中将姫伝説


案内板の解説

 当麻寺の境内には、中将姫を解説した案内板が何枚も立っている。そこには、以下のような説明がなされている。

 中将姫は、奈良時代の右大臣藤原豊成公の娘で、幼くして母を失い、継母に育てられました。しかし、継母から嫌われ、ひばり山に捨てられてしまいました。その後、父と再会し一度は都に戻りましたが、姫の願いにより当麻寺に入り、称讃浄土経の一千巻の写経を達成し、十七歳で中将法如として仏門に入り曼荼羅(諸仏の悟りの境地を描いた絵図)を織ることを決意し、百駄の蓮茎を集めて蓮糸を繰り、これを井戸に浸すと糸は五色に染まりました。そしてその蓮糸を、一夜にして一丈五尺(約4m四方)もの蓮糸曼荼羅を織り上げました。姫が二十九歳の春、雲間から一丈の光明とともに、阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、姫は、西方極楽浄土へ向かわれたと伝えられています。「練供養」は、その伝承を再現したもので、毎年五月十四日に当麻寺において行われています。

中将姫
中将姫

  説明文の中の右大臣・藤原豊成は、藤原南家を創設した藤原武智麻呂の子で、藤原一族繁栄の礎を築いた不比等(ふひと)の孫にあたる。その藤原豊成と紫の前(親王の息女)との間に生まれたのが、中将姫と呼ばれる女性であるが、これが本名ではない。彼女の才能が世に知れ、9歳の時に、女帝孝謙天皇から三位中将の位を賜わったためとも、13歳になったとき、中将の内侍となり、それから中将姫と呼ばれるようになったとも言われている。残念ながら、本当の名前は伝わっていない。


後世に架上された中将姫伝説

中将姫
中将姫の像

 当麻寺の曼荼羅堂には、中将姫の自作と伝えられる「中将姫二十九歳像」が、本尊の文亀曼荼羅の右側に安置されている。清楚な袈裟を身にまとい、数珠を手にかけて合掌している小さな座像である。潤んで充血したような眼や、かすかに半開きになって紅をさした唇など、まるで生きているような像の表情は、見る者に妙な艶めかしさを感じさせる。作家の五木寛之氏は、はじめてこの像を見て以来、すっかりその虜になって、”大和のモナ・リザ”とさえ呼んでいる。この座像をすっくと立ち上がらせた立像が、境内の蓮を配した池の中央に立っている。その前に置かれた案内板には、上記のような説明が記されている。だが、これは世に流布している多くの中将姫伝説の、いわば要約版である。

 中将姫の物語は、13世紀の「當麻曼陀羅縁起絵巻」や「古今著聞集」に、あるいは14世紀の「元享釈書」など収められ、鎌倉時代にはすでに世間に広く流布していた。室町初期になると、世阿弥元清が中将姫を主人公にした謡曲「當麻」と「雲雀山」を作り、姫の名は世人に親しまれるようになった。江戸時代には、近松門左衛門などの劇作家によって中将姫が継母に虐げられる哀話が作られた。

 歴史上の人物を描いた物語は、時代が下るにつれてさまざまな逸話が追加されていく。特に宗教的色彩を帯びた物語は、いろんな奇談が付加されて、どこまでが事実でどこからが虚構なのか分からなくなってしまっている。たとえば、現代人の理性をもってすれば、一夜にして一丈五尺(約4m四方)もの蓮糸曼荼羅を織りあげた話など、とても信じられない。事実は、当麻寺に所蔵される当麻曼荼羅には、一人の女性が編み上げたという言い伝えがあっただけであろう。鎌倉時代に成立したとみられるこの言い伝えが、のちに中将姫伝説を生んだとされている。そもそも、中将姫という名は史書の中には登場しない。このため架空の人物とする説もある。

 だが、歴史的事実の追求などという野暮な詮索は、ここでは止めておこう。以下では、奈良時代に生まれ、生き、そして29歳という若さで西方浄土に召されていったとされる尼僧の物語を、伝記風にたどってみよう。



中将姫物語に描かれた尼僧の生涯

 誕生

 聖武天皇の天平19年(747年)8月18日、かねて子がなく長谷寺の観音に願をかけていた藤原豊成(727〜796)と紫の前(品沢親王の息女)との間に、一女が生まれた。中将姫である。出生地とされる奈良市三棟町には、現在「誕生寺」という中将姫ゆかりの寺が建っている。付近には徳融寺や高林寺など、中将姫伝説にまつわる他の寺も散在する。藤原四家のなかでも、最も力のあった南家の右大臣藤原豊成の娘として出生した彼女には、輝かしい未来が約束されているはずだった。だが.....
 5歳の時、生みの母の紫の前が死亡した。これが転機となって、彼女の不幸な人生が始まる。

 継母の嫉妬

 7歳の時、父豊成は橘諸房の息女・照夜の前を後妻に迎えた。
 8歳の時、継母に豊寿丸という男児が生まれた。豊寿丸を溺愛するあまり、継母は中将姫を邪魔者扱いするようになった。さらに、その年の春、孝謙女帝の御前で節句の祝賀が催され、中将姫は見事に琴を弾いて、女帝から褒められ三位中将の位を賜った。だが、照夜の前は箏の役で不覚をとってしまった。このため、中将姫に嫉妬し、憎むようになった。裸にして雪をかけたり、毒を盛ったりして、中将姫の命をも狙うようになった。照夜の前は、何度も中将姫の殺害計画を立てた。だが、いずれも成功しなかった。
 10歳のとき、継母は姫の毒殺を図るが、誤って我が子の豊寿丸が毒を飲み亡くなってしまった。

 逃亡

 11歳の時、父の豊成は、諸国巡視の旅に出た(一説には、一族の藤原仲麻呂と橘奈良麻呂との乱を、天皇に速やかに報告しなかったとされ、筑紫へ左遷されたと言われている)。これを好機として、継母は中将姫に汚名を被せ、家臣・松井嘉藤太に、菟田野(うたの)の日張(ひばり)山で姫を殺すように命じた。しかし、日頃から念仏に勤しみ亡き母の供養を怠らない姫の心優しさを知っていた嘉藤太は、中将姫を殺すことができなかった。彼は、照夜の前を欺いて、姫を菟田野の雲雀(ひばり)山(青蓮寺)へ連れて行き、そこに隠れ住まわせた(一説には、14歳の時に継母によって雲雀山に捨てられたともいう。また、日張山の伝承は他に有田市糸我町と橋本市恋野の2地方にも残っている)。

 出家

 都に戻った豊成は、照夜の前から中将姫の死を知らされて嘆き悲しんだ。しかし、翌年、たまたま宇陀に狩猟に来て山入りした際に、洞窟で一心に読経するやつれた女性に出合った。初めはお互いに父娘とわからなかったが、そのうち姫が気づき、涙を浮かべ父のふところに飛び込んだと伝えられている。豊成は中将姫都に連れ戻した。
 13歳のとき、中将の内侍となり、それから中将姫と呼ばれるようになった。
 16歳の時、后妃の勅を賜わった。だが、世上の栄華を望まない姫は、二上山山麓の当麻寺に入って仏の道に仕えることを決心した。

 当麻曼荼羅の作成

 17歳の時、実雅法師によって髪をおろして出家して「中将法如」となった。出家した姫は、称讃浄土経一千巻を書写して、当麻寺の経蔵に納めた。彼女は、生身の弥陀を拝みたいと、日頃から念じていた。ある時、霊感を得て、「われは長谷観音の化身である。生身の仏を拝みたいならば、百駄の蓮華の茎から繊維をとって曼陀羅を織るがよい」という仏の言葉を聞いた。そこで、近江・大和・河内から蓮の茎を集めて糸をとり、現在の石光寺の庭にあたる辺りに井戸を掘って、あふれ出る水に糸を浸したところ、ただちに五色に染まった。中将姫は3束の藁と2升の油で灯りをつけ、9尺四方の糸繰堂で、一節の竹を軸にして1丈5尺の当麻曼茶羅を織りあげたという。

 極楽往生

中将姫の墓
中将姫の墓
 29歳の時、生身の阿弥陀如来と二十五菩薩が現れて、仏道に精進を続けた中将法如を生きながら西方浄土へ迎えた。宝亀6年(775)年3月14日のこととされている(戒名 中将法女大比丘尼)。毎年5月14日に行われる「練供養(ねりくよう)会式」では、その様子を再現している。当麻寺の中之坊には、中将姫が髪を下ろした剃髪堂がある。当麻寺から石光寺に向かう途中にある共同墓地の一郭には、中将姫の墓や五輪塔がある。

 中将姫にゆかりがある奈良市の”ならまち”には、以下の寺が知られている。

  • 誕生寺(三棟町):中條姫が生まれた藤原豊成の屋敷跡とされる辺りに建っている。産湯を使った井戸があり、中将姫坐像を祀る。

  • 高林寺(井上町):本堂の前に、中将姫の父・藤原豊成の墓と伝えられる円墳がある。豊成と中将姫の坐像を祀る。

  • 安養寺(鳴川町):寺伝によると開祖は法如禅尼(中将姫)で、創建当時は横佩堂と呼ばれていた。

  • 徳融寺(鳴川町):山号は藤原豊成に因み豊成山といい、墓地に豊成と中将姫を祀る石塔や仏石がある。




2003/07/15作成by n.ohsei@bell.jp return