1月1日

元旦早々から緊急事態発生

 夜明け前少しまどろんだようだ。朝の点灯で起こされた。こうして思いがけず新しい年の正月を集中治療室のベッドの上で迎えることになった。我が人生最悪の一年になるような気もするし、死の淵から生還できたのだから何か良いことがありそうな気がする。

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松飾り
 看護師たちもいつものように出勤してくるが、年頭の挨拶を交わしている様子は見られない。ただ、交替で正月休みを取るようにしているのか、その数は半減している。本日は、昨夜ドクター・ヘリで搬送されてきた急患に加えて、もう一人の緊急オペが予定されているようだ。救急医療センターの宿命として盆も正月もないのかもしれない。当然、何人かの看護師はオペ支援に回されるはずだ。集中治療室の出勤している看護師はいつもより半減しているが、午後からはさらに手薄となる。

 このような状態で、いったん何かの変事が起きれば、どのように対応するのだろうか。朝からなんとなく昨日とは違った雰囲気の医療現場を見ながら、なにも起こらないことを祈った。だが現実には危惧していたことが起こった。

 小生のベッドの右手前方で、その女性は治療看護を受けていた。おかっぱ頭のまだ若い少女のように見えた。あの年頃に心臓外科の手術を受けなければならなかったのかと思うと可哀想に思えた。いつ見ても、ベッドの背もたれを垂直に立てて、幾分首を斜めに傾けて物憂げな表情を浮かべていた。その女性が本日の午前中、呼吸困難に陥って急に苦しみだしたので、当直医がベッドで肺の水を抜く応急処置を施してやった。局部麻酔をかけ背中から2本の針を刺して、「これは天皇陛下も行なった処置で、怖いことはないんだよ」と優しく語りかけながら左右の肺から400ccの水を抜いてやったようだ。処置が終わると、「さあ、これで呼吸も楽になる。安心していいんだよ」と快活に笑いながら、少女の肩を叩いた。

 昨日から正月休みに入り、さしもの国際医療センターも職員が平常時の半分しか出勤していない。3ユニットある医師スタッフ団も1ユニットずつ交替で休暇を取るようだ。昨日の夜ドクター・ヘリで搬送されてきた急患の手術が元旦の午後8時頃終了し、集中治療室に運び込まれる予定になっていた。新年最初のオペ患者を受け入れる準備で、集中治療室はベッドの準備などで一時騒然としていた。

寒椿
寒椿
 午後8時頃、入口付近で「ベッドが来ます」という声が聞こえ、続いてストレッチャーが運ばれてくる音がした。だが、入口手前まで来たとき、「79−33」と急激な血圧降下を示す叫び声がした後、幾ら待ってみオペ患者を乗せたストレッチャーは姿を現さなかった。後で聞いた話では、集中治療室の入口から手術室にUターンし応急手術を施して別の集中治療室へ運ばれたとのことだった。

 そのため、本日に予定されていたもう一件の緊急手術の開始時間が大幅に遅れた。夜の10時頃開始され、明日の未明3時過ぎまで続く見通しだった。元旦から立て続けに2件の急患の手術を実行するとは、さすがは国際医療センターだと関心したが、その間集中治療室の当直医や数名の看護師が緊急オペの支援にまわり、当直医がいない状態が何時間も続いた。悲劇はその間に起きた。

 本日の午後8時頃、少女の容態が急変したのか、また苦しみだした。さかんにナースコールボタンを探している様子だが、見つからないらしく顔がゆがんでくるのは遠目にも分かる。室内を見回しても当直医の姿はなく、二人いた看護師はいずれも遠くの患者のモニター画面とにらめっこしている。見かねて、小生のベッドのナースコールボタンを使って看護師の一人を呼びつけ、少女が先ほどから苦しんでいるのを伝えた。

 看護師は少女のモニターの前に行き、血中酸素の量が減じているのに気づいた。それで、「大きく呼吸してみてください」と深呼吸を促した。変化がないと知ると「ベッドを起こして頭の位置を変えてみましょう」とベッドの背もたれ部を起こした。さらに痰を吸い上げる管を口から差し込んで咳をさせた。ゲーゲーと苦しげな少女の苦しげな叫び声が小生の所まで聞こえた。それでも少しは楽になったのか、少女の苦しげな表情が幾分和らいだ。

 看護師は、本人の代わりにナースコールをかけてくれた礼を述べにきた。それに対して、
「正月元旦から2件の緊急オペが入り、人手不足で集中治療室の看護師がその支援にまわらなけれならない事情はわかる。といって何時間も当直医がいない集中治療室なんて聞いたことがない」
と苦言を吐いた。

ロウバイ
ロウバイ
 異変は夜中の3時に起きた。少女は再び苦しみだした。彼女のベッドの脇で二人の看護師が交互に彼女の名を呼んでいたが、彼女の反応がなくなったので当直医を呼んだ。真夜中の手術が終わって、当直医は集中治療室に戻ってきたばかりだった。彼は急いで駆けつけ、少女の容態みて叫んだ。
「緊急呼吸器!」
その一声が契機となって、少女のベッドのまわりはたちまち救命救助の戦場と化した。手術支援から戻ってきた看護師たちが人工呼吸に必要な器具や薬を少女のベッドのまわりに手早く配備した。その手際の良さはまさに驚異に値した。

 たまたま小生のベッドが少女のベッドの右前に位置していたので、パーテーションを区切るカーテンの切れ目から、彼らの活動の一部始終を実際に見ること事になった。テレビで放映された「ER緊急救命室」の現場に直接居合わせたことになる。

 当直医と女性のベテラン看護師が交替で人工呼吸を施した。電気ショックも試みられた。緊張した時間が続いたが、30分ほどして少女の脈拍が戻ってきたらしく、モニター画面に一定間隔 でパルスの波形が現れだした。最悪の危機は脱したようだ。戦場と化した救命医療の現場に安堵の色が広がっていくのが感じられた。小生まで何故かほっとした。

 その後少しまどろんだようだ。4時過ぎに目を覚ますと、カーテンの向こうでベテラン看護師のKさんを交えて当直医たちが異変の原因が究明されていた。そして、前日の午前中に実施した水抜きの際に何か不備があったことに、レントゲン写真やモニター上のデータの変動からたどりついたようだ。それ以降に断片的に聞こえてくる彼らが会話が何か異常に聞こえた。異変の原因をストレートに示すのはまずい、何らかの突発的な原因でいう風に表現を変えた方がよい、こうした表現だと遺族は保険を満額貰える、といった会話のはしばしが聞こえてくる。

 何かがおかしい。一時間ほどまどろんだ間に事態は再び急変したに違いない。少女の遺体はすでに霊安室に運ばれ、残ったベッドのまわりで、遺族に対する弁明の口裏を合わせる作業が行われていたのだろう。2日の午前8時、電話連絡を受けた少女の両親が駆けつけてきた。毎日15分の面会時間に姿を見せていた小太りの農夫と思われる父親と、その連れ合いの小柄な母親である。臨時に設けられた衝立の向こうで担当医の説明を聞いていた母親は、説明の途中でワーッと大きく泣き崩れた。さすがに父親は嗚咽を漏らすのを必死でこらえているらしく、ジャンバーを羽織った肩が小刻みに揺れていた。担当医から一通りの説明を聞いた後、二人は看護師に伴われて霊安室に向かった。

 病院側が少女の死をどの様に遺族に説明したかは知らない。だが、小生は緊急事態発生時に集中治療室に当直医が不在で、看護師がマニュアル通りの処置しか取らなかったのが原因ではないかと疑っている。もし、夜の9時の時点で当直医が詰めていて患者の容態に気づき、適切な指示を看護師たちに与えていたら、事情は変わっていたかもしれない。

 それにしても手術が無事に終わっても、集中治療室に横たわる患者の命を、死に神は虎視眈々と狙っているようだ。そう思うと、背筋に冷たい物が走った。



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