橿原日記 平成26年(2014)9月24日

龍安寺(りょうあんじ)の石庭が象徴的に表しているものとは・・・・

「龍安寺の石庭」として知られる枯山水の方丈石庭 (撮影 2014/09/24)

衣笠山の山麓に応仁の乱後に建立された臨済宗の禅寺

■ 京都市右京区にある大雲山龍安寺は、臨済宗妙心寺派の寺院である(所在:京都市右京区龍安寺御陵下町13)。三方を築地塀に囲まれた枯山水の方丈庭園は、「龍安寺の石庭」として有名であり、国の史跡・特別名勝として登録され、また「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されている。そのため、国際的にも知名度が高い。

龍安寺の境内地図
■ 京都の著名な神社仏閣は一度は訪れたつもりでいるが、龍安寺は自分の記憶の中では曖昧である。中学時代の修学旅行で関西を訪れたとき、参詣したような気もするが、自信がない。あるいは龍安寺の石庭が芸術雑誌などでよく紹介されているので、その写真を見て訪れた気になっていたのかもしれない。

■ 本日大阪のKが所要で京都に行くので、ついでに龍安寺を見学してくるが付き合うかと連絡があった。台風16号の接近で午後からは雨になるという予報が出ていたので躊躇したが、結局付き合うことにした。JR京都駅で落ち合って、タクシーで龍安寺に向かった。タクシーの運転手はおしゃべり好きで、最近の外国人観光客、特に中国からの観光客のマナーの悪さをさかんに嘆いていた。

■ 龍安寺は、市内北西の衣笠山の山麓にある立命館大学の近くに位置する。京都駅からはかなり離れているが、それでも年間を通して外国人観光客も多いらしい。海外で出版されている旅行ガイドでも、龍安寺は定番の京都観光ルートに組み込まれているためだ。ガイドに説明して貰っても、外人さんに禅の心が本当に分かってもらえるのかな、と運転手はいぶかしげに首をかしげていた。そして、我々普通の日本人にさえ、禅問答といえば一種の謎かけのようで、よく理解できないのに・・・と付け加えた。

龍安寺の山門
■ 観光道路の「きぬかけの道」から龍安寺の駐車場にはいって車を降りると、そこからは茶所の脇を通って緑豊かな木立の間を小径が拝観受付まで続いている。拝観券を購入して山門をくぐると、最初に目にするのが回遊式庭園の鏡容池(きょうようち)である。鏡容池は龍安寺境内のほとんど南半分を占めるほど広大な苑池で、龍安寺創建以前に大徳寺家によって築かれたものである。

■ 江戸時代には、鏡容池はおしどりの名所だった。おしどりの姿はもはや見当たらないが、代わってカモが冬場には池のほとりで羽根を休めている。池の中の「水分石」には甲羅を干す親子亀の姿が見られる。5月から9月までは、黄や赤の睡蓮の花が群生し、境内の色濃い緑と鮮やかな対比を見せている。また、鏡容池の周囲にはさまざま花木が植えられ、一年を通して花の絶えることはない。

龍安寺境内のほとんど南半分を占める鏡容池(きょうようち)

■ 回遊式庭園の中を歩きながら、Kは龍安寺の由来を説明してくれた。この付近一帯は、もともと平安時代末期の公家で左大臣だった藤原実能(ふじわらのさねよし)(1096-1157 )が、衣笠山の西南の麓に営んだ別邸があったところだそうだ。公家たちが実能の別荘の鏡容池(きょうようち)に龍頭の船を浮かべて、歌舞音曲を楽しんでいたことが文献に残っている。実能は別邸の中に仏堂を建て徳大寺と命名した。そのため、後に徳大寺が実能の系図の家名となったとされている。

細川勝元
■ 宝徳2年(1450)、室町幕府管領の細川勝元(1430 - 1473)は、特大寺家の別荘を譲り受けると、帰依していた妙心寺五世の義天玄承(ぎてんげんしょう)禅師を招請して禅寺を建立し、大雪山龍安寺と称した。当時の龍安寺は七堂伽藍を完備していて他の禅宗寺院を圧倒していた。しかし、応仁の乱(1467 - 1477)で戦火にあい灰燼に帰してしまった。

■ 龍安寺が再興されたのは明応8年(1499)のことである。細川勝元の息子の細川政元(ほそかわまさもと)(1466 - 1507)が、龍安寺第四世特芳禅傑(とくほうぜんけつ)和尚を迎えて再興したとされている。そのため、龍安寺では、開基(創立者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承、特芳禅師は中興開山と称している。石庭は特芳禅師の指導によって初めて造られた。その後、豊臣秀吉や江戸幕府は寺領を寄付して保護している。

石段の先に見えてくる方丈の建物

■ 遊歩道の先に緩やかな石段が続き、その上に白壁の巨大な建物が見えてきた。龍安寺の本堂にあたる「方丈(ほうじょう)」である。方丈とは、元来は一丈(約3m)四方の部屋を意味し、禅宗の寺院では住持や長老の居室を指した。「維摩経」には、維摩居士が病臥に伏したとき、彼を見舞った文殊菩薩と大法論と交わした場所が一丈四方の部屋だったとされている。そのことが方丈の語源とされている。方丈は通常は六間取りの平面形式だが、龍安寺の方丈は規模がかなり大きい。横は合計九間で18m、奥行きは合計で十間半で21mもある。南側三室は襖と低い竹の節欄間で軽く仕切って広大な空間を作っている。南側に幅一間半の広縁が造られていて、そこから石庭を見学できる。

寺西乾山の筆に「雲関」 陶淵明の漢詩「飲酒」

■ 庫裏を上がってすぐの所に「雲関」と大書された衝立が置かれている。明治の漢学者寺西乾山(紫芝山人)の筆によるもので、「大雲山 龍安寺」の玄関に当たる場所を「雲山の玄関」すなわち「雲関」と呼んだ。禅宗の宗門書『碧巖録』の第八則に「雲門和尚云く関」という言葉がある。「関」は悟りへの関門という意味の禅語だそうだ。玄関または関所の意味であり、入るために通るところ、または通らねばならない所を指す。玄関を上がった板の間の脇には、2双の屏風に寺西乾山が書いた陶淵明の漢詩「飲酒」が綴られていた。

方丈の部屋

■ 庫裏は龍安寺の方丈(本堂)に続いていた。寛政9年(1797)の火事で龍安寺の方丈、仏殿、開山堂などは焼失したため、慶長2年(1606)に信長の弟の織田信包(おだのぶかね)によって建立された塔頭の西源院からその方丈を移設したものである。南側が広縁となっていて、そこから石庭を拝観できる。見ると、正座して瞑想している女性やデジカメで石庭を写しているものなど大勢の参拝客が長い縁側を陣取っていた。中には、外人夫婦も拝観の栞に併記された英語の解説を読みながら、互いに何かを言い合っていた。
「我々も少し禅というものの雰囲気を味わわせてもらおうか」
と、Kも一段低くなった板の縁に腰を下ろした。

石庭を見入る参拝者たち

■ 龍安寺の石庭は、幅25m、奥行き10mの、およそ75坪ほどの敷地に白砂を敷き詰め、帚目を付け、15個の石を東から五、二、三、二、三と言う風に一見無造作に5カ所に点在させただけのシンプルな枯山水の庭園である。この石庭を一カ所から眺めると、15個ある石の一つか二つは見えないように造られているとのことだ。東洋では十五は完全を意味する。人間は完全ではないから15個の石全部は見えない。見えない石は心眼で見抜くより仕方がないようだ。

龍安寺の石庭:左半分 龍安寺の石庭:右半分

■ 我が国の庭園作りでは、平安時代までは植樹による自然美が尊重された。しかし、鎌倉時代になると、中国北宋から伝わった山水画の影響を受けて、石組が主な鑑賞対象物の地位を占めるようになった。しかも、北宋山水画は、象徴という画法を特徴としている。 象徴的技法による山水画的な石組は、室町時代中期に完成された。龍安寺が造られた室町時代後期である。そのため、石組による空間構成が重要視されている。

■ 象徴的な石組とはどういうことかというと、例えば、一個の石を配置することによって、一つの山または一つの島を感じるように演出することできる。演出に最も大切なことは、庭の中に庭石以外のものを何も置かないことだ。庭石のそばに石灯籠とか植木鉢など人工の品を置くと、石は単なる庭石に引き下がって決して山や島には見えなくなる。龍安寺の庭石は象徴力を最高に生かしているが、それは徹底して樹木を排除したためである。樹木が再び鑑賞の対象物となるのは江戸中期になってからだ。象徴力を最高度に生かしていることで、龍安寺の石庭は天下第一の庭とされている。

柿葺きの油土塀

■ 正面の土塀は、白砂からの照り返しを防ぐために菜種油を入れて練った土でできているそうだ。この油土塀の色から、言い尽くしがたい鄙びた趣を味わうことができる。土塀の屋根は時代によって、瓦葺きにしたり、木材の薄板(厚さ2〜3ミリ)を用いた柿葺(こけらぶ)にした時代があったが、昭和57年(1982)に一部油土塀を修復したときに、現在の柿葺にしたとのことだ。

■ 「雨が少なかったせいか、石の回りの苔がずいぶん赤茶けているね。写真なんかで見る石庭の苔はずいぶん緑鮮やかで、趣が異なる。外人さんにこのような赤茶けた苔の庭が、禅宗の庭だと理解されてはたまらないな」
と、Kが言った。
「ところで、この庭は「七・五・三の庭」とか「虎の子渡し」とか呼ばれているが、何故なんだ?」と、小生が聞くと、Kは親切に教えてくれた。

石庭の模型

■「方丈の入口に、石庭の模型が置かれていただろう。あれを見ると、15個の石を東から五、二、三、二、三と言う風に配置されている。そのため「七・五・三の庭」と称して、中国の五岳や禅の五山になぞらえたり、東から西へ京の東山、男山、双ケ丘、西山、北山に当てているようだ。石の配置を「心」という字の象形とみる説もある」

■ 「では、虎の子渡し」というのは?」
「ウン。白い砂の上に並んだ15個の石が、まるで虎の親子が川を渡っている様に見えることから生まれた空想の産物だろうな。「中国の説法」では、虎の三匹の子には必ず一匹、性の猛悪なものがいるとされている。そのため、母虎は一匹ずつ連れて川をわたるとき、子だけ残しておくと、猛悪な子が他の子を食べてしまう。そこで、母虎はまず猛悪な子を先に対岸に渡し、次ぎに他の子を連れて渡り、猛悪な子を連れて戻る。次いで別の子を連れて渡り、最後に猛悪な子を連れて渡るそうだ」

■ Kは続けた。
「この石庭が自然の景観を写していると見るならば、大海に浮かぶ島々とも、流水の中に横たわる大小の岩とみることもできる。白砂を雲に見立てて、雲海の上に聳える峯と見ることもできる。石の配置が夜空に輝くカシオペア座のWの字形に似ていることから「横釣三点、突きに似、星のごとし」などと禅語に結びつけて考える人もいるそうだ。いずれにしても、見る人の自由な解釈や連想をほしいままにさせる庭は、見た目はすこぶる単純だが、その中に秘められた魅力は大きい」

秀吉が絶賛したという侘助椿(わびすけつばき)
銭形の形をした蹲踞(つくばい)
■ Kに言われてみれば、岩とそれにまつわる苔と、それらを取り囲む白い砂に描かれた筋目は、言い知れぬ簡素な落ち着きと、枯れた気高い美しさを醸し出しているようだ。そのため、見る人によっては深い感動を呼び起こさせるかもしれない。だが、凡人の小生には、大海に浮かぶ島々を模している程度にしか見えない。

■ 石庭の砂紋は一週間に一度修行中の学僧が引くそうだ。一度竹箒で白砂を平らにならし、石のところは回りを引いてから、東の端から後ずさりしながらまっすぐな線を引く。心を落ち着けて無心で引かなければ、雑念が入って線が曲がるそうだ。

■ 方丈の裏側に回ると、加藤清正が朝鮮から持ち帰り秀吉が絶賛したという侘助椿(わびすけつばき)の老木が書院中庭の龍安寺垣根のかたわらで、今も枯淡な趣をそえている。可憐で半開・一重の花を咲かせる侘助椿は、日本人独特の「侘 」「寂」の精神世界における美的感覚を象徴する花である。

蹲踞 (拡大)
■ その近くに、銭形の形をした蹲踞(つくばい) (手水鉢)が据えられている。上面に文字が書かれていて、中央の口を四方が共用し、「吾れ、唯だ、足ることを知る」と読む。徳川光圀が「大日本史」の編纂にあたって、重要文化財の西源院本「太平記」を借りたことに対する謝礼として寄進したものと言われている。

■ 方丈を後にして、回遊式庭園の鏡容池(きょうようち)の縁を一周する方向に散策した。こちらは石庭とは違って木鑑賞の庭園である。モミジやサクラを中心に様々が樹木が緑の枝葉を茂らせ、その根元に緑の苔が絨毯のように敷き詰められている。所々に巨岩が配されていて、小生にはこちらも立派な石庭と呼んで良いのではと思えた。

回遊式庭園の中の巨岩

■ 龍安寺名物「七くさ湯どうふ」の看板を掲げた場所に出た。龍安寺西源院の食事処だった。
「昼時も過ぎて腹が空いてきたころだ。ここで湯豆腐を食べていこう。ダイエット中の君には、低カロリーで丁度良いだろう」 と、Kはこちらの返事も待たずに暖簾をくぐった。参拝順路の横に入り口があり、庭が美しい食事処だった。

湯豆腐処「七くさ湯どうふ」 食事処の座敷

龍安寺名物「七草湯豆腐」
■ 座敷はかなりの広さだったが、大勢の先客がいた。方丈で見かけた外人の夫婦も先に来ていた。二人の会話を聞くともなしに耳を傾けてみたが、英語ではない。東欧系の言葉のようにも思えたが判然としない。

■ 空いた席に座ると、障子に嵌め込まれたガラスを通して、美しい日本式庭園を望むことができる。七草湯豆腐を頼むと、しばらくして厨房で温められたものが届き、七輪の上に置かれた。文化財保護のため七輪の炭には、火が入っていない。七草といっても、七草粥の七草とは違う。季節によっていろんな野菜を入れるようだ。豆腐は木綿豆腐だったが、大豆の味と香りが濃厚で、美味しかった。

【参考・引用文献】松倉紹英・水野克比古共著『京の古寺から16 龍安寺』

2014/09/25作成 by pancho_de_ohsei
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