12月30日

眠れぬ夜、まるで走馬燈のように現れては消える幻覚

 麻酔から覚めて最も悩まされたのは、幻覚症状だ。集中治療室は夜になってもゆっくりと休める場所ではない。カーテンを閉めていても、一晩中看護師達の動きがざわついている。病室のあちこちで痰をきる苦しい音が響く。それに加えて、術後で己の神経が異常に高ぶっていて目を閉じていても眠気を覚えることもない。結局、昨晩は一睡もできず、一晩中悶々とした時間を過ごした。

 それどころか、ベッドの上で横になりまぶたを閉じただけで、眼前が巨大なスクリーンと化し、さまざまなシーンを映し出してくる。少年時代の思い出や、学生時代に共に学んだ学友たち、卒業と同時に通信機メーカーに就職して、高度成長時代に寝る間を惜しんで海外営業に従事した来た日々、今は亡き家内との貧乏ながらも楽しかった新婚生活。そして体調を壊してサラリーマン生活に見切りをつけ、フリーランスの翻訳者として日夜苦労した頃の様々な出来事、etc, etc。

 それは、どこかに忘れてきたCDが次々を復活して、古い記憶を蘇られているようだった。たいして波乱に富んだ人生を生きて来たわけでもないのに、こんなにも多くの場面に遭遇していたのかと、その数の多さに驚くばかりである。おそらくバイパス手術のおかげで記憶の底に澱のように沈んでいた思い出が、水泡のようにわき上がって幻覚として蘇ってきたのであろう。まるで何万枚のCDを一挙に見せつけるように、幻覚はそうした思い出を次々と映し出してくれる。

 集中治療室の一日は特記するほどの変化もなく繰り返されていく。それを克明に綴っても意味がない。それよりも幻覚が思い起こしてくれた、今ではすっかり忘れていた思い出を書き留めておくことは、小生にとって意義のあることである。他人にはどうでもよい事だが、よかったら付き合って頂きたい。27日の手術が万が一にも失敗していたら、誰にも知られることなく忘れられてしまった小生の人生経験である。

幻覚が思い出させた記憶−1:月見草

 小学校3年生の春、小生は結核を患った。終戦直後で、ツベリクリンなど自由に調達できない時代で、"結核”"肺病”は死の病とされた。その頃、父は地方公務員をしていて結核で倒れた。周囲から隔離され療養に専念するため三国市の郊外にある福井県立療養所「北潟臨湖園」に入ることを決めた。その少し前、父は小生を最寄りの病院へ連れて行き、結核に感染していないか調べさせた。

 その結果、陽性反応が出て父と一緒に同じ療養所に入ることになった。すでに小学3年の教科書の配布を受けていたので、それらを新しいランドセルに詰めて、父についていった。三国駅から療養所差し回しの小型トラックの荷台に載せられ、砂埃の舞い上がる道を連れて行かれたのを、何故か今も鮮明に覚えている。

 療養所は人里離れた北潟湖の林の中にあった。病棟では父と同じ六人部屋に入れられたが、入院患者はいずれも大人ばかりで小学生の子供は小生だけだった。遊び相手がいなくて寂しい思いをした。ただ、同じ病室に髭ずらでイガグリ頭の坊さんがいて、彼から将棋の手ほどきを受けた。安静に寝ている時間を除き、たいてい彼のベッドの上に座って対局した。

 もとより小学3年生の子供にとって自分が結核であるという自覚はさらさらない。平熱が37度と幾分高かったが、五体満足でありじっとしているのが何より苦手だった。それで、頻繁にナースステーションに押しかけてクッキーなどの駄菓子を貰っていた。何人かいた看護婦のなかで、”スズさん”と呼んでいた一番若い女性が、なぜか小生を可愛がってくれた。

月見草
月見草
 彼女は夕方仕事が一段落すると、よく散歩に連れ出してくれた。北潟湖の周囲の丘陵地帯は海に近いせいで、松林が一面に広がっていた。その中に月見草があちこちに咲いていた。

 「この花は、誰も見ていない夜、月が出る頃に白い花を開くが、明け方にはしぼんでしまい薄いピンクいろになるのよ」、
と、スズさんが教えてくれた。時には、スズさんに肩を抱かれながら月見草の前で月の出を待ったことがある。その時彼女から匂ってくる若い女性特有の何ともいえない心地よい匂いがした。その香りが懐かしい。

 結局小学3年の一学期は一日も登校することなく終えた。その間に校舎が全焼し、2学期の授業は近くの織物工場の二階を借りて始まった。2学期が始まってみて、療養所で独学で教科書で勉強していた内容が、学校の授業よりはるかに進んでいた。そのため、一学期の空白があったにもかかわらず、難なく授業について行くことができた。

 3学期になって、担任の女先生に呼ばれた。
「オウセイさんは1学期の出席日数が完全にゼロなので、校長先生から留年させた方がよいのでは、との相談を受けました。しかし君の2学期の成績は1学期の空白を感じさせないほどでしたので、その必要はありませんと答えておきました」
かくして留年することもなく3学年を終えることができたが、6学年を卒業するまで、体育の授業はいつも見学に回された。激しい運動をこなすだけの体力が回復していないと思われたためである。

   その反動は中学校に進学して起きた。卓球部やバレーボール部に席を置き、放課後暗くなるまで汗を流した。


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