12月22日

済生会川口総合病院から埼玉医大国際医療センターへ搬送

埼玉医大国際医療センターへのアクセスマップ>
埼玉医大国際医療センターへのアクセスマップ
 搬送の日の朝は小雨で明けた。二週間眺めて来た窓の外の市街地が雨雲の下で薄く曇っている。カテーテル検査の後症状の悪さに驚いたのか、主治医から歩行できる範囲は病室内だけに限定された。そのため看護婦が体重計をベットの脇まで持ってくる。今朝の体重は75・9キロ。2週間の入院で4キロやせた。

 午前11時、国際医療センター差し回しの搬送車が到着。ベットからストレッチヤーに移されそのまま6階の病室から一階緊急搬送入口へ。自動ドアが開いた時、小雨混じりの冷気が吹き込んで来た。クリスマス寒気団の南下で関東地方は軒並み10度以下の冷え込みだそうだ。考えてみればこの2週間外の冷え込みなど知らずエアコンの効いた部屋でヌクヌクと過ごして来たことになる。

   埼玉医科大学医療センターは埼玉県の西の日高市山根にある。高速道路を利用しても搬送に一時間はかかるそうだ。西川口からは外環の戸田ICから高速にのり、美女木JC・関越自動車道・鶴ヶ峰JC・県央鶴ヶ峰ICまで。それから一般道を10キロ約15分ことになると言う。

  仰向けにストレッチヤーに乗せられたまま搬送車で運ばれるのは決して楽ではない。けっこう揺れる上に窓ガラスにカーテンがかけられているかスモッグガラスで外の景色がほとんど見えない。わずかに後部ガラスの上部から高速道路上空の灰色の空を垣間見える程度だ。車内暖房のためダクトから吹き出す温風が、もろに右の頬に当たり気分が悪くなる。さらに ピーポーピーポーと鳴らす警笛が車内に響きわたり、苛立った神経を刺激する。


高麗神社
高麗神社
 手元に地図ないから良く分からないが、国際医療センターの近くを高麗(こま)川流れているようだ。そうであれば、近くに高麗王若光(こまのこきし・じゃっこう)を祭神として祀る高麗神社があるはずだ。高麗王若光は高句麗の王族である。西暦668年に高句麗は唐・新羅連合軍よって滅ぼされるが、その直前の天智天皇5年(666)の冬10月、高句麗は軍事支援を要請するために、我が国に使節を派遣して来た。その中の副使に二位玄武若光(げんぶじゃっこう)という人物の名がある。

 二位の位階が、高句麗官位制度でどういう意味なのか、またどういう人物に与えられたのかは不明である。王族クラスに与えられた位階であるならば、この人物が高麗王若光と同一人物である可能性は高い。この使節が帰国したという記録はない。この時の副使が若光その人であったなら、我が国にとどまって母国救援のために近江政権の説得を続けたであろう。

高麗王若光の石像
高麗王若光の石像
 文武天皇の大宝3年(703)、若光は従五位下に任官され、さらに高句麗王族の一人として「王(こきし)」の姓を賜った。そのとき以来、彼は高麗王若光を名乗るようになった。それから13年後の霊亀元年(716)、時の政府は、東国各地に散らばっていた高句麗遺民1,799人を一地域に集めて安住せしめるのが彼らを遇する途と考えて、現在の埼玉県日高市を中心とする地域に土地を与え、新しく高麗郡(こまのこおり)を新設した。そのときまで相模国大磯の郡長などを歴任していた若光は、高麗郡の新設とともに郡の大領(長官)として赴任してきた。

 日高市の高麗本郷に、巾着田と呼ばれる場所がある。周辺の高麗川の岸辺は、全国でも最大規模の曼珠沙華の群生地として知られている。この地に住み着いた高句麗遺民は、高麗川が蛇行している事を巧みに利用して、付近の土地を水田に変えていった。すなわち、川を堰きとめて内側にあふれた水を導いて丘陵地帯に導き水田を開いたと伝えられている。近くの日和田山から見下ろすと、その形が巾着の形をしている事から、巾着田という名がついた。渡来人の最新技術がこうした灌漑工事を可能にした。その他にも、彼らはこの地方の人たちとの交流も大切にし、鍛冶、建築、工芸など各種の新しい技術を伝えたという。 天平2年(730)、若光は再び故国の土を踏むこともなく、この地で没した。高句麗滅亡から62年後のことである。


国際医療センターの緊急搬入口
国際医療センターの緊急搬入口
12時丁度、搬送車は国際医療センターの建物の緊急搬入口に到着した。 搬入車からストレッチャーが下ろされると、まず向かったのはCTスキャンの部屋である。巨大なドーナツのマシンが待ちかまえていて、その中に吸い込まれながら、ドーナツの中の回転部分が唸りをあげて小生の体を撮影する。
「まず頭部分を検査し、その後に胸を検査します」
なぜ頭部を? 悪いのは心臓だろ? しかしその疑問は後で検査結果を説明してくれた小池医師の説明を聞いて納得した。CTスキャンの後、レントゲン室に回され胸の写真を2撮られ、一旦A棟4階の402号室に移された。午後になって再び検査室に呼ばれ、心電図とエコーの写真を撮られた。エコーは今まで15分程度の検査だったが、今回は1時間近くかかり、心臓だけでなく首や両足まで調べられた。何をそんなに調べるのかと担当の女性に聞いたら、バイバス手術に使えそうな血管の場所を探しているとい言う。

玄関前庭の「愛・希望・祈り」をテーマとした3人の乙女像
玄関前庭の「愛・希望・祈り」をテーマとした3人の乙女像
 午後4時に説明・相談室に呼ばれた。そこはテーブルと三脚の椅子、それにテーブルの上にノートパソコンが置かれているだけの極めて簡素な部屋だった。ずいぶん待たされた。五時少し前に精悍な顔付きの医師が入ってきた。グリーンの手術着に身を包みマスクをしているので相貌は分からないが鼻筋が通っており奥目がちの目つきが鋭い。いかにも若い女性看護師に持てそうな医師である。
「突然急用が舞い込みお待たせすることになり、申し訳ありませんでした」と謝罪して着席すると、「わたくし、こういうものです」と一枚の名刺差し出した。埼玉医科大学国際医療センター 心臓血管外科 医局長小池裕之とあった。

国際医療センターの正面
国際医療センターの正面
 彼はまず、入院時に手渡された冠動脈バイパス手術の説明書に基づいて、入院生活と手術に付いて説明した後、輪切りにされた小生の脳の写真をノートパソコンのモニターに映し出し、一部に白く光る点を指差した。
「脳梗塞の跡です」
「跡? 今まで脳梗塞を患った記憶はないが・・・」
「おそらく以前に軽い梗塞を患ったけど、気づかないうちに治ってしまったのでしょう。今度の手術には影響ありません」

 小池医師は検査データを一通り目を通していたのか、続いてこう言った。
「オウセイサンの心臓は非常に危険な状態にあります。様態が急変すれば直ぐにでも冠動脈バイパス手術をしなければなりません。病院としてはすでにその体制を整えました。その上で病院からのお願いなのですが、今少し点滴などで心臓の状態を安定させ、できるだけ手術を阻害する要因を取り除いておきたいのです」
それによって手術の危険性を半減できるとのことだ。どんなに時期を遅らせても年内には手術を実施したいというので、病院側の提案を受けることにした。

 説明が終わって雑談になったとき、「チーム・バチスタの栄光」の話をすると、小池医師は「映画化でこの病院を使ったとき、医療行為の監修は私がやりました」と、特に自慢するそぶりも見せずに言った。この病院がバチスタ病院と呼ばれるのも一理あると思った。



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