キトラ古墳に描かれた朱雀は山鳩タイプの古い絵画?
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| キトラ古墳の南壁に描かれた「朱雀」(*2) |
■ キトラ古墳の南壁に描かれていた「朱雀」(すざく)は、向かって右を向き、首を緩くS字に立てて走りだし、「人の唇」を思わせる雨覆羽(あまおおいはね)とそこから生え広がる風切羽を広げ、尾羽を水平に伸ばしている。今まさに飛翔しようとする鳥の姿を現していて、絵そのものに躍動感が感じられる。
■ くちばしは泥をかぶって良く見えないが、額から赤い冠羽が長く伸びている。下あごから垂れ下がった2つの肉垂も赤い。雨覆羽も風切羽も尾羽も朱色に塗られている。手塚治虫の漫画「火の鳥」のモデルになったような鳥なのだが、どう見てもその姿態は「赤い雀」ではない。
■ そもそも「朱雀」とは何なのか? 以前から気になっていた。長い首や尾羽を見ると、クジャクをモデルにした想像上の瑞獣のようでもある。解説書などを見ると。朱雀とは、中国の伝説上の神獣で、東の青竜・西の白虎・北の玄武と並んで南を守護する四神の一つで、翼を広げた鳳凰状の鳥形で表されるという。五行説では南方の色は赤であり、そのために朱雀と名付けられたという。
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| 天空を飛翔する「火の鳥」 |
■ 鳳凰もクジャクに似た想像上の鳥であり、鳳凰の鳳は雄、凰は雌である。鳳凰のルーツはインドにあるとのことだが、中国で考え出された朱雀と同一視されることが多い。いずれも想像上の神獣で、それぞれの成り立ちによる立場の違いがあるはずだが、その違いが筆者に判然としない。
■ 滋賀県立大学の田中俊明教授によれば、中国の書には朱雀の起源について鶉(うずら)と書いてあるそうだ。鶉の文字は実は鷲(わし)を指すとの指摘もあるという。鳳凰はクジャクをモデルにしたとされているが、クジャクが中国に入ってくるのは漢代ぐらいからで、それ以前はクジャクは知られていなかった。しかし、鳳凰はクジャクが入ってくる以前にもあり、単純にクジャクを起源とするのは問題があるとのことだ。
■ 今回の特別展の図録によれば、我が国の飛鳥・奈良時代には2種類の朱雀図像が存在したようだ。山鳩タイプと孔雀タイプである。山鳩タイプでは、斑模様のある長く伸びたススキ葉形の尾羽や人の唇形の雨覆羽、冠羽以外は、長い毛は見らない。くちばしが比較的短く、また喉から胸が蛇腹状をしているのがこのタイプの特徴である。
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| 薬師寺本尊台座の南面の朱雀 |
■ 山鳩タイプの朱雀は玉虫厨子の海竜王宮図の上段と中段、天寿国繍帳薬師寺本尊台座キトラ古墳などに表されていて、ほぼ7世紀に描かれた図柄である。天寿国繍帳の制作に関わった人物としては、画家の東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)および監督の椋部秦久麻(くらべのはたのくま)の名が伝わっている。いずれも朝鮮半島からの渡来人であり、彼ら中には風水思想や五行思想に精通したものもいたであろう。
■ そうした絵師集団の中に黄文本実(きぶみのほんじつ)という人物がいる。薬師寺が所蔵する「仏足石記」には、彼は唐に赴き普光寺において仏足跡図を写して帰ったと記されている。おそらく、彼のように遣唐使に交じって大陸にわたり、唐代の先進的な絵画の画題、技法、、画材に接していち早く取り入れて日本にもたらした画師もいたであろう。
■ 一方孔雀タイプは、くちばしが曲がっており、後頭部から後ろに長く伸びる毛や、細長くS字にくねる首、斜め上方に伸び反り返る尾羽などが特徴である。また、宝珠を口にくわえたり、首飾りとしてつけたり、首輪状の飾りをつけているものもある。
■ 孔雀タイプは尾羽の形状でA〜Cタイプに分けられるという。Aタイプは、尾羽が真ん中の大きな木の葉の形をした主羽と両脇の細く短い柳葉のような副羽で構成される。Bタイプは、Aタイプの尾羽を簡素化して尾羽を一枚の長大な羽としたもの、Cタイプは多数の細長いススキの葉の形をした羽で尾羽を構成するものをいう。
■ Aタイプのものは、起源が中国の前漢まで遡り、朱雀の図像の一端を伺えるという。Bタイプは唐の時代に盛行し、朝鮮半島でも6世紀代にはA.B両タイプの朱雀が描かれれた。Cタイプは日本で考案されたもののようだ。
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| 江西中墓の玄室の南壁に描かれた一対の朱雀 |
■ 7世紀の日本で見られる孔雀タイプはAタイプが主流で、玉虫厨子の霊鷲山浄土図や海竜王宮図下段のものが最古である。、8世紀代に入ると、A,B両タイプが主流を占めるようになり、図柄も洗練された華麗た姿が多くなる。これは大宝2年(702)に再会された遣唐使の影響によるものと見られている。そのため、高松塚古墳に描かれていた幻の四神「朱雀」は、キトラ古墳のものとは異なった華麗た姿の朱雀ではなかったかと推測されている。
■ もともと鳳凰タイプの朱雀は、墓室の入口などに描かれる場合、2羽一対で描かれるのが本来のものだった。中国の南北朝から唐代にかけてそうした事例が見られるという。北朝鮮の平安南道南浦市にある江西中墓の玄室の南壁には、一対の朱雀が描かれている。赤い玉をくわえ大きく広げた両翼を羽ばたいていて、空中に飛び立とうとする動と静の瞬間を見事に描いていて、優れた壁画である。
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| 国立扶余博物館の金銅製大香炉 |
■ 韓国の扶余から論山方面に3kmほど行った所に陵山里古墳群があり、その左側に、567年に建立された陵山里廃寺の寺址である。1993年12月に陵山里(ヌンサンリ)廃寺の工房跡から金銅製の大香炉が発見され、現在国立扶余博物館にその現物が展示されている。高さ61.8cmで、重さ11.85kgの仏具である。頭をもたげた龍を形象化した台と、蓮弁で表現された胴と、幾重もの山並みが表現された蓋の3部分で構成され、蓋の上には一羽の鳳凰が翼を広げてまさに飛び立とうとしている。
■ 博物館で渡されたパンフレットの「百済金銅大香炉」には、この金銅製の大香炉は、百済時代の上流社会に風靡していた仏教と神仙思想を渾然一体に凝縮して表現した百済芸術の最高峰とされ、その芸術的力量に対する評価は高く、制作時期が7世紀末と推定されている、と書かれていた。しかし、7世紀末の制作であるならば、「新羅金銅大香炉」でなければならず、百済時代の代表的文化財などとは言えない。
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| 扶餘博物館前に飾られたモニュメント |
■ 筆者は今までに二回この国立扶余博物館を訪れている。最初は2002年8月である。そのツアーの講師役をつとめられた故網干善教(あぼしよしのり)教授から、この金銅製大香炉を日本で展示すべく何回も借用を申し入れたが博物館側がガンとして受け付けてくれてなかったとの話を聞いた。そのとき、博物館前のロータリには、この大香炉を模した巨大なモニュメントが工事中だったのを覚えている。それから8年になるが、現在にいたるもまだ日本に貸し出されて公開されたことはない。
■ 二回目に訪れたのは、2007年の7月である。もう一度、国宝第287号に指定された百済金銅大香炉を見てみたいとツアーに参加した。専用バスが博物館の駐車場に止まったとき、先ず視線が行ったのは、博物館前のロータリーに建てられた百済金銅大香炉の巨大なモニュメントである。5年前には取り付け工事中だったが、現在もその時と同じように青空の下でまぶしく金色に光っていた。
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