2007/10/12
世界遺産に登録されたばかりの石見銀山を訪れる

"黄金の椅子に座った乞食”の国の奴隷制度の象徴としての負の世界遺産

■”黄金の椅子に座った乞食”とか”銀の塊を背負ったロバ”などと揶揄されてきた国がある。筆者が若い頃勤務した経験のある南米の内陸国ボリビアである。地下に豊富な天然資源を持ちながら、開発資金が無いために、ボリビアはその資源を有効に生かして国を富ますことが出来なかった。そのことに対する揶揄である。

ポトシ市街地
ポトシ市街地の背後にそびえるセロ・リコ(宝の丘)
■例えば、取引関係があった客先の会長は地下資源ではないが、広大なサトウキビ農園を経営していた。しかし、当時のボリビアには製糖工場がなかったため、刈り取ったサトウキビを隣国のブラジルに輸出し、代わりに精糖を輸入していた。

■ボリビアには、鉱山都市ポトシ(Potosí)がある。人が住む都市としては世界で最も高い標高4070mに築かれた町だ。この町を有名にしたのは、かって世界最大の銀の採掘量を誇ったポトシ銀山である。1532年にインカ帝国を滅ぼしてかららわずか13年後の1545年、南米で宝探しを続けていたスペイン人たちはこの地で銀山を見つけ出した。それがポトシ銀山である。

■ポトシ銀山という呼称は正式の名前ではない。正式名称は、スペイン語で「宝の丘」を意味するセロ・リコ(Cerro Rico)である。スペインはインディヘナ(indigena、原住民)やアフリカからつれてきた黒人奴隷をセロ・リコでの採掘に酷使し、大量の銀をせっせとヨーロッパに持ち込んだ。その結果、セロ・リコ銀山はスペイン帝国を支える”打ち出の小槌”となったが、その反面、ヨーロッパの銀の世界を一変させた。廉価な銀の大量移入が、16世紀半ばからおよそ100年近くにわたってヨーロッパ全体を”インフレのルツボ”に引き込んだ。

ポトシ市街
ポトシ市街
■宝の山であるはずのセロ・リコは、しかしボリビアに何の富ももたらさなかった。セロ・リコがもたらしたのは、銀山での過酷な労働と病気で次々と死んでいった鉱夫たちの死体の山である。一説には、800万人が犠牲になったとされており、セロ・リコは「人を食う山」とも呼ばれた。

■セロ・リコの銀鉱脈は19世紀にはすっかり枯渇してしまった。しかし、19世紀末からは、錫(すず)が大量に採掘されふたたび活況を呈した、現在では錫もほぼ枯渇している。1987年、そのセロ・リコや他の構造物を含めて、ポトシ市街が奴隷制度の象徴として世界遺産に登録された。我が国の石見(いわみ)銀山の世界遺産登録に先立つ20年前のことである。

■したがって、石見銀山を世界遺産に登録する動きがあると聞いたとき、筆者の脳裏に先ず浮かんだのは、セロ・リコのあの殺伐とした風景だった。セロ・リコとは対照的な理由で世界遺産に登録されたと知ったのは、つい最近のことである。

"「山陰の歴史探訪バスツアー」で訪れた石見銀山

■ 「石見銀山遺跡とその文化的景観」が今年の6月28日、ユネスコ(UNESCO)の世界文化遺産に登録された。だが、登録までの道のりは決して平坦ではなかった。今年の5月、ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(ICOMOS)は、遺跡の普遍的価値の証明が不十分であることを理由に一度は「石見銀山は登録延期が適当」と勧告した。

国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)のロゴ
国際連合教育科学文化機関
(ユネスコ)のロゴ
■そこで、我が国のユネスコ政府代表部は、石見銀山が「山を崩したり森林を伐採したりせず、狭い坑道を掘り進んで採掘するという環境に配慮した生産方式」であることを積極的に紹介し、巻き返しのための外交活動を展開した。

■その結果、「21世紀が必要としている環境への配慮」が、すでにこの場所で行われていたことが評価され、今年の6月28日、世界遺産委員会の審議で、世界遺産(文化遺産)としての登録が満場一致で正式に決定された。環境に対する優しさの配慮という現代の風潮が、石見銀山を世界遺産に押し上げたとも言えよう。

■市民団体(NPO)OSAKAゆめネットが企画した「山陰の歴史探訪バスツアー」では、2日目に石見銀山の見学が予定されていた。そのことがこのバスツアーへの参加を決意した理由の一つでもある。


■10月12日の午前8時、玉造温泉の「ホテル玉泉」を出発したバスは、進路を西に取り国道9号線を石見銀山に向かってひた走った。松江市内では右側の車窓に波静かな宍道湖が見え、出雲市に入ると神西湖を過ぎたあたりから日本海が見え隠れした。

■国道9号線は、山陰の海岸線に沿って右に左にカーブしながらどこまでも続いている。ずいぶん昔のことだが、広島から浜田に出て、国道9号線を出雲まで車を走らせたことがる。浜田JCTで高速道路を出たとき、すでに夜のとばりが下りていた。前を行くトラックの尾灯を必死に追いかけながら、暗闇の中を今とは逆方向に走ったのはこの道である。

石見銀山の観光マップ
石見銀山の観光マップ
■大田市仁摩町に入って国道9号線に別れを告げ、バスは潮川に沿って県道31号線を山間に入っていった。石見銀山トンネルを抜けると、石見銀山の大森代官所跡近くの観光バス乗降所で止まった。玉造温泉から約2時間の長旅だった。

■石見銀山は、自然との共生の中で栄えた銀鉱山であり、閉山後はその遺跡が周囲の自然の中にとけ込みながら残っている。遺跡と言っても、山腹の所々に口を開けている坑道の入口が鉱山のシンボルとして目につく程度である。特にシンボリックなものは一見しただけでは目に付かない。だが石見銀山の価値は、遺跡とそれらを取り巻く自然、そしてそこに住む人々の調和した姿にある、とされている。

■そうした人類共通の”財産(たから)”を守り後世に引き継いで行くために、石見銀山では車の乗り入れを原則禁止し、石見銀山駐車場−代官所跡、および代官所跡−龍源寺間歩の二区間に専用の路線バスを運行している。

 ボランティアガイドから石見銀山の歴史を聞く

■石見銀山遺跡は大森地区、温泉津地区、鞆ケ浦地区など広範囲に広がっている。大森地区だけでも、間歩(まぶ)と呼ばれる坑道が点在する銀山地区と、銀山の外郭町として様々な古い建物が残る町並み地区からなる。本来なら、当時の銀山での生活を垣間見るため、先ず町並み地区を見学し、その後銀山遊歩道を散策しながら、唯一公開されている龍源寺間歩に向かうべきなのだろう。

■だが、今回のバスツアーは午後に出雲大社と古代出雲歴史博物館の見学が予定されており、時間の制約があった。そのため、ボランティアガイド付きで先ず龍源寺間歩を見学し、時間があれば羅漢寺の五百羅漢か町並み地区の一部を見学することになっていた。

■専用の路線バスの到着を待つ時間を利用して、ボランティアガイドのAさんが石見銀山の歴史の概略を説明してくれた(石見銀山に関してはホームページ 「石見銀山」資料に詳しい)。

石見銀山公園の入口
石見銀山公園の入口
■彼の話によると、石見銀山の歴史は1526年(大永6年)に始まる。その年、九州博多の豪商・神屋寿禎(かみやじゅてい)が仁摩町の韓島沖(からしまおき)を船で航海中に、山中に光るものを見つけた。船頭にたずねると、観音を祀る清水寺(せいすいじ)という寺が山中にあり、そこの霊が時々光を発するのだという。信心深い寿禎は、さっそく温泉津湊に船を泊め、清水寺に詣でて観音を拝み、その帰り道、足元に光る銀鉱石を見つけたと伝えられている。

■Aさんは、別の話も付け加えた。大水や崖崩れなどで銀鉱石が地表に露出しても、空気に長く触れていると一週間ほどで黒くなって光らなくなるそうだ。しかし、この付近の山には鉱物を好むシダが生えている。一般のシダは年中青いが、このシダは冬には枯れ、春にまた芽をふく。神屋寿禎は山草学を身につけていて、この山に入ったとき、このシダを見て鉱脈の存在を確信したのではないかという。

■さらに、寿禎は川詰めという方法で鉱脈に行き当たったのではないか、とAさんは言う。銀鉱石は重量が重く、表面が黒い。そうした石を拾って、本流から支流へ、さらにその支流へと詰めていって銀の鉱脈を見つけたのかもしれない。

■神屋寿禎は領主の大内義興の許可を貰い、当時出雲で銅山を経営していた山師などの協力をえて銀鉱石を掘り出している。もっとも当時の採掘法は露天掘りである。そして、採掘された銀鉱石はその場で精錬するのではなく、博多あるいは朝鮮半島に送っていた。この方法はコストがかかる上に無駄が多い。そこで、1533年(天文2年)、寿禎は、朝鮮(中国?)から宗丹、慶寿という二人の禅門を招いて、「灰吹法(はいふきほう)」という銀精錬技術を導入した。アンデス山中でスペイン人たちがセロ・リコを発見するわずか12年前のことである。

龍源寺間歩へ向かう遊歩道<
龍源寺間歩へ向かう遊歩道
遊歩道の脇に点在する間歩の一つ
遊歩道の脇に点在する間歩の一つ
■灰吹法では、先ず銀鉱石を細かく砕き、これに鉛とマンガンなどの溶剤を加えて溶解する。そして溶解によって浮き上がってくる鉄などの不純物を取り除き、貴鉛と呼ばれる銀と鉛の合金を作る。次ぎに、灰を入れた「るつぼ」の中で貴鉛を加熱して鉛を灰に吸着させ、銀だけを取り出す。この灰吹法の導入によって、現場で加工し、純度の高い銀を得ることができるようになった。また、大幅な増産とコスト削減が可能になり、安価な日本銀を求めて中国やポルトガルといった外国船が日本沿岸に現れるようになった。

■銀山が本格的に開発された時代は、日本では「下克上」に象徴される戦国時代である。自己の勢力拡大のため多額の軍資金を必要とした戟国大名にとっては、石見銀山はまさに争奪の的となった。当初銀山の領有は、周防国の大内義興の手にあったが、その後、出雲国の尼子晴久が大内氏から銀山を奪い、さらに毛利元就は石見国に進出し、山吹城を攻め落とし、石見銀山をその手中へと収めた。

■慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、それから僅か10日後の9月25日、石見銀山周辺の7ヶ村に禁制を発し、貨幣原料の供給地として石見銀山を直轄領とした。10月中旬には、家康の信頼を受けた大久保長安が石見銀山に入り、初代銀山奉行となった。長安は「直山制」を採用して公費投入による間歩の開発を行なうなど様々な改革を行ない銀の増産に成功した。

■16〜17世紀の約100年間に、石見銀山から大量の銀が採掘され、大内・尼子・毛利などの戦国大名の軍資金や徳川幕府の財源として使われた。石見銀山は佐摩(さま)村にあったため、「ソーマ(soma)銀」と呼ばれ、海外にも大量に輸出された。17世紀前半の石見銀山の産出量は年間約1万貫(約38トン)と推定されている。これは当時の世界の産出量の約1/3に相当する。

■石見銀山は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての日本最大の銀山だった。一時は人口20万人を超えたと言われている。だが、寛永期(1624−44)の中頃から漸次衰退し、産銀量も大幅に減少するようになった。明治時代になると、銀山の経営は民間の手に移り、明治19年(1886)からは藤田組によって開発が進められたが振るわず、大正12年(1923)に400年の長い歴史に幕を閉じた。

石見銀山の龍源寺間歩の坑内を見学

龍源寺間歩の入場券
龍源寺間歩の入場券
■銀を採掘した坑道を、この地方の方言で間歩(まぶ)と呼んでいる。石見銀山では、今までの調査で露頭堀も含めて600以上の間歩の存在が確認されているが、現在公開されている唯一の間歩は龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)だけである。大森代官所跡の近くにある城上(きがみ)神社から龍源寺間歩までのおよそ3.1キロの道は、2004年に「美しい日本の歩きたくなる道500選」に選ばれた。有料の路線バスが、この区間を平日は30分に1本、土日祝日は15分の1本で運行し、8分ほどで終点の「龍源寺間歩」バス停まで運んでくれる。

高橋家遺宅と軒先に置かれた要石
高橋家遺宅と軒先に置かれた要石
■「龍源寺間歩」バス停から少し歩いたところに、「御料銀山町年寄山組頭遺宅 高橋家」があった。、「山組頭」とは鉱山の取締役で、坑夫の人事や物資の購入など銀山の稼方全般の諸事項を監督する役目をもっていた。高橋家は代々、町年寄や山組頭など、山方・町方の役人を勤めた家だそうだ。

■高橋家の軒先に馬を繋いだ石と要石(かなめいし)が置いてあった。ガイドのAさんの説明によると、要石は銀鉱石を粉に砕くのに用いたものだそうだ。

■龍源寺間歩は正徳5年(1715)に開発された代官所直営の間歩(=坑道)で、石見銀山では大久保間歩についで大きい。ここから良質の銀鉱石が昭和18年(1943)まで228年間掘り続けられたそうだ。江戸時代に掘られた坑道は、長さが約600m、高さが1.6m〜2.1m、幅が0.9m〜1.5mを測り、ノミで掘った跡が当時のままの状態で残っている。

龍源寺間歩の入口 龍源寺間歩の内部
龍源寺間歩の入口 龍源寺間歩の内部

■鉱石を掘る際、鉱脈にそって掘り進んでいく工法を「樋押(ひおし)」という。石見銀山でも露天掘りの段階ではこの方法で鉱石を掘っていた。しかし、樋押法では十分な成果を上げることができず、やがて時代が下ると「横相(よこあい)」という工法が導入された。これは、鉱脈に対して直角に坑道を掘る方法で、掘っていく間にいくつもの鉱脈に突き当たることができて効率がよく、これを利用して排水もできる。遅くとも慶長5年(1600)ごろにはこの「横相」方法が採用されたようだ。

樋押工法で掘られた穴 樋押工法で掘られた穴
樋押工法で掘られた穴 同左

■500番の龍源寺間歩は横相法で掘られた全長600mの坑道だが、一般に公開されているのは入口から156.7mまでである。そこから先は危険なため進入が禁じられている。その間に突き当たった鉱脈を樋押法で掘り進んだ穴が、左右の壁に20数坑あるという。

進入が禁じられた龍源寺間歩の奥
進入が禁じられた龍源寺間歩の奥
■Aさんが案内しながら話してくれた中で興味深かったのは、鉱夫たちの待遇である。Aさんは、鉱夫たちの中には罪人は一人もいなかったことを強調された。佐渡金山は罪人や無宿人を送り込んで採掘を行っていたと聞いていただけに、これは驚きだった。鉱夫には一日3合の米が、怪我をして間歩に入らずに休んでいる場合でも1合5尺の米が支給された。また、一日2分(今の金に換算すると5千円)の金を支払ったとのことだ。

■間歩での採掘は24時間フル操業で、5交替制をしいていた。鉱夫たちはサザエの殻にエゴマを入れて灯りとして持って入り、堀場の近くに置いていた。間歩に入って仕事をするものには、マスクが与えられ、マスクに梅肉を付けて仕事をさせたという。

■こうしたことが、当時はこの地域では罪人は使用していなかった証拠とされているが、しかし、仕事はやはり厳しかったようだ。鉱夫は15歳ごろから掘り始めて、30歳を迎えたら尾頭付きで祝ったそうだ。つまり、30歳まで生き延びられる鉱夫は少なかったということである。

■平成元年に龍源寺間歩の入口から156.7mの所から鍵状に上り坂の斜坑が新しく掘られ、栃畑谷(とちはただに)というところに出られるようになった。この新坑道116.4mの右側の壁には、「石見銀山絵巻」が電照板で展示されている。このため、見学者は歩きながら、当時の構内の様子を知ることができる。

新坑道に置かれた電照板の一つ 龍源寺間歩の出口
新坑道に置かれた電照板の一つ 龍源寺間歩の出口

銀山で働く坑夫の安全と供養のために寄進された羅漢像

■帰りのバスツアーのバスは銀山公園前から出る。出発までに少し時間があったので、石室山(いしむろざん)羅漢寺の五百羅漢を見学することになった。銀山川の支流に美しい反(そ)り橋が3本かけられている。その端の対岸に2つの石窟が築かれ、その中に石像の羅漢像が250体ずつ安置されている。

銀山川の支流にかかる反り橋 羅漢像が置かれた石窟
銀山川の支流にかかる反り橋 羅漢像が置かれた石窟

■これらの五百羅漢の建造を発願したのは、大森の観世音寺住職・月海浄印だった。目的は銀山で働いて亡くなった坑夫たちの供養や、銀山で働いている鉱夫たちの安全祈願だった。住職の目的に賛同して地元の住人や大森代官所の役人、当時の代官など多くの人々の寄進もあり、約20年の歳月をかけて、五百羅漢座像が明和3年(1766)3月に完成した。造像を請け負ったのは、現在の温泉津(ゆのつ)町の石工・坪内平七とその子、および一門だった。

石窟山(いしむろざん)羅漢寺
石室山(いしむろざん)羅漢寺
■反り橋は老朽化していて、一度に三人以上渡らないよう注意書きがあった。反り橋の一つを渡って石窟にはいると、そこには実にさまざまな表情と姿勢をした羅漢像が並んでいた。石窟内は撮影が禁止されていたので、残念ながらそうした姿や表情をここでは示すことはできない。

■250年近い歳月を経ているのに、それぞれの羅漢に施された色がまだ残っていた。石窟内に安置されて来たため、風雨に曝されることがなかったためだそうだ。羅漢寺はこの五百羅漢を護るために建立されたという。



2007/10/27作成 by pancho_de_ohsei
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