橿原日記 平成17年10月22日

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の霊骨を奉安している慈恩寺を訪れる


形の町として知られるさいたま市岩槻(いわつき)区の中心から北へおよそ7km、広々とした田園風景が残る郊外に坂東札所第十二番「華林山 最上院 慈恩寺」という天台宗の寺がある。

坂東札所第十二番「華林山慈恩寺」
坂東札所第十二番「華林山慈恩寺」
恩寺(じおんじ)と聞いて、中国の古都・西安を旅行された経験があれば、誰しもすぐに思い出すのが大雁塔で知られる大慈恩寺であろう。この西安大慈恩寺と岩槻の華林山慈恩寺とは、実は因縁浅からぬ関係がある。

日は馬場小室山遺跡研究会の第17回ワークショップに参加して、岩槻の資料館・遺跡・文化財を巡ってきた。その最後に訪れたのが、慈恩寺観音と十三重の石塔で知られる華林山慈恩寺である。

っと以前から、一度この寺を訪ねてみたいと思っていた。と言うのは、『西遊記』で知られる三蔵法師のモデルになった玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の霊骨がこの寺に祀られていると聞いていたからだ。ワークショップに参加したお陰で、思いがけず念願の思いを果たすことができた。以下では、同じ寺号をもつ二つの寺院について、今後の参考ためにすこし情報を整理しておきたい。



慈恩寺とその境内に建つ大雁塔

慈恩寺の大雁塔
1981年当時の大雁塔
西安市の南郊にある大慈恩寺は、現在の西安城壁より4kmほど離れているが、唐の時代には長安城内に位置していた。西暦648年に、唐の第3代皇帝・高宗(在位628-683)が、母の文徳皇后(636年没)を供養するために建立した寺と伝えられている。もうずいぶん昔のことになるが、中国古代遺跡研究会が企画したツアーで、1981年11月にこの寺を訪れたことがある。

慈恩寺を有名にしているのが、その境内にそびえる大雁塔である。大雁塔の由来を説明するには、『西遊記』で知られる玄奘三蔵(600?-664)について先ず語らなければならない。


奘(げんじょう)は洛陽近くの河南陳留郡で西暦600年に生まれた(602年、604年、605年など諸説あり)とされている。陳家の四人兄弟の末子で、俗名は陳緯(?)といった。10歳のときに父が亡くなり、翌年洛陽に出て、出家していた次兄のもとに引き取られた。13歳のとき出家して玄奘を名乗り、兄とともに長安に出てきた。その後、成都や荊州などもまわって各地で仏教を学ぶが、諸師の教えがまちまちで互いに矛盾を含んでいたため、どれが正しいのか思い悩んだ。やがて疑問を解決するには、天竺(インド)におもむき、教義の原典に接し、かの地の高僧論師に直接の解義を得るしか他に途はないと思い立った。だが、当時の唐は鎖国政策をとっていて、国の出入りは禁止されていた。玄奘はなんども嘆願書を出して出国の許可を求めるが許されなかった。そこで、国禁を犯して無断で玉門関を越え、西域に旅たった。貞観3年(629)、玄奘が29歳の時である。

西域を旅する玄奘
西域を旅する玄奘
は、天山山脈の北側を通るシルクロードを経て高昌国に到達する。高昌国では国王に歓迎され、この地に留まって欲しいと懇願されるが、インドへの求法の熱意は堅く、インドへの旅を続ける。時に盗賊にも襲われる苛酷な道のりを旅して中央アジア・カシミール経由でマガダ国に入った。そして、中インドのナーランダ学院で戒賢論師に師事して唯識教学を学び、インド各地の仏跡を訪ね歩いた。

奘が、仏像・仏舎利の他にサンスクリット(梵語)の仏経原典657部を馬22頭に積んで長安に戻ってきたのは、貞観19年(645)正月5日,玄奘45歳のときである。旅たちから16年の歳月が流れていた。国禁を犯しての密出国は死罪である。玄奘は唐に近づいたとき、時の皇帝・太宗に帰国の許可を願い出た。密出国の出発時と違って、彼の帰還は太宗の大歓迎を受けた。太宗は、国境近くまで出迎えの使者を出すほどであった。

奘のインド・西域求法の旅は、通過した国が128国、実に3万キロに及んでいた。帰国後,太宗の勅命を受けて、その見聞録を弟子の弁機に編述させた。それが貞観20年(646)に完成した『大唐西域記』全12巻である。インドや中央アジアにおける仏教の状勢だけではなく、経由したそれぞれの土地の歴史・地理・風俗などについても記している。

大雁塔
大雁塔からの眺め
国後、太宗からは政事に参画することを求められたが、玄奘は仏典漢訳に余生を集中することを願い出た。玄奘の熱意に理解を示した太宗およびその子の高宗はその翻訳事業に対して全面的な支援を与えた。玄奘は大慈恩寺に迎え入れられ、そこに翻訳道場を設けるとインドから持ち帰った経典類の翻訳を数多く手がけることになった。麟徳元年(664)に64歳で没するまでの19年間、玄奘は翻訳に没頭したが、それでも、持ち帰った経典の約3分の1しか訳せなかったという。玄奘が翻訳した経典の数は、大般若経600巻をはじめ74部1335巻に達する。

在我が国で最も読誦されている「般若心経」の基となったのは、玄奘が翻訳した大般若経である。これは画期的な翻訳とされ、玄奘より前の翻訳は旧訳(くやく)といわれ、玄奘以後の翻訳を新訳と称して区別されている。玄奘のの仏典翻訳によって、唐代の仏教興隆の基礎が築かれたといっても過言ではない。


大唐三蔵聖教序
大唐三蔵聖教序
奘は熱心に訳経に打ち込むかたわら、自分が集めてきたインドの経典類を永久保存するための石塔の建立を高宗に願い出た。だが、高宗は石塔が大工事になるのを嫌がり、土で築き、外側にレンガを貼っただけの五層の塔の建立を認めただけだった。この五層の塔は652年に完成した。それ以後、塔は何度か改装を受けた。則天武后の頃に10層となり、その後戦火に遭い、後唐(930-933)に修築されて現在の七層の塔となった。これが大慈恩寺の大雁塔である。 。

雁塔は四角形で、柱を使わず黄土を餅米で突き固め、外側をレンガの壁で覆った分厚い構造で、最上階まで250段の階段がある。塔の底辺は25m四方。塔の高さ64m。七層まで登ることができる。

雁塔の南入り口の左右には二つの石碑が建てられていて、左が「大唐三蔵聖教序」、右が「大唐三蔵聖教序記」といい、この2つは合わせて雁塔聖教序と呼ばれている。大きさはいずれも縦198cm×横85cmで、ほぼ畳一枚の大きさである。これらの石碑に刻してある文字数は、「大唐三蔵聖教序」が1行42文字で21行、「大唐三蔵聖教序記」が1行40文字で20行、合わせて約1700文字。いずれも、太宗に書の指導をしたとされる唐代の書家・ちょ遂良の筆によるものである。



慈恩寺縁起が語る華林山慈恩寺の創建伝承

慈恩寺の本堂
慈恩寺の本堂
本尊の千手観世音菩薩像
本尊の千手観世音菩薩像
いたま市岩槻区にある慈恩寺は、正式な名称を「華林山 最上院 慈恩寺」という。天台宗の寺で、千手観世音菩薩を本尊として祭り、坂東三十三霊場の第十二番札所になっている。この寺の創建は遠く平安時代まで遡る。慈恩寺縁起によれば、この寺は天長元年(824)、慈覚大師・円仁(じかくだいし・えんにん)がこの地に草堂を結んだのが始まりとされている。そして、次のような逸話が伝えられている。

仁(794-864)が勝道上人や弘法大師の足跡を尋ねて日光山に登ったとき、山頂から、
「仏法弘通の霊地あらば示したまえ」
と念じてスモモ(李)の実を虚空に投げたという。すると、スモモは南方へ飛び去った。その後、円仁が関東各地を巡錫して当地に来たところ、池のほとりにスモモの木があったので、有縁の地と感じ、この地で草堂を結び千手観音を彫って安置した。そのとき、円仁が留学僧として唐に渡って遊学した長安城の大慈恩寺にちなんで、寺名を慈恩寺としたとされている。

時には、13万5千坪の境内に塔中66坊を有する大寺院だったが、寛永・天保・明治と数次にわたって火災に見舞われ、ほとんどの堂宇は灰燼に帰して現在に及んでいる。現在の本堂は(一三間四面)は天保14年(1843)に建立されたものである。本尊の千手観世音菩薩像は、円仁が刻んだものはすでに焼失し、寛永年間に天海僧正が比叡山から将来したものである。

南蛮鉄灯籠
南蛮鉄灯籠

堂の前に、市の文化財に指定された南蛮鉄灯籠(なんばんてつとうろう)が立っている。天正17年(1589)五月に、岩付城主北条氏房の家臣だった伊達与兵衛房実が、天下泰平・万民豊楽の願いを込めて寄進したものだという。


ころで、正確な言い方をすれば、慈覚大師・円仁は、この慈恩寺を建てたとされる天長元年(824)には、まだ唐土に渡っていない。天台宗の発祥の地・天台山への参拝を目的に、円仁が第17次遣唐使船で唐土に渡ったのは承和5年(838)である。したがって、周囲の景色が長安の大慈恩寺あたりに似ているので、大慈恩寺に因んで寺名を付けたというのは、後世の附会にすぎない。

良時代から平安時代にかけて、玄奘三蔵法師から法相学を学んだ道昭(どうしょう)をはじめ、多くの求法僧が長安を訪れ、中国仏教を学んだ。なかでも、傑出した3人の日本人僧がいる。日本天台宗の開祖とされる伝教大師・最澄、真言宗の開祖とされる弘法大師・空海、そして天台宗第三世座主となった慈覚大師・円仁である。

仁は、せっっかく唐土に渡りながら旅行許可が得られず、目的の天台山には行けなかった。やむを得ず八方手を尽くして五台山行きの旅行許可証を得ると中国国内を大旅行することになった。文殊菩薩の聖地といわれる五台山では、3000m級の五つの山に巡拝するなかで多くの教えを学び、そのあと長安へ向かった。長安では資聖寺に寄宿し、空海が学んだ青龍寺で密教を学んだ。「金剛界」「胎蔵界」に加え、「蘇悉地大法」(そしつだいほう)を修得したという。約9年半にわたる求法の旅を終えて承和14年(847)に帰国し、天台宗第三世座主となって天台宗の教えを磐石のものにした。

の入唐から日本に帰国するまでの求法の旅は、円仁自らが著した『入唐求法巡礼行記』に詳しい。ちなみに、『入唐求法巡礼行記』は、玄奘(げんじよう)の『大唐西域記』、マルコ・ポーロの『東方見聞録』とともに、三大旅行記のひとつとされ、唐の国や仏教中心地の様子が鮮明に窺える古代史の第一級資料である。



玄奘三蔵の霊骨が慈恩寺の玄奘塔に納められた経緯

十三重の石塔
昭和25年に建てられた十三重の石塔

300年前、釈迦の教えを現地で学ぼうと国禁を犯してインドに旅立ち、17年の歳月をかけて貴重な教典を中国に持ち帰り、唐の皇帝・太宗から「三蔵法師」とたたえられた玄奘三蔵。彼が麟徳元年(664) 2月5日に入寂すると、その遺骸は長安城郊外の白鹿原に埋葬された。ところが、玄奘の頭骨片が、日本の二つの寺院に奉安されているという。さいたま市の慈恩寺と奈良市の薬師寺である。

玄奘塔
玄奘塔
十三重石塔
玄奘の霊骨を奉安した十三重石塔
奘の遺骨が我が国に招来した経緯を追うと、次のような歴史的背景があった。上に述べたように、玄奘三蔵は、麟徳元年(664)2月に亡くなった。彼の遺体は国葬をもって、4月15日長安の白鹿原に葬られた。ところが唐末の大農民反乱である黄巣の乱(875〜84)の頃、盗掘にって玄奘の墓は荒らされ、そのままに放置されていた。それを見かねて、演化大師可政が長安から南京に頂骨(頭骨)だけを移して改葬したという。

1世紀の北宋の時代になって西暦1027年に、玄奘の墓は仏弟子たちの手によって南京天禧寺の東の丘に遷され、さらに明の時代の洪武19年(1368)、寺の南の丘に再遷された。しかし、その後の戦乱で場所もわからなくなってしまい、長い歳月が流れた。

和17年(1942)12月のことである。南京を占領していた日本軍の高森部隊が、兵器廠の内部に稲荷神社を建設するため整地していて、ある石棺を発見した。その石棺の側面には、「大唐三蔵大遍覚 法師玄奘頂骨早因黄巣 発塔今長干演化大師可政 於長安伝得於此葬之」と書かれており、石棺の中の納められていた頂骨が玄奘のものと判明した。

本軍はその翌年の昭和18年(1943)2月23日、副葬品と頂骨の全てを南京政府に渡したところ、南京政府は感激し盛大な奉迎式典を執り行い、南京城内の大礼堂草に安置した。その後、昭和19年(1944)10月10日には玄武山頂上に頂骨を奉安し、記念塔を建立した。その落慶式には日本側から重光葵大使や日本仏教協会長の倉持秀峰氏らも参列したという。

典の際に、発見者である日本にも分骨の申し出があり、南京政府は「日中両国の仏教は一意同心であり、ともに玄奘の霊骨を祭り、永遠に法師の威徳を鑽仰せん」と述べたという。もっとも日中戦争の最中のことであり、しかも南京政府は完全な日本の傀儡だったことを思えば、この美談を額面通り受け取れるかどうか疑問である。

薬師寺の玄奘三蔵院
薬師寺の玄奘三蔵院
のように入寂後も数奇な運命を経て、玄奘三蔵の頂骨は分骨されて、昭和19年10月に日本に渡ることなった。日本では、東京・芝の増上寺に奉安されていたが、戦後、西安大慈恩寺とさいたま市の慈恩寺が寺名を同じくするということで、慈恩寺に中国式の十三重塔を建立して、その霊骨を奉安することになった。昭和25年(1950)2月5日、十三重の石塔は、慈恩寺の境内ではなくて本堂から約800mほど離れた近くの丘の上に建立された。これを玄奘塔という。霊骨は水晶の小壺(つぼ)に納め、石塔の下に安置された。


上が、玄奘三蔵の頂骨が慈恩寺に奉安されるようになった経緯である。その後、昭和30年(1955) に台湾の仏教教会からの申し入れで、霊骨の一部が台湾に分骨された。そのとき、対立している台湾に分骨するとは何事だと、中国仏教界から大反発が起きたという。さらに、昭和56年(1981)には法相宗の大本山である奈良の薬師寺にも分骨された。薬師寺では、平成3年(1991)、玄奘三蔵院伽藍が完成し、その分骨を安置した。

玄奘塔の前に置かれた玄奘三蔵の銅像
奘法師の正式の墓は西安市の興教寺にある。だが、2005年春の中国の反日デモの余波で、慈恩寺の頂骨の返還運動が起きている。戦後は台湾の国民党政府から「日中文化交流の礎であり、返還には及ばない」と認められたが、共産党政府は了解していない。反日感情が高まる中国内のネット上の書き込み内容も激しく、「日本は玄奘の霊骨を盗んでいった泥棒」という過激なものもあるらしい。

奘塔を囲う敷地の中に、西域を旅する玄奘三蔵の銅像が置かれている。銅像はインドへの求法の旅姿をイメージしたものだが、小生には、入寂後も仏教弘通の旅を続け、はるばる極東の島国までやってきた法師の姿に思えて仕方がない。仏教に国境は無い。玄奘の霊は、現在中国本土で祀られ、台湾で祭られ、そして日本で祀られている。それで良いではないか。



2005/10/24作成by n_ohsei2004
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