12月26日

心臓病の治療で3回も病院の世話になった不摂生男

 この闘病記の「はじめに」の冒頭で書いたように、今回が3回目の入院生活である。過去の2回は外的手術など施されなかったが、かなり長期間入院生活を余儀なくされた。それに懲りずに相変わらず不摂生な食生活を続けて来た結果、神はついに天罰を下した。今回は冠動脈バイパス手術が必要なほど己の心臓を痛め、そして弱らせてしまった。そのバイパス手術を明日受けることになった。
 本日の夕方、心臓血管外科の医師の一人から次のように告げられた。
「オウセイサンの冠動脈バイパス手術を、一応27日の朝一番に予定しています。7時半には手術室に入る準備をしておいてください」

 ”一応”と条件が付いている。それは、この国際医療センターが埼玉全域をカバーする緊急救命施設だからである。県内各地の病院から手に負えなくなった重症患者が毎日のように救急車やドクター・ヘリで搬送されてくる。中にはその日の内に緊急手術を施さななければ絶命してしまう患者もいる。そうした患者が搬送されてくる時は、必然的に手術予定の順序が繰り下がる。゛一応゛という言葉にはそういう意味が含まれている。

 したがって手術予定日を告げられたとき、不思議となんの感慨も湧かなかった。淡々と携帯のカレンダーを開き、ミーティングの予定日を登録するように手術日時を記入し、そのまま携帯の蓋をとじた。しかし、心臓手術は失敗すれば直ちに己の死に直結するリスクの高い手術であり、絶対に安全とは言えない。無意識にそうした不安を感じとっていたのか、夜中の2時には目が覚めた。そして、21年前心筋梗塞で倒れて集中治療室にかつぎ込まれた時のことをまざまざと思い出した。

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 あれは秋の彼岸の前日だった。京都の末弟が仕事で久しぶりに上京して来たので、夕食は蟹を食べようと、産業道路沿いの専門店へ家内と三人で出かけた。お代わり自由なのでこのときとばかり、腹一杯詰め込んだ。それがいけなかったのか、途中から腹が痛くなり胸が苦しくなった。急いでトイレに飛び込んで便座に腰掛けたが、便は出ない。その代わり、顔や頭から大粒の汗が滝のように流れ落ち、床がたちまち濡れてしまった。それに加えて胸の締め付けは一層きつくなり呼吸するのも困難だった。

 知らないというのは本当に怖いことだ。そのとき心筋梗塞の発作だと気づいて直ぐに救急車を呼んでいたら大事にはいたらなかっただろう。ところが小生には若い頃から肋間神経痛の持病があり、その胸の痛みが心臓発作に似ていた。そのため痛み止めの薬を飲んで横になっていた。その上、ゆっくり休んでおれない事情があった。一年前に立ち上げたドキュメントハウスがようやく軌道に乗り始め、ソニーが英国に初めて納める携帯電話の英文マニュアルの製作期限が2日後に迫っていた。

 操作手順の記述はすでに終わっていて、後は全体的に゛てにおは゛の手直し作業が残っているだけだった。家族は家内の実家の墓参りに朝から出かけていて留守番をしていたが、昼頃から起き出して事務所に顔を出すと、作業に取りかかった。作業を継続できたのはせいぜい二時間で、胸の締めつけが時間をおって強まり、ついには床に崩れ落ちた。やっとのことで119番をダイヤルして、救急車で済生会川口総合病院へ搬送してもらった。

 最初の発作からすでに31時間が経過していた。心臓発作が起きてから2時間以内に集中治療室のある病院に担ぎ込まれなければ、死亡率五割と言われていた時代である。緊急搬入口でストレッチヤーが降ろされた時、看護婦が着ていたランニングシャツを脱がせられないので、「ハサミで切っていいですか?」と聞かれたのを、今でもハッキリ覚えている。頷いて同意した後、気を失ってしまった。

済生会病院の談話室
済生会病院の談話室
 その後、奇妙な経験をした。自分の体がフワッと宙に浮いたのである。足元を見ると、自分の死体が集中治療室のベッドで長々と横たわっている。自分はその肉体から抜け出した霊のようで、部屋の天井の高さからしばらくその抜け殻を見下ろしていたが、そのうち、何かに吸引され、体が空中を遊泳し高みの漆黒の闇の方へ引っ張られていくのに気付いた。上空をみあげると、頭上5mぼどのところで、いぶし銀に光るドーナツ状の物体が静かに回っている。どうやらその物体に牽引されてどこかへ運ばれているようだ。

 闇に目が慣れるにつれて、幾つもの円盤が浮遊する死霊を一定の方向に導いている。そこで気づいた事がある。西洋の宗教画では、天使たちの頭上にかならず金色のワッカが描かれている。あれは単なる想像の産物だと思い込んでいたが、古代の画家の一人が瀕死の状態の時小生と同じ経験をしていたにちがいない。

 だいぶ長い間空中遊泳をしていたようだが、やがて遠くから川のせせらぎのような音が聞こえてきた。自分の体が闇の中をどんどん下降していき、それにつれてせせらぎの音も次第に大きくなっていく。ああ、昔話に聞いた三途の川を渡るんだ、ロクモン銭が必要な筈たが、そんなもの用意して来なかったよな… 、どうなるんだろうなどと独り言を言っているうちに、川岸に降ろされた。すると、今までせせらぎの音たと思っていたものが、人の声に変わった。

 目を開けると、ベッドの周りで家族や親類縁者が小生を覗き込んでいた。昨日京都に戻ったはずの弟の顔まであった。驚いて声をあげた。
「お前たち、どうしたんだ? ここで何してんだ?」
後で家内から聞いた話では、主治医から「ご主人は八割かた駄目ですから、今のうちに親戚を呼ばれたら良いでしょう」と言われたそうだ。蘇生した時は、「生命力の強い方ですね」と驚いていたという。 後にクラス会の席でこの話をすると、同期生の一人から
「それは君の臨死体験だよ」
と教えてくれた。そんなものかな…それなら、死ぬのもそれほど怖くないな、と思うようになった。

 普通なら術後3日ほどで集中治療室を出れるのだが、そのときは3週間近く治療室で両手両足を固定されて過ごした。心筋梗塞の他に肺梗塞も併発していて、血中の酸素濃度が規定値に達しないのだ。
「このままでは、酸素ボンベ持ち歩きですね」
と主治医に脅かされ、検査の前にはいつも大きな深呼吸をしていた。

 集中治療室には2つのベッドしかなかった。3週間の間にカーテンで区切られた隣のベッドで3人の患者がなくなった。ベッドの周りで泣き崩れる家族の声をカーテン越に聞くのはつらかった。次は俺の番だ…そうした思いが日増しに強くなっていった。ある夜のこと、一晩中降りしきる雨音を聞きながら来し方を思い返していると、なぜか無性に泣けて来た。51年の己の人生は何だったのかとの思いがそうさせた。

 皇紀2600年と言われた年に小生は北陸の片田舎で貧しい地方公務員の長男として生を受けた。当時の田舎では、義務教育の中学を卒業すると都会へ丁稚奉公に出されることが多かった。地方公務員の給料は安く、母が近くの織物工場で働き家計を助けていた。しかし、高校へ進学したいと言うと、父は黙って許してくれた。さらに大学へ行きたいと言うと、これも許してくれた。

 しかし志望校の大阪外大の受験に失敗した。二度目の挑戦でようやく入学できると、一番喜んでくれたのは父で、
「これからの語学の勉強にはこれが必要だろう」
と、当時はまだ高かったソニーのテープレコーダを買ってくれた。その父も大学二年の春他界した。

 大学を卒業して沖電気工業に入社すると、二年目の春に南米ボリビアへ海外勤務を命じられ赴任した。おそらく同期生の中では一番早い海外勤務だっただろう。しかし1年半の激務の疲労とストレスで十二指腸潰瘍を患って、帰国後3ヶ月間済生会病院に入院した。その後短期南米出張は何回か繰り返したが、十二指腸潰瘍が再発し、14年と一ヶ月でサラリーマン生活に終止符を打った。

 その後はフリーの翻訳者として気ままに生きてきた。 昭和62年(1987)年、翻訳者仲間とドキュメント会社を設立し、専務取締役として経営を担当した。しかし、いろんな経緯があって、平成2年(1990)5月、有限会社「エル・ムンド企画」を設立し、西川口陸橋脇のマンションの一室を借りて事務所とした。そして固定客から翻訳の依頼が増え始めた矢先、心筋梗塞に見舞われた。

   たかだかそれだけの人生である。ごく平凡に生き、人様に誇るべき実績も上げないまま初老の域に達していた。51年の人生を振り返って忸怩たる思いにとらわれ、一晩中流れ出る涙を必死に堪えて、隣の民家の屋根を打つ雨音を一晩中聞いていた。その時の雨音は今でも耳の奥に残っている。


済生会病院のナーステーションの飾り
済生会病院のナーステーションの飾り
 それから6年後平成9年(1997)12月、再び心臓発作に見舞われ済生会川口総合病院に緊急入院した。病名は不安定性狭心症だった。検査入院のつもりが入院生活は3週間にも及んだ。主治医は新潟大学医学部を卒業して赴任してきた太刀川という若い医師だった。患者の面倒を良く見、病院の中を精力的に動き回っていたので、若い女性看護師の間では人気があり、"熱血先生”と呼ばれていた。

 その医師が、カテーテル検査が終わって大腿動脈から管を抜いた後、止血のために30分くらい傷口を押さえ続けてくれた。その時いろんな話をしてくれた。今回の発作は左冠動脈の先端近くの狭窄部に血栓が詰まって生じたもので、そうした可能性のある箇所がまだいくつかあるという。バルーン療法やステント療法でそうした箇所を治療してくれないのかと聞くと、小生の冠動脈は動脈硬化がかなり進んでおり、そこまではカテーテルを挿入できないとの返事が返ってきた。そして、そうした冠動脈の先の方でまた別の狭窄部が詰まっても命には別状はない、と付け加えた。

 思い切って心臓を取り替えて貰うことができないのかと冗談で聞くと、言下に難しいでしょうねとの答えが返ってきた。理由を聞くとと、動脈硬化が進んでいて、今の技術では手術で血栓が飛んで脳梗塞などを引き起こす恐れがあるという。では、どうすれば良いのかと重ねて聞くと、自然に任せるのが一番でしょうと、一瞬寂しそうな表情を浮かべながら答えた。医師としてどうにもしてやれない苦渋のようなものが、彼の表情に浮かんだ。つまり、それは自然死の宣告のようなものだった。

 退院する直前、その医師に呼び止められた。何事だろうと彼の後をついていくと、モニター室に案内された。そこで、二つの画面上に別々の心臓の鼓動する映像が映し出された。一方は健康な心臓で、血液を送り出す動きを躍動的で力強く繰り返していた。もう一方の心臓は動きが鈍く、のたりのたりと鼓動している。これが現在のオウセイサンの心臓の動きですと、彼は言った。だから余り無理をしてはいけませんよ、と退院前に警告しておきたかったようだ。その心臓を抱いたまま、小生は今日まで15年間生きて来た。



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