2010/05/20

四神降臨! キトラ古墳の四神像壁画を特別公開

マンネリ化で毎年下火になっていくキトラ古墳壁画の特別公開

キトラ古墳壁画特別公開のポスター
キトラ古墳壁画特別公開のポスター
今年のポスター
今年のポスター
■ ゴールデンウイークが過ぎると、今年もキトラ古墳壁画の春季特別公開の時期が巡ってきた。奈良文化財研究所の飛鳥資料館では、平成18年から毎年この時期になると、石室から剥ぎ取って修復した壁画を特別公開と銘打って小出しに展示する。

■ 平成18年には初めて「白虎」が特別公開された。それに続いて、平成19年には「玄武」が、平成20年には十二支像の「」と「」が、そして平成21年には「青龍」が(「白虎」が抱き合わせで)展示された。

■ そして今年は、最後にはぎ取られた「朱雀」(すざく)の番である。「朱雀」だけが特別公開されるものと思っていたら、なんとその他の「青龍」「白虎」「玄武」も併せて展示するという。四神の揃い踏みである。そのため、今年は近鉄の駅の構内や電車の中吊りに「四神降臨」の大きな文字が中央に躍っている。

■ 今年の特別公開期間は、5月15日(土)から6月13日(日)までの約1ヶ月。本日、明日香村に出かけたついでに午後の3時すぎに飛鳥資料館に立ち寄ってみると、待ち時間0分の表示が出ていて、まるで閑古鳥な鳴きだしそうな寂しさだった。

■ 今まで毎年壁画の特別公開を見学にきたが、こんなことは初めてだった。5回目ともなると、当初の頃の人気も遠のいて、催し物としての人気はイマイチのようだ。それでも大勢の来訪者を見込んでいたのか、受付の前には、長蛇の列を整理する長い仕切が設営されていた。

飛鳥資料館の正面 受付もこの通りの手持ちぶさた
飛鳥資料館の正面 受付もこの通りの手持ちぶさた

■ 今回の展示はかなり大仕掛けだった。今までは山田寺の東面回廊が再現展示されている部屋で並ばされて、隣の特別展示室に導かれた。今回は、従来の特別展示室に直接導かれ、そこで石室内部の壁画を原寸大も復元した陶板や採集された遺品などを見学し、東面回廊の間に設置された大型モニターでは、キトラ古墳の四神図の詳細や剥ぎ取り作業のプロセスを紹介される。

■ 修復を終えた四神図は従来の常設展示場に置かれている。たった4枚の小さな切り取り壁画を展示するために、なんとすべての常設展示品が撤去されていた。



キトラ古墳の発見から壁画修復までの軌跡

キトラ古墳と高松塚古墳の位置関係
キトラ古墳と高松塚古墳の位置関係
■ 実際に修復された四神図を見学する前に、ここでキトラ古墳発見から現在までの軌跡を整理しておこう。

■ キトラ古墳は、高松塚古墳の南およそ1.2キロの明日香村大字阿部山字ウエヤマ に位置している。1972年に極彩色壁画の高松塚古墳が発見されて、付近にも壁画古墳がないか調査された結果、1978年頃にキトラ古墳の存在が知られるようになった。しかし、古墳の内部はすでに平安時代末から鎌倉時代に盗掘されていた。

■ 最初に行われた調査で、壁画が描かれている漆喰の壁が剥がれそうになっていることが判明した。そのため、調査は時間をかけて慎重に行われてきた。まず1983年11月にファイバースコープによる1次調査を実施し、北壁の「玄武」を確認した。1998年3月には超小型カメラによる2次調査を実施し、東壁の「青龍」と西壁の「白虎」さらに天井に「天文図」が描かれているのを確認した。

キトラ古墳石室内の展開図
キトラ古墳石室内の展開図(*1)
■ その結果、2000年7月には、キトラ古墳が国史跡に指定され、11月には国の特別史跡に格上げされた。そして2001年、デジタルカメラによる3次調査で石室の内部撮影が行われ、南壁にも「朱雀」が残っていることがわかった。その年の11月に行われた4次調査では、天文図に描かれた星は金箔を貼り付けていることが確認された。

■ その後も驚くべき発見があった。2001年1月の調査で、十二支像の「」と見られる獣頭人身像の壁画が見つかった。こうした一連の調査結果はその都度マスコミを通じて報道され、高松塚古墳に続く2例目の彩色壁画古墳として国民は大きな関心を寄せた。注目すべきは、この時点まではまだ誰も石室の内部に人が入って発掘調査していない。全ての調査はレンズの目を通して行われた。

古墳の前面に築かれた覆屋
古墳の前面に築かれた覆屋
■ 1995年1月17日未明に発生した阪神・淡路大震災は、キトラ古墳にも思わぬ被害をもたらした。壁画が描かれた漆喰の壁の剥離が一層進んで今にも崩れ落ちそうな状態になっていた。そのため、2002年6月に、古墳を発掘調査するための覆屋(おおいや)が建設され、本格的な発掘調査が開始された。

■ 2004年7月には石室床面の調査が完了し、人骨や副葬品の一部が見つかった。しかし、壁画の下地の漆喰の剥がれも進行し、カビや細菌などの影響による傷みも激しいため、高松塚古墳のように壁画を模写する余裕などなかった。そこで、文化庁は修復のため壁画の剥ぎ取り作業を8月2日に着手すると発表した。その後の作業を年表風にまとめると、つぎのようになる。

  • 2004年8月、「青龍」などを取り外す。9月、「白虎」の胴部を取り外す。
  • 2005年5月、残されていた「白虎」の前脚武を取り外す。11月、「玄武」および北壁に描かれていた十二支像を取り外す。
  • 2006年5月、飛鳥資料館で「白虎」を公開。10月、難航していた個所を取り外すため、ダイヤモンドワイヤー・ソーを導入。
  • 2007年2月、「朱雀」を取り外す。5月、飛鳥資料館で「玄武」を公開。
  • 2008年5月、飛鳥資料館で十二支の「子」と「寅」を公開。11月、天文図を取り外す。
  • 2009年5月、飛鳥資料館で「青龍」を公開。併せて「白虎」もアンコール公開
  • 1010年5月、「朱雀」と併せて「玄武・白虎・青龍」も同時公開

■ すなわち、4年半をかけてすべての壁画部分の剥ぎ取りを行ない、修復作業が終わった順に特別公開してきた。現在はその他の漆喰部分を取り外しているとのことだ。



厳戒態勢(?)の中の四神図見学

■ よく知られているように、高松塚古墳の発掘調査は県立橿原考古学研究所(橿考研)が担当した。1972年の3月6日に発掘に着手し、3月21日に石室(正確には石槨)の内部に描かれた壁画が発見された。当時の橿考研の末永雅雄所長は極彩色壁画の人類文化史上における重要性をいち早く察知し、直ちに石室を密閉するよう命じられるとともに、壁画の保存と調査研究に万全を期すため、古墳の全てを国の保存と管理に委ねる決意をされ、4月には文化庁に引き渡された。

特別公開室の入口
特別公開室の入口
■ 発掘調査からほぼ1年後の1973年4月、古墳そのものが特別史跡に指定され、さらに翌年の4月には極彩色壁画が特別に国宝に指定された。しかし、文化庁の保存の不手際から大量のカビの発生を招き、折角の国宝を駄目にしてしまった。高松塚古墳の壁画は石室そのものを解体して、現在は国営飛鳥歴史公園館の裏に建てられた仮設修理施設で修理作業中である。

■ 断っておくが、キトラ古墳は国の特別史跡の指定を受けているが、高松塚古墳の場合と違って、石室内の極彩色壁画は未指定の状態にある。つまり、国宝や重要文化財という指定がなされていないのだ。国宝級の文化財がなぜ未指定のままになっているのか良く分からない。あるいは高松塚で二重指定をした結果、管理に齟齬を来した轍を踏まないためだろうか。


原寸大に陶板で復元した壁画
原寸大に陶板で復元した壁画(*4)
■ 最初の特別展示室では、今回の展示のメインである「朱雀」の拡大写真やキトラ古墳と高松塚古墳の出土品などが展示している。しかし、この部屋の中心展示物は、キトラ古墳壁画の原寸大の復元陶板であろう。上記のようにキトラ古墳では壁画の模写が作製されなかった。このため高松塚とキトラの両古墳の壁画の保存活用を話し合う文化庁の検討会では、模写や複製の早期製作を求める声が上がっていた 。そこで、文化庁は2008年の暮れに極彩色壁画の実物大の陶板模型を製作することを決定し、大塚オーミ陶業株式会社に発注した。

■ 大塚オーミ陶業は滋賀県甲賀市信楽町の陶磁器製造業者である。同社は今までに撮影された高精度のデジタル写真約3万枚の画像を使用し、撮影当時の石室内の壁画を昨年10月から今年3月にかけて原寸大の陶板で忠実に復元した。展示室には各陶板を組み合わせた石室の模型が置かれている。

南壁に残っていた朱雀
南壁に残っていた朱雀
■ 石室の南壁は墓荒らしによって破壊されていたが、盗掘穴が開けられたのが右上隅だったのは幸いだった。内側に描かれていた「朱雀」はかろうじて破壊されずに残っていた。組み合わせた陶板石室の横に置かれた南壁の陶板を見ると、朱雀の絵が奇跡的に生き残ったのがよく分かる。高松塚古墳では、四神図の朱雀はついに発見できなかった。

■ 山田寺の東面回廊が再現された部屋では、4個所に設置された大型モニターがキトラ古墳の四神図の解説や剥ぎ取り作業のプロセスを見せている。それらを見た後で、常設展示室へ導かれた。その展示室は、常設展示されていた品々がすべて何処かに移されて、漆黒の部屋に変えられていた。その部屋の4個所にガラスケースが離ればなれに置かれていて、修理を終えた四神図はその中に収まっていた。

■ 展示の順は、「青龍」、「白虎」、「玄武」、「朱雀」である。剥ぎ取られた四神は、顔料と漆喰層に影響がない範囲でゲルと泥を顕微鏡下などで除去したそうだ。しかし修理が終わったはずの四神図は、LED照明で明るく照らされているにも関わらす、カラー写真で見るよりはるかにくすんでいる。青龍などは、かろうじて朱の舌が識別できる程度で、他の部位は肉眼では判別できない。

青龍(*3) 白虎(*3)

玄武(*3) 朱雀(*3)

■ それにしても驚いたのは、四個所に置かれたガラスケースの脇に、相撲取りと見紛うばかりに屈強なガードマンが制服姿で腕を組んで張り付いていた。見学者が少しでもガラスケースに触ろうものなら、厳しく注意する。過剰警戒もいいところである。せっかく四神図との再会を楽しみに訪れたのに、文化庁以下主催者側のいかにも”見せてやる”といった姿勢に興ざめを感じた見学者も多かったであろう。この種の文化財は国民の共有財産であることを主催者側は理解しているのだろうか。もっと和やかな雰囲気の中で見学したいものだ。



キトラ古墳に描かれた朱雀は山鳩タイプの古い絵画?

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キトラ古墳の南壁に描かれた「朱雀」(*2)
■ キトラ古墳の南壁に描かれていた「朱雀」(すざく)は、向かって右を向き、首を緩くS字に立てて走りだし、「人の唇」を思わせる雨覆羽(あまおおいはね)とそこから生え広がる風切羽を広げ、尾羽を水平に伸ばしている。今まさに飛翔しようとする鳥の姿を現していて、絵そのものに躍動感が感じられる。

■ くちばしは泥をかぶって良く見えないが、額から赤い冠羽が長く伸びている。下あごから垂れ下がった2つの肉垂も赤い。雨覆羽も風切羽も尾羽も朱色に塗られている。手塚治虫の漫画「火の鳥」のモデルになったような鳥なのだが、どう見てもその姿態は「赤い雀」ではない。

■ そもそも「朱雀」とは何なのか? 以前から気になっていた。長い首や尾羽を見ると、クジャクをモデルにした想像上の瑞獣のようでもある。解説書などを見ると。朱雀とは、中国の伝説上の神獣で、東の青竜・西の白虎・北の玄武と並んで南を守護する四神の一つで、翼を広げた鳳凰状の鳥形で表されるという。五行説では南方の色は赤であり、そのために朱雀と名付けられたという。

天空を飛翔する「火の鳥」
天空を飛翔する「火の鳥」
■ 鳳凰もクジャクに似た想像上の鳥であり、鳳凰の鳳は雄、凰は雌である。鳳凰のルーツはインドにあるとのことだが、中国で考え出された朱雀と同一視されることが多い。いずれも想像上の神獣で、それぞれの成り立ちによる立場の違いがあるはずだが、その違いが筆者に判然としない。

■ 滋賀県立大学の田中俊明教授によれば、中国の書には朱雀の起源について鶉(うずら)と書いてあるそうだ。鶉の文字は実は鷲(わし)を指すとの指摘もあるという。鳳凰はクジャクをモデルにしたとされているが、クジャクが中国に入ってくるのは漢代ぐらいからで、それ以前はクジャクは知られていなかった。しかし、鳳凰はクジャクが入ってくる以前にもあり、単純にクジャクを起源とするのは問題があるとのことだ。

■ 今回の特別展の図録によれば、我が国の飛鳥・奈良時代には2種類の朱雀図像が存在したようだ。山鳩タイプ孔雀タイプである。山鳩タイプでは、斑模様のある長く伸びたススキ葉形の尾羽や人の唇形の雨覆羽、冠羽以外は、長い毛は見らない。くちばしが比較的短く、また喉から胸が蛇腹状をしているのがこのタイプの特徴である。

薬師寺本尊台座の南面の朱雀
薬師寺本尊台座の南面の朱雀
■ 山鳩タイプの朱雀は玉虫厨子の海竜王宮図の上段と中段、天寿国繍帳薬師寺本尊台座キトラ古墳などに表されていて、ほぼ7世紀に描かれた図柄である。天寿国繍帳の制作に関わった人物としては、画家の東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)および監督の椋部秦久麻(くらべのはたのくま)の名が伝わっている。いずれも朝鮮半島からの渡来人であり、彼ら中には風水思想や五行思想に精通したものもいたであろう。

■ そうした絵師集団の中に黄文本実(きぶみのほんじつ)という人物がいる。薬師寺が所蔵する「仏足石記」には、彼は唐に赴き普光寺において仏足跡図を写して帰ったと記されている。おそらく、彼のように遣唐使に交じって大陸にわたり、唐代の先進的な絵画の画題、技法、、画材に接していち早く取り入れて日本にもたらした画師もいたであろう。

■ 一方孔雀タイプは、くちばしが曲がっており、後頭部から後ろに長く伸びる毛や、細長くS字にくねる首、斜め上方に伸び反り返る尾羽などが特徴である。また、宝珠を口にくわえたり、首飾りとしてつけたり、首輪状の飾りをつけているものもある。

■ 孔雀タイプは尾羽の形状でA〜Cタイプに分けられるという。Aタイプは、尾羽が真ん中の大きな木の葉の形をした主羽と両脇の細く短い柳葉のような副羽で構成される。Bタイプは、Aタイプの尾羽を簡素化して尾羽を一枚の長大な羽としたもの、Cタイプは多数の細長いススキの葉の形をした羽で尾羽を構成するものをいう。

■ Aタイプのものは、起源が中国の前漢まで遡り、朱雀の図像の一端を伺えるという。Bタイプは唐の時代に盛行し、朝鮮半島でも6世紀代にはA.B両タイプの朱雀が描かれれた。Cタイプは日本で考案されたもののようだ。

江西中墓の玄室の南壁に描かれた一対の朱雀
江西中墓の玄室の南壁に描かれた一対の朱雀
■ 7世紀の日本で見られる孔雀タイプはAタイプが主流で、玉虫厨子の霊鷲山浄土図や海竜王宮図下段のものが最古である。、8世紀代に入ると、A,B両タイプが主流を占めるようになり、図柄も洗練された華麗た姿が多くなる。これは大宝2年(702)に再会された遣唐使の影響によるものと見られている。そのため、高松塚古墳に描かれていた幻の四神「朱雀」は、キトラ古墳のものとは異なった華麗た姿の朱雀ではなかったかと推測されている。

■ もともと鳳凰タイプの朱雀は、墓室の入口などに描かれる場合、2羽一対で描かれるのが本来のものだった。中国の南北朝から唐代にかけてそうした事例が見られるという。北朝鮮の平安南道南浦市にある江西中墓の玄室の南壁には、一対の朱雀が描かれている。赤い玉をくわえ大きく広げた両翼を羽ばたいていて、空中に飛び立とうとする動と静の瞬間を見事に描いていて、優れた壁画である。

国立扶余博物館の金銅製大香炉
国立扶余博物館の金銅製大香炉
■ 韓国の扶余から論山方面に3kmほど行った所に陵山里古墳群があり、その左側に、567年に建立された陵山里廃寺の寺址である。1993年12月に陵山里(ヌンサンリ)廃寺の工房跡から金銅製の大香炉が発見され、現在国立扶余博物館にその現物が展示されている。高さ61.8cmで、重さ11.85kgの仏具である。頭をもたげた龍を形象化した台と、蓮弁で表現された胴と、幾重もの山並みが表現された蓋の3部分で構成され、蓋の上には一羽の鳳凰が翼を広げてまさに飛び立とうとしている。

■ 博物館で渡されたパンフレットの「百済金銅大香炉」には、この金銅製の大香炉は、百済時代の上流社会に風靡していた仏教と神仙思想を渾然一体に凝縮して表現した百済芸術の最高峰とされ、その芸術的力量に対する評価は高く、制作時期が7世紀末と推定されている、と書かれていた。しかし、7世紀末の制作であるならば、「新羅金銅大香炉」でなければならず、百済時代の代表的文化財などとは言えない。

扶餘博物館前に飾られたモニュメント
扶餘博物館前に飾られたモニュメント
■ 筆者は今までに二回この国立扶余博物館を訪れている。最初は2002年8月である。そのツアーの講師役をつとめられた故網干善教(あぼしよしのり)教授から、この金銅製大香炉を日本で展示すべく何回も借用を申し入れたが博物館側がガンとして受け付けてくれてなかったとの話を聞いた。そのとき、博物館前のロータリには、この大香炉を模した巨大なモニュメントが工事中だったのを覚えている。それから8年になるが、現在にいたるもまだ日本に貸し出されて公開されたことはない。

■ 二回目に訪れたのは、2007年の7月である。もう一度、国宝第287号に指定された百済金銅大香炉を見てみたいとツアーに参加した。専用バスが博物館の駐車場に止まったとき、先ず視線が行ったのは、博物館前のロータリーに建てられた百済金銅大香炉の巨大なモニュメントである。5年前には取り付け工事中だったが、現在もその時と同じように青空の下でまぶしく金色に光っていた。



極彩色壁画の背後にある風水思想や四神思想

破壊される前の高松塚古墳
破壊される前の高松塚古墳
発掘時のキトラ古墳
発掘時のキトラ古墳
■ 我が国で発見された極彩色壁画古墳は高松塚古墳とキトラ古墳の2基だけである。今後さらに新しい古墳が発見される可能性は、ほとんどないであろう。これら2基の古墳の築造時期は近接していて、藤原京が造営された時期、すなわち7世紀末から8世紀初めと推定されている。

■ どちらの古墳の石室にも四神図天体図が描かれているが、違いもある。高松塚古墳には侍従する男女群像が描かれているが、キトラ古墳にはこうした群像はない。その代わり、武器をもった獣頭人身の十二支像が四面の壁に描かれている。

■ こうした華やかな死後の世界を演出する極彩色の壁画が存在したために、二つの古墳は発掘当初からマスコミの格好の報道対象とされ、公開された壁画の写真がカラーで大々的に紙面を飾った。それと同時に、歴史学の専門家の間で被葬者推定論争が繰り広げられたが、いまだに両古墳の被葬者は特定されていない。

■ 両古墳の極彩色壁画は当時盛行した風水思想四神思想が背景にある。しかし、築造時期が隣接していながら、描かれた四神図や天体図の図柄は必ずしも同じではない。

高松塚古墳の東壁
高松塚古墳の東壁(*5)
高松塚古墳の西壁
高松塚古墳の西壁(*5)
■ 例えば、高松塚古墳では四神の青龍と白虎はいずれも頭を南壁の(失われた)朱雀側に向けている。しかし、キトラ古墳では、青龍も白虎も右向きに描かれていて、石室内の陰陽五行の気が、順方向に循環していることを示しているという。その結果、中国の青龍・白虎は朱雀側に向くという原則から外れており、壁画としては希有の事例となっている。

■ また、キトラ古墳の青龍と白虎は、その姿態が極めて類似していて、同じ型紙を用いて描き、頭など一部を書き換えたものと考えられている。このように青龍と白虎が類似する現象は南北朝以降の中国の壁画ではしばしば見られるが、高句麗壁画ではほとんど知られていないため、中国的な影響を反映したものとされている。

■ 興味深いのは、キトラ古墳と高松塚古墳では死後の世界に対する世界観に大きな違いがあることが指摘されていることだ。キトラ古墳では、中国の伝統的な陰陽五行説天円地方説などに基づいて、石室内の空間を被葬者を中心とする世界に見立てて壁画が描かれているという。

■ 天井の天文図は天空を、壁面の四神図や獣頭人身の十二支像は大地の空間を象徴していて、壁画は被葬者の霊魂を鎮める機能を果たしているとのことだ。つまり、被葬者は四神や十二支像に守られて理想的な世界の中心で永遠の眠りにつくことを願った当時の人々の祈りを表していることになる。

■ これに対して、キトラ古墳より遅れて築造された高松塚古墳は、十二支像の代わりに男女群像が描かれている。これは、この世を去った被葬者が、生前同様に従者にかしずかれて安寧安楽な日々を過ごすことを願う人々の世俗的な精神を反映しているとのことだ。

恵陵の玄宮断面模式図(*5)
恵陵の玄宮断面模式図(*6)

■ 現在、時を同じくして橿考研附属博物館では春季特別展「大唐皇帝陵」が開催されている。その展示品の中に、玄宗に位を譲ったことから「譲皇帝」の称号が贈られ皇帝陵の規格に準じて造営された李憲の恵陵の墓道入口の東西両壁に描かれた巨大な「青龍図」と「白虎図」の模写が展示されている。今回の展示のために実物を送ろうとしたが大きすぎて飛行機に載せられず、やむなく急遽実物大の模写を制作して送ってきたという代物である。

恵陵の墓道に描かれた壁画「青龍図」(左)と「白虎図」(右)
恵陵の墓道に描かれた壁画「青龍図」(左)と「白虎図」(右)(*6)

■ いずれの壁画も長さ7m、幅3mと巨大である。飛鳥資料館で四神図を見学した後にこれらの模写を見ると、その巨大さに圧倒される。李憲が亡くなったのは 開元29年(741)であり、恵陵の築造時期は高松塚やキトラとは40〜50年ほど遅い。しかも、青龍と白虎は墓室の壁ではなく墓道の入口に、不届きな侵入者を威嚇するように描かれている。この違いには、どのような思想的な変遷によるものか興味のあるところだ。

■ 大型画面に映し出したキトラ古墳の解説映像では、石室内に四神図を描いた理由として、風水にかなう地形が得られなかったために壁画で代用したのでは、と説明していた。風水では、四神の青龍は川、朱雀は沼、白虎は道、玄武は山といった地形に比定されるという。だが、当時の人々に風水思想がどれだけ理解されていたかは疑問である。その証拠に、最も風水に叶う場所に造営されるべき藤原京が、風水を無視した場所に築かれている。




[参考・引用文献]
主な参考文献:「キトラ古墳壁画四神」図録
写真:(*1) 朝日新聞社作製「2010キトラBOOK」、(*2)「キトラ古墳壁画四神」図録、(*3)飛鳥資料館 キトラ古墳HP、(*4) 2008/12/20 毎日新聞インターネット版、 (*5)飛鳥 高松塚古墳のHP、(*6) 橿考研附属博物館特別展図録「大唐皇帝陵」、よりそれぞれ転記


2010/05/21作成 by pancho_de_ohsei return