥観光の目玉になることは、当時の関係者にも分かっていたはずだ。そのため、壁画を模造して展示する壁画館が古墳の隣に設けられた。空調設備の出入口は見学者の目につきにくい古墳の背後に作るとか、あるいは設備そのものを地下に設置するなど、もう少し美観を大切にするセンスがほしかった。

 永橿考研所長が彩色壁画の持つ重要性をいち早く察知されて、その保存と管理を国に委ねられたのは正しい決断だったであろう。だが、その決断が裏目に出た。保管と管理を委託された文化庁が細心の注意を払って壁画の保存に当たっているものと誰もが信じていた。だが実態は違った。文化庁では記念物課が特別史跡の高松塚古墳を管理し、美術工芸課が国宝の壁画を管轄していた。こうした二重行政の通弊として両部局の横の連絡がうまくいっていなかったたようで、結果として壁画に大量のカビを発生させ、壁画を劣化させてしまった。

文化庁が公表した写真のシミ
文化庁が公表した写真のシミ
 0周年を迎えた平成14年(2002)、壁画の損傷や褪色に関する新聞社の取材に対して、「大きな問題はありません」と文化庁は答えている。 しかし、大量のカビの発生で壁画の劣化や退色を明らかにしたのは、皮肉にも壁画発見30周年の記念事業として、文化庁が監修して平成16年(2004)に出版した写真集『国宝高松塚古墳壁画』(中央公論美術出版)だった。この写真集は平成14年9月から翌年の4月にかけて、東京文化財研究所に委託して最新のデジタル技術で壁画を撮影したものである。

 の中の白虎の写真が、壁画発見当時の昭和47年(1972)に撮影された写真と見比べて、全体に灰色のカビのような汚れで覆われ、頭や首の輪郭はぼやけて薄くなり、顔やたてがみの細かい描線はほとんど見えなくなっていた。こうして壁画の退色・劣化が露見したことで大騒ぎになり、文化庁は平成16年6月に「国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会」を立ち上げて保存対策を検討させた。しかし、どの対策を実施しても、カビによる劣化は止まらなかった。

文化庁が公表した写真のシミ
文化庁が公表した写真のシミ
 の頃である。文化庁が公開した写真の中に、石室の西壁の北側に描かれた4人の女子群像の中央に立つ女性の右の目尻に、直径1mmの黒いシミがついていた。シミの原因はバクテリアやカビなどの微生物が混在したゲル状物質の影響で発生した可能性があるとのことだった。新聞に掲載された写真を見て、多くの人は飛鳥美人が黒い涙を流していると、極彩色の壁画の劣化を嘆いた。

 ビの大量発生原因を究明できなかった文化庁は、驚くべき暴挙に出た。壁画の退色・劣化の原因を究明するために、平成16年(2004)10月から半年かけて古墳の表土をはぎ取ってしまった。一般人が国の史跡を傷つけたり破壊すれば、犯罪行為として罰せられる。それを、文化庁は自ら指定した国の特別史跡を自らの手で破壊してしまったのだ。

2月27日に行われた高松塚発掘現場の説明会 惨めな姿に変わり果てた古墳

 成17年(2005)2月17日、生い茂っていた竹林が取り払われて、髪を切られ頭皮を剥がされたように惨めな姿に変わり果てた古墳の前で、現地説明会が開催された。墳丘を剥ぎ取るようなことまでして実施した大規模な発掘調査だったが、石槨内のカビ発生の原因を確定することはできなかった。

飛鳥歴史公園館の裏に建てられた作業修理室
飛鳥歴史公園館の裏に建てられた作業修理室
 こで、平成17年(2005)6月、国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会で最終的な手段として壁画の描かれている石室をいったん解体・移動して修復し、修復完了後に元に戻すという方式が採用された。平成19年(2007)年4〜8月にかけて石室を解体した4枚の天井石、8枚の壁石、4枚の床石は、それぞれ国営飛鳥歴史公園内の修理施設に移され、10年をかけた保存修理が現在実施されている。修理完成後はもとの古墳へ戻される予定になっているという。

 理作業室は室温21度、湿度55%に保たれ、そこで文化庁の委託を受けた美術工芸品専門の修理技術者約20人が、海藻を原料としたフノリで汚れを浮き出させたり、紫外線レーザーで分解したりしてカビなどの除去作業を続けている。しかし、汚れが下地の漆喰の奥まで達していて、完全には除去できないものもあるという。

一般公開の様子
修理作業室一般公開の様子
画の修理作業室は平成20年(2008)から年2回ずつ一般公開されてきた。一般公開と言っても、壁画の置かれた部屋を窓ガラス越しに眺めるだけである。主な壁画が描かれた石壁が窓際に並べられるが、ガラス越しにのぞき込んでも、絵そのものははっきりと識別できない。そのためか、最初の頃は希望者の数が多く事前に抽選が行われたが、近年は予定の募集人数に達しないこともあるという。

 松塚古墳は7世紀末から8世紀の初め頃に造られた終末期古墳である。表土を剥いだ発掘調査の際、古墳の下の遺物包含層から7世紀中頃の土器が発見されたが、版築の最下層からは藤原京時代の須恵器の蓋が出土した。この蓋が古墳の築造時期を推定する有力な手がかりとなり、700年前後の築造であることが確定した。

 かし、発見から40年を経た現在になっても、高松塚古墳の被葬者が特定されていない。今まで被葬者の候補として挙げられたのは、忍壁親王(705年没)、川島皇子(6941年没)、弓削皇子(699年没)、葛野王(705年没)、あるいは日本に亡命してきた高句麗の王族など諸説がある。名門・物部氏の総帥で左大臣まで歴任した石上朝臣麻呂も被葬者の候補にあがっている だが、墓誌銘のような決定的な証拠がないため、被葬者の想定はできても,特定はできないだろう。

高松塚古墳の石槨に描かれていた彩色壁画

高松塚古墳の壁画の構成

西壁
西壁

東壁
東壁

青龍・白虎・玄武
青龍・白虎・玄武

日象、月像

西壁女人像の劣化の進捗状況
西壁女人像の劣化の進捗状況




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