甘樫丘東麓遺跡(あまかしのおかとうろくいせき): 乙巳の変(いっしのへん)で焼け落ちた蘇我入鹿(そがのいるか)の邸宅跡地?、それとも・・・

甘樫丘東麓遺跡の発掘現場
平成17年(2005)に行われた甘樫丘東麓遺跡の発掘現場の現地説明会の様子

専門家は甘樫丘東麓遺跡を蘇我入鹿(そがのいるか)谷の宮門(はざまのみかど)と断定していない

 日本書紀』の皇極紀に次のような有名な一節がある。
皇極天皇3年(644)冬11月、蘇我大臣蝦夷(そがのおおおみえみし)・子入鹿臣(いるかのおみ)、家を甘樫丘に(なら)()つ。大臣の家を呼びて上の宮門(うえのみかど)という。入鹿が家をば谷の宮門(はざまのみかど)という。(中略)家の外に城柵(きかき)を作り、門の()兵庫(つわものぐら)を作る。門ごとに水盛るる舟一つ、木鈎(きかぎ)数十を置きて火の災いに備う。つねに力人(ちからひと)をして(つわもの)を持ちて家を守らしむ。

入鹿の首塚付近から甘樫丘を望む
入鹿の首塚付近から甘樫丘を望む
 まり、645年6月12日の乙巳の変(いっしのへん)が勃発するわずか7ヶ月前に、蘇我蝦夷・入鹿父子は家を甘樫丘に並べて建て、蝦夷の家を上の宮門(うえのみかど)、入鹿の家を谷の宮門(はざまのみかど)と呼んだ。そして、家の外に砦の柵を囲い、門の脇に武器庫を設け、家ごとに用水桶を配置し、木鈎を数十置いて火事に備えた。さらに、力のある者に武器を持たせ常に家を守らせたという。

 れでは、蝦夷と入鹿が甘樫丘に要塞を築いたようなものである。すでに蘇我氏の専横に対する怨嗟の声は方々で上がっていた。蘇我本宗家を打倒しようとする秘密組織が存在することも次第に分かってきた。蝦夷と入鹿はそうした目に見えない敵に備えるとともに、蘇我氏の権勢を民衆に知らしめるためにも、時の女帝・皇極天皇の飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)をも眼下に見下ろすことのできる場所に邸宅を構える必要があったと思われる。

「多武峰縁起絵巻」が描く蘇我入鹿誅殺の場面
「多武峰縁起絵巻」が描く蘇我入鹿誅殺の場面

 年6月12日、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)を首班とする革命派は、飛鳥板蓋宮での三韓朝貢の儀式の最中に入鹿を惨殺した。彼らは法興寺(=飛鳥寺)に立てこもると、多くの豪族に糾合を呼びかけ、入鹿の屍を蝦夷の上の宮門に送りつけた。軍勢が方々から法興寺に参集してくるのを甘樫丘の上の宮門から望見できる。蝦夷は時代の趨勢が変わったのを悟って、翌日邸宅に火を放って自殺し、繁栄を誇った蘇我本宗家はこうして滅亡した。最後の砦だった上の宮門と谷の宮門は、その名称から推して甘樫丘の尾根付近と少し下がった谷部の奥に位置していたと思われるが、現在まで所在は確認されていない。

 日香村の甘樫丘(あまかしのおか)の東縁に沿って、雷丘(いかずちのおか)方面から南に延びる県道がある。飛鳥川に架かる飛鳥橋を渡ると、県道は川原地区に入る。そのまま進めば、やがて県道155号線にぶつかるが、その交差点と飛鳥橋のほぼ中間点付近で右手を見れば、一段高くなった山麓の林の中にトイレ付きの駐車場がある。

平成6年(1994)に実施された最初の発掘調査区 平成6年(1994)の調査で焼土層から出土した遺物
平成6年(1994)に実施された
最初の発掘調査区
平成6年(1994)の調査で
焼土層から出土した遺物

 成6年(1994)、この駐車場を建設するために事前発掘調査が行われた。そして、7世紀後半から末にかけて大規模な土地の造成が行われたことや、7世紀中頃の焼土層が存在することがわかった。焼土層からは焼けた木材や土、土器などが出土し、乙巳の変で焼け落ちた蘇我入鹿の邸宅跡地ではないか、とマスコミで騒がれた。しかし、邸宅跡を確定するだけの資料は得られず、「甘樫丘東麓遺跡」と命名されたにすぎなかった。

平成17年(2005)に試掘された中心部分
平成17年(2005)に試掘された中心部分
 成17年(2005)、駐車場の西側を造園化する計画が持ち上がり、奈良文化財研究所(=奈文研)は6000平米の平地のうち、幅5m、総延長145mの細長い調査区を設定して遺跡確認のための試掘を行った(調査面積は725平米)。 その結果、五棟の掘立柱建物跡と一列の塀跡が見つかった。以前に蘇我入鹿の邸宅跡ではないかと騒がれた場所から、ついに建物跡が見つかったのである。メディアは奈文研の発表を大きく取り上げ、まるで蘇我入鹿の邸宅跡が発見されたような見出し付で報道した。

 かし、奈文研は入鹿の邸宅跡とは断定していない。発掘を行なったのは、約725平米にすぎず、しかも見つかった五棟の掘立柱建物跡のうち規模が確認できたのは1棟だけである。その規模は南北3.6m、東西10.5mと小さく、邸宅跡と呼べる大きさではない。そのため、奈文研はこの辺りに入鹿の邸宅があった可能性は否定できないが、結論は来年度以降の本格調査を待ちたいとした。

 年の事前調査で試し掘りを行なった結果、この谷に数棟の掘立柱建物跡が存在することが明らかになった。そのため、2006年度から本格的な学術調査を実施することになり、この年は谷の奥に916平米の調査区が設定された。そして、7世紀前半から中頃までの石垣を約34mにわたって確認した。また、谷全体で整地跡と建物群、炉跡、溝などを検出が検出され、7 世紀から8 世紀初頭にかけて、谷を大規模に造成し、土地利用を行っている様相が明らかになった。

 れらの遺構はT期(7世紀前半)、U期(7世紀後半)、V期(7世紀末頃)の3時期に分けられるという。
●T期(7世紀前半):石垣、建物1棟、塀1条、溝1条
●U期(7世紀中頃〜後半):建物6棟(うち2棟は総柱建物)、塀1条、石敷、石組溝
●V期(7世紀末):建物1棟、炉4基、溝2条

現地説明会の様子

 文研は平成19年(2007)2月1日、7世紀前半の大規模な石垣や建物跡などが甘樫丘東麓遺跡で発見されたと各報道機関に記者発表した。翌日の新聞各社はその記者発表を受けて、大規模な石垣が出土したことを大々的に報道した。もちろん、テレビのニュースでも取り上げられた。まるで蘇我入鹿の邸宅の石垣が見つかったとでもとれるような過激な見出しが付いていた。そのため、10日に行われた現地説明会では小雨が降りしきる寒い一日だったにもかかわらず、9000人の見学者が訪れたとのことだ。

遺構平面図(2006年度調査区含む
2007年度調査区遺構平面図(2006年度調査区含む)
 007年度の発掘調査は、谷の奥の前年度の調査区に隣接する場所に950平米の調査区を設定して11月12日から開始された。目的は2つあったという。2005年度の調査で確認された建物群の規模と年代を明らかにすること、そして、谷の奥における建物群の広がりを把握することである。今回の調査で、新たに7世紀の建物3棟、塀3条、土坑2基、溝1条の跡が確認された。

 坑からは整理箱4箱程度の土器片が出土した。 土器は641年から660年のちょうど中間、すなわち650年頃のものと判明した。これにより、建物2とされた総柱建物はT期に属することが判った。T期の建物は7世紀の中頃、すなわち645年の乙巳の変直後の650年頃には廃絶され、その跡地は石垣などを埋め立てて整地しなおし、新たにU期の建物群が建てられたようだ。

2009年度の発掘調査区
2009年度の発掘調査区

 009年度の調査では、谷の入口へと下がっていく部分で、被熱して硬化した面や、炭・焼けた壁土を多量に含む土層、および石敷など確認し、また北側の丘陵の尾根中腹で柱列を検出した。

2011年度の調査区
2011年度の調査区
 011年度は、2009年度の調査で検出した石敷や硬化面の全容解明、谷入口部付近の土地利用の様相の解明を主な目的として、880平米の調査地を設定して発掘をおこなった。しかし平坦面に広がっていた硬化面や被熱面、方形遺構、石敷はいずれも残存状態が悪く、全体の構造や性格は開明できなかった。だが、硬化面や・被熱面は高熱を受けたことを示している。おそらく火を用いる何らかの生産に関わる施設、例えば窯・炉の床面や地下構造などの一部だったと思われる。つまり、今回の調査では、7世紀前半から中頃までに、これまでの甘樫丘東麓遺跡の調査で確認していた石垣・建物・塀などが展開する部分とは性格の異なる場、すなわち一種の工房的な施設の一部が谷入り口部付近に存在することが明らかとなった。

 ずれの新聞社も、この甘樫丘東麓遺跡が『日本書紀』に「谷の宮門」と記された蘇我入鹿の邸宅跡とすでに確定しているような扱いをしているのは、興味深い。だが、考古学を専門とするいずれの学者も、甘樫丘東麓遺跡が蘇我入鹿の邸宅跡とは断定していない。出土した建物遺構が邸宅と呼ぶにはあまりに小規模であるためだ。これらの建物跡が入鹿邸に付随した倉庫や武器庫の可能性までは否定していないが、発掘現場の谷は当代随一の権力者の邸宅を築くには余りに狭い。

隣の谷の発掘調査では、2棟の小さな建物跡を検出

今回の発掘調査地 (撮影 2013/09/06)

甘樫丘地区公園内の発掘調査地
平成25年(2013)、奈文研は発掘調査地を隣の谷に拡張して、A・B・Cの三カ所で合計約1038平米を調査した。A・B地区では、後世の削平が行われていて古代の遺構は確認できなかったが、C地区の調査では、尾根の斜面を削って谷を埋め、東西20m以上、南北30m以上の広い平坦地を造って2棟の建物と溝を築いていたことが判明した。これらの建物や溝は、7世紀の中頃からあまり降らない時期に、廃絶し利用されなくなったという。

建物1は東西4・5m、南北3・9m。13個の柱穴があり、柱穴の配列から高床式の倉庫跡のように思われる。柱列ごとにまとめて穴を掘る「布掘り」式を採用しており、甘樫丘東麓遺跡では初めての発見である。建物2の規模は東西5・4m、南北3mで、建物の性格は不明のことだ。土器などからいずれの建物も7世紀中頃に建てられたと思われる。
建物1跡 建物2跡

いずれの建物も人が居住するには狭すぎるて、何かの貯蔵庫だったようだ。時期的に見て、蘇我蝦夷・入鹿父子が甘樫丘に邸宅を築いた時期に合致しているため、何かの付帯設備だったと思われる。

甘樫丘東麓遺跡は蘇我入鹿の「谷の宮門(はざまのみかど)」か?

 成6年(1994)に発見された「甘樫丘東麓遺跡」が、乙巳の変で焼け落ちた蘇我入鹿の邸宅跡地ではないかとマスコミに騒がれたことを知って、ずいぶん以前にその場所を訪れたことがある。実際に駐車場の端に立って盆地に視線を投げたとき、蘇我入鹿ともあろう者がこんな場所に邸宅を構えたとは、とても思えなかった。前面の丘が北へ張り出していて、あまり視界が効かないのである。

 西暦644年11月に蘇我蝦夷・入鹿親子が甘樫丘に邸宅を構えたという『日本書紀』の記事を読んだとき、彼らの目的は2つあったと直感した。天皇家をもしのぐ権勢を誇り傍若無人に振る舞う若き蘇我本宗家の当主・入鹿に対して、反発を加速させてきた世相を感じ取った父子は一種の不安を感じ始めていたにちがいない。そうした不安を払拭するには、蘇我氏の絶対的な権力を常に意識させるのが一番だ。具体的には、飛鳥の甘南備と敬われてきた甘樫丘に、砦のように柵を巡らした大邸宅を建て、飛鳥の何処にいてもその威容を意識させればよい。まして、武装した大勢の私兵たちに門を守衛させておけば、父子を襲撃しようと心違いするものもおるまい。

 衆に対する威圧を目的として飛鳥に居館を構えるとすれば、甘樫丘のどこでも良いという訳にはいかない。女帝や皇族たちに無言の圧力となり、皇居に参内する豪族たちに蘇我本宗家の圧倒的な権力を意識させるためには、新しい皇居・飛鳥板蓋宮を見下ろせる場所が最低の条件となる。だが、甘樫丘東麓遺跡からは、飛鳥板蓋宮跡が所在したとされている場所は、前方の丘に遮られて全く見えない。一族の権威・権力を誇示するために邸宅を構えるにはもっとも不向きな場所である。

 れに加えて、現在の発掘場所を入鹿の邸宅跡とするには、いささか狭すぎるというのが実感である。現場は、発掘場所の端に沿うように川原展望台へ登る遊歩道が巡らしてある。したがって、谷の部分はこれらの遊歩道の下側に相当することになるが、駐車場の敷地を含めても、それほど広い敷地ではない。

 日本書紀』によれば643年10月、蘇我蝦夷は息子の入鹿に紫冠を授けて大臣になぞらえたという。その後に造営された入鹿の邸宅は、単なる生活空間ではない。時には重臣たちを招集して合議を行なう臨時の会議場になる。外国の使節を私的に招いて饗応する宴会場にもなる。当然それ相当の施設も敷地の中には築かれていたと考えるべきであろう。こうした施設を備えるには、現在の地形や広さは十分とは思えない。

豊浦展望台のある丘の南に広がる谷

 我蝦夷・入鹿父子の立場に立って邸宅を甘樫丘に築くとすれば、筆者ならば現在の豊浦展望台付近に「上の宮門」を、その南に位置する谷に「谷の宮門」を築きたい。豊浦展望台の南に位置する谷は、現在は段々畑や雑草が生い茂る荒れ地ばかりの民有地が広がっている。以前にこの谷を散策したことがあるが、奥が深く、まるで親鳥が羽を広げてヒナをかばうように、谷の南北から丘陵の尾根が東へ延びている。しかも、前面にあたる東側は開け、蘇我氏の氏寺だった飛鳥寺も伝飛鳥板蓋宮も、しっかりと視界におさめることができる。まさに「谷の宮門」をうってつけの場所だ。残念ながら、この谷は国営公園の外にある民有地である。当分発掘する計画はないという。

 我入鹿の邸宅跡とされる理由に関して今一つ疑問がある。平成6年(1994)当時、発掘調査地から7世紀中頃の焼土層が検出され、焼土層からは焼けた木材や土、土器などが出土したため、乙巳の変で焼け落ちた蘇我入鹿の邸宅跡地ではないかとされてきた。しかし、『日本書紀』を良く読めば自明のことだが、乙巳の変直後に蘇我蝦夷が火を放って自殺したのは、「上の宮門」であって、入鹿の邸宅だった「谷の宮門」まで延焼したとは、どこにも書かれていない。2011年度の発掘調査では、1994年の調査地の北側で一種の工房的施設の存在が明らかになった。焼土層は窯や炉の床面や地下構造だった可能性があるのではあるまいか。




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