2008/08/25
東漢氏(やまとのあやうじ)の族長を埋葬したと思われる与楽(ようらく)カンジョ古墳


正面から見た与楽カンジョ古墳
正面から見た与楽カンジョ古墳 (2008/08/24 撮影)

 道路脇にありながら、今まで気づかなかった与楽カンジョ古墳

■ 高取町の教育委員会は、去る8月5日、与楽カンジョ古墳の床面に堆積していた土砂を除去したら、石室の高さが明日香村の石舞台古墳をしのぐ5.27mであることが判明したと発表した。ちなみに、石舞台古墳の石室の高さは約4.8mである。

■ 「与楽カンジョ古墳? いったい何処にあるの?」
と、ニュースに接して思わず絶句した。これでも筆者は史跡探訪の名を借りて、明日香地方の著名な古墳をほとんど見学したつもりでいた。まだ所在地が知らない古墳があったなんて、いささか驚きだ。所在地は奈良県高市郡高取町大字与楽とある。近鉄吉野線の飛鳥駅から徒歩でアクセスできるという。その位置をさっそく地図で調べてみたが、手持ちの地図には載っていない。結局、橿原に戻ってから訪れることにした。

与楽カンジョ古墳付近のマップ
与楽カンジョ古墳付近のマップ
■ 先週の末に橿原のアパートに戻ったので、本日さっそく与楽カンジョ古墳を訪ねることにした。 与楽(ようらく)は、明日香村の真弓(まゆみ)の西に接する地域だが、隣町の高取町に属する。地図で確認すると、近鉄吉野線の「飛鳥」駅の南約300m付近から東西に走る道路沿いにあり、真弓の丘を越えたところにある。

■ この道路は今年の2月9日にも歩いたことがある。真弓鑵子塚(まゆみかんすづか)古墳の現地説明会が開催された日だ。雪が降りしきる最悪の日で、長蛇の列ができていた(2月9日付け橿原日記参照)。高取川にかかる真弓橋を渡り、急坂の真弓の丘を越えて行くと、下り坂の途中で右手に鑵子塚古墳が見える。坂道を下ってさらに西に進むと、真弓橋からおよそ1.2kmで飛鳥病院の前に出る。

飛鳥病院遠望
飛鳥病院遠望。古墳は病院の向かって右隣にある。
■ 飛鳥病院の手前にT字路があり、曲がり角に標識が立っていた。与楽カンジョ古墳方面への標識だと思ったが、鑵子塚古墳貝吹山城跡の表示だけで、カンジョ古墳の名はない。T字路に立って南を見ると、道は与楽の集落へ続いている。古墳はおそらく集落の背後あたりだろうと見当をつけて集落に入った。

■ たまたま民家から出てきた婦人がいたので古墳の場所を聞くと、何のことはない、先ほどのT字路の傍だという。貝吹山から南に延びてきた丘陵の先端に位置し、飛鳥病院の手前の道路沿いにあるという。先ほどの標識あたりまで戻って確認すると、農家の物置小屋の陰に隠れて見分けにくかったが、墳丘をシートで覆った調査中の盛り土があった。

古墳の被葬者は、檜隈(ひのくま)地域に盤踞していた東漢氏の族長か?

道路から少し登ったところにある標識 墳丘の北側と西側が大きく削られた古墳
道路から少し登ったところにある標識 墳丘の北側と西側が大きく削られた古墳

■ 畑の中の道は道路からわずかに登ったところで二俣に分かれ、小さな祠と標識が立っている。標識を見て、”カンジョ”古墳とは”乾城”古墳と表記することを初めて知った。古墳はその標識から少しばかり西に築かれている。奈良県教育委員会が平成12年(2000)に古墳の前に建てた説明板によると、カンジョ古墳は昭和51年(1976)に県の史跡に指定されている。残念ながら墳丘の北側と西側が大きく削り取られ古墳の原型や規模が分からず、直径約20m前後の円墳と推測されていた。

玄室の入口に設置された扉
玄室の入口に設置された扉
■ しかし、高取町教育委員会が今回実施した調査で、墳丘は一辺36m、高さ11mの2段構造の方墳であることが判明した。つまり、墳丘の形も規模も改められたことになる。

■ 埋葬施設は、南に開いた両袖式の横穴式石室が営まれていた。玄室は四壁とも比較的巨大な石を4〜5段に持ち送りで積み上げ、天井は一石からなり、極めて高く造られている。平成12年の測定では、玄室の長さ約5.7m、幅3.6m、高さ約4.6mだった。しかし、玄室内への土砂の流入が著しく、本来の高さは5m以上と推測された。今回の調査で、石室内に堆積していた土砂を床面まで除去して測定したところ、天井までの高さが5.27mもあった。

■一方、蒼ケは長さが約3m、幅約1.5m、高さ約3mであるが、天井石などは取り払われている。玄室の入口にアルミ製の扉が取り付けられ施錠されているが、扉の隙間から内部を覗くことができる。

玄室の側壁(左) 玄室の奥壁 玄室の側壁(右)
玄室の側壁(左) 玄室の奥壁 玄室の側壁(右)

■ 床の中央には、棺台が築かれていたことも、今回の調査で確認された。調査で見つかったのはその一部で、東西80cm、南北1.3m、高さ15cmを測る。粘質土と炭を交互に重ね、長石の粉で塗り固めた精巧な構造の造り付けの棺台で、築造当初は長さ2m以上あったと推定されている。長石を使った棺台の発見は国内で初めてだそうだ。白い長石を使うことで、真っ暗な石室内に棺台が浮かび上がるように見えたかもしれない。棺台が見つかっているのは、明日香村にある天武・持統天皇陵カヅマヤマ古墳など王家や皇子の墓にほぼ限定されている。そのため、棺台の存在は被葬者を特定する重要な手がかりとなる。

床面から見つかった棺台
床面から見つかった棺台
■ 床面からは、直径1.6cmの銀製指輪のほか、炊飯用具をミニチュア化した副葬品の土器片など渡来系の遺物が見つかっており、木棺によく使われる鉄製のクギもあった。埴輪などの外部施設は見つかっていないが、この古墳の築造時期は6世紀末から7世紀初め頃と推定されている。文献資料に従えば、推古天皇の治世かその前後で、おそらく聖徳太子や蘇我馬子などとも面識があった人物の墓と思われる。

■ 炊飯用具のミニチュア土器片が見つかっている点や渡来系に特有な持ち送り式の石室構造を考慮すると、専門家もこの古墳は東漢(やまとのあや)氏の首長クラスの墓の可能性を示唆している。マスメディアは、今回の調査発表のうち、石室の高さが石舞台を超す国内最大級の横穴式石室であることを特に強調してセンセーショナルに報じ、渡来系・東漢氏の墓とするキャッチコピーが目立つ。残念ながら、真弓丘の特殊性に触れた報道はなかったようだ。

■ 与楽カンジョ古墳の近くには、今年の2月話題になったばかりの真弓鑵子塚がある。こちらも両側石を持ち送りで築きあげた石室をもつ(玄室長約6.5m、幅約4.4m、高さ約4.7m)。6世紀後半の築造と推定されている。さらに、与楽カンジョ古墳の北には、貝吹山から伸びる低い丘陵に、5世紀半ばから6世紀にかけて盛んに造営された総数400基からなる新沢千塚古墳群がある。その大半は渡来系氏族の東漢氏ではないかと推測されている。つまり、真弓の丘は東漢氏の奥津城でもあったのだ。

被葬者は東漢直磐井(やまとのあやのあたい・いわい)

■ 東漢(やまとのあや)氏は、秦(はた)氏と並ぶ渡来系の雄族で、我が国の古代史にさまざまな足跡を残している。そのくせ、実は実態がよく分からない一族なのである。一族ではなくて、「東漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族。最初から同族、血縁関係にあったのではなく、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまっていった」とする歴史学者の故門脇禎二氏の説すらある。

■ 東漢氏は、氏族名に「漢」を用いて、中国系の氏族であると主張し、後漢の霊帝の末裔と称している。しかし、いずれも後の時代に自分たちの系譜の権威付けのために行なった造作に過ぎないとされている。本来の族名は、朝鮮半島の南部にあった加耶(かや)諸国の中の安羅(あら、今の慶尚南道威安郡一帯)に因んだもので、アラがアヤに転訛したようだ。

後部から見た与楽カンジョ古墳
後部から見た与楽カンジョ古墳
■ 彼ら渡来人は安羅を中心とする加耶諸国から戦乱を避けて我が国の移住してきたさまざまな集団だった。それが檜隈(ひのくま)周辺に住み着いて統合的な氏族組織を形成した。つまり、東漢は、飛鳥に近い檜隈を拠点としたさまざまな渡来集団の総称である。

■ したがって、東漢に対して西漢(かわちのあや)と称する氏族も存在した。東漢氏と同様に、加耶諸国からの移住してきて、河内平野に集住した渡来人たちの集団に対する統合的な氏族名である。大和・河内を拠点とする二つの漢氏は、いずれも同じ姓(かばね)の「直」(あたい)を与えられ、大和政権のもとで併存して王権に奉仕してきた。しかし、6世紀末頃までには、双方の漢氏と区別するために、東西を氏名につけて、東漢(やまとのあや)、西漢(かわちのあや)と区別するようになったようだ。

■ 『日本書紀』には、東漢の先祖が渡来した時期を記した有名な記述がある。
「応神天皇20年秋9月、倭漢直の先祖、阿知使主(あちのおみ)が子の都加使主(つかのおみ)と17県の人々を率いてやってきた」
応神天皇は4世紀末〜5世紀初めに実在したとされ、秦氏の祖・弓月君(ゆづきのきみ)をはじめ、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の学問の師となった阿直岐(あちき)や、千字文を伝えたとされる王仁(わに)など、彼の治世に多数の渡来人がやってきたことが伝えられている。

■ 4世紀末から5世紀初めにかけては、朝鮮半島からの大きな渡来の波があった時期とされている。高句麗の広開土王碑によれば、倭国は半島に軍隊を派遣し、倭軍は加羅諸国の金官加羅国を拠点に、西は百済に協力して高句麗と戦ったり、東は新羅領内に侵入してその王都を攻めている。新羅の援軍要請をうけて、広開土王は400年に歩騎5万を新羅に派遣して倭軍を撃破し、金官加羅まで追撃したという。

オミナエシ
カンジョ古墳の近くにさいていたオミナエシ
■ 高句麗軍は数年に渡って加羅諸国に常駐したようだ。当然、各国内でさまざまな武力衝突があったことは想像にかたくない。村の指導者の中には、戦火を避けるために村民を引き連れて日本列島への移住を決意した者もいたであろう。倭漢直の先祖・阿知使主の渡来伝承は、おそらく史実ではあるまい。しかし、当時の東アジアの戦争難民の実態を反映しているものと思われる。

■ 都加使主は雄略天皇の時代(456〜479年)に活躍する東漢掬直(やまとのあやのつかのあたい)と同一人物と考えられており、応神天皇の代の渡来とする書紀の記述をうのみにすることはできない。雄略天皇は死に臨んで世事全般を皇太子(清寧天皇)に託し、東漢掬直らの臣下に対しても、期待を込めた遺詔を残している。また、清寧即位前紀によれば、物部室屋(もののべのもりや)が東漢掬直に命じて、星川皇子の乱を鎮圧させたとある。

■ 5世紀後半から6世紀の初めにかけて、すなわち雄略天皇から欽明天皇の時代は、渡来の波が一層高まりを見せる時期である。この渡来の第二波の契機は、475年に高句麗が百済の都の漢城を陥落させた前後の戦乱にあるとされている。百済は南の熊津に都を遷して、かろうじて国を再興しているが、戦乱を避けて列島に渡ってくる百済人たちが多かった。 また、6世紀になると、百済と新羅に夾まれた加耶諸国は両国の草刈り場の様相を呈してきた。532年には金海加耶などを半島の南岸諸国は新羅に併合されてしまった。

■ 雄略天皇の頃に百済や半島南部から我が国に渡来してきた人々は、それまでの古い渡来者と区別するために”今来の漢人”(いまきのあやひと)と呼ばれた。東漢氏は、多種多様な手工業技術・学芸・知識を有するこうした渡来人たちを配下に取り込むことで、大和政権内に確固たる地位を築いたようだ。東漢氏自身も新興勢力・蘇我氏と結託して、軍事・外交・財政などの諸分野で手腕を発揮した。

■ 通説によれば、東漢氏は都加使主の3人の男子を祖として、兄腹、中腹、弟腹に分かれ、その後さらに分裂を重ねた。そのため、7世紀末頃には18氏、8世紀末から9世紀初頭には70氏を確認できるとのことだ。東漢氏から出た主な氏には坂上氏、平田氏、内蔵氏、大蔵氏、文氏、調氏、文部氏、谷氏、民氏、佐太氏などがある。

見事なズイキ
与楽カンジョ古墳の前の畑の見事なズイキ
■ 奈良時代から平安時代にかけて活躍する武人の坂上苅田麻呂やその子の坂上田村麻呂は、東漢氏につながる家系の出である。『続日本紀』には、坂上苅田麻呂の上表文が引用されている。それによれば、高市郡の住人の8割から9割は渡来系の同族が占めたという。東漢氏は大和東南部の高市郡を本拠としていたが、苅田麻呂の頃の高市郡は東漢氏でなければ人に非ずと言われるほどその末裔たちが集住する土地だったのだろう。

■ 与楽カンジョ古墳が築造された頃、その名を史書に留めている東漢氏の人物がいる。『日本書紀』の崇峻紀に登場する東漢直駒(やまとのあやのあたい・こま)である。当時の政界の第一人者だった蘇我馬子(そがのうまこ)の親衛隊長だったと思われる。崇峻天皇5年(592)11月に馬子の指図で崇峻天皇を暗殺したことで知られるが、その後、崇峻天皇の妃だった馬子の娘・河上姫との不倫関係が発覚し、馬子に殺害されている。

■ 一部の報道によれば、与楽カンジョ古墳の被葬者として、この東漢直駒を比定する説があるようだ。しかし、和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授は、天皇暗殺の大罪人がこれだけ立派な古墳に葬られたとは思えない、と否定的な発言をされておられるが、当然であろう。筆者ならば、駒の父の東漢直磐井(いわい)の名をあげたい。磐井の名は『日本書紀』の中でたった一カ所しか出てこないが、おそらく当時の東漢氏の族長だったであろう。

■ 興味があるのは、真弓鑵子塚(まゆみかんすづか)古墳と与楽カンジョ古墳との関係だ。前者の築造時期は6世紀後半とされ、後者は6世紀末から7世紀初めと推定されている。おそらく両古墳は東漢氏の族長を埋葬した墓であり、築造時期から世代が一代違うと思われる。両者の間には親子関係があったのかもしれない。だが、史書はその頃の東漢氏について何も語ってはくれない。

檜隈寺跡で発見された金銅仏の右手

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檜隈寺跡出の金銅仏の手を伝える朝日新聞
■ 東漢氏に関連して、是非触れておかなければならない発見が最近あった。今さらニュースバリューはないが、去る6月10日、明日香村の教育委員会は「5世紀ごろ朝鮮半島から渡来した東漢氏の氏寺とされる檜隈寺(ひのくまでら)跡で、7世紀後半〜8世紀ごろ(白鳳〜天平期)の金銅仏の右手が見つかった」と発表した。

■ 檜隈寺跡は、近鉄吉野線の「飛鳥」駅前から一直線にキトラ古墳に向かう道路の右手に見える檜隈集落の外れにある。現在はその地に阿智使主(あちのおみ)を祭神として祀る於美阿志神社(おみあしじんじゃ)が鎮座している。

■ 金銅仏の右手は、手首から指先までが残っており、大きさは長さ2.3cm、幅1cm、厚さは手の甲で0.5cmと小さいが、金、銅ともに純度が高く、金の発色が非常に良いとのことだ。仏像本体は20〜25cmだったと推測されている。顔や胴体が見つからないため、どのような造形の仏像だったかは分からない。手はほっそりとしており、指を1本ずつ彫り出す精巧な技法が用いられてるという。

於美阿志神社
檜隈寺跡に鎮座する於美阿志神社
■ 発見された場所は、檜隈寺跡の北西約70mの谷で、中世の瓦などとともに出土した。7世紀後半頃に東漢の氏寺として建立された檜隈寺も、おそらく11世紀から15世紀にかけて徐々に廃れたようだ。村教委も「創建時からあった仏像が、寺の退廃とともに捨てられたのではないか」としている。いずれにしても東漢氏の栄華の一端を伺わせる資料の出土である。



2008/08/26作成 by pancho_de_ohsei
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