1月2日

病院側の説明責任

 本日は麻酔から覚醒して5日目である。昨晩から本日の明け方にかけての騒動で一睡もできなかった。麻酔から覚めた時に小生は死の淵から生還できたと確信したが、あの騒動を見て実際は違うようだと悟った。集中治療室で治療を受けている間は、まだ生と死の狭間をさ迷っている状態かもしれない。何時呼吸困難に陥り、奈落の底に引きずり込まれないとも限らないのだ。死の恐怖が不意に高まった。

 気付いてみると、この5日間いずれの医師からも治療の経過や現状、今後の見通しを聞いたことが無い。三本のバイパスを入れたという話は、手術が終わるのを待機していた娘に執刀医が話したことで、本人には何も知らされていない。今朝の騒動の後では、なおさらである。それで、本日担当の看護師を呼び止めて、
「どなたの先生でもよいから、術後の今の状況やこれからの予定についてお聞きしたい」
と伝えた。ところが、今まで患者からこうした依頼を受けたことがないのか、看護師が無反応なのだ。

 小生のベッドは、8人部屋の一番入口にある。数人の医師で構成された朝の回診の時でも、看護師が打ち込んだ前日のデータを最初に覗き込んで、二言三言互いに話し合うが、患者である小生には声もかけない。それどころか見向きもしないで、次の患者の所へ行ってしまう。まったく無視されているようで気分を害する。こうした扱いに対するストレスが貯まっていたのか、無反応の看護師に対して、強い言葉を投げかけてしまった。
「病院側には説明責任があるのと違う? 患者は医師から話しかけられたり、直接説明を受けないと、自分の治療経過に不安を抱いている。それなのに、何も知らされずにいるのは苦しい。患者は納得できるまで説明を聞く権利がある。病院側はしっかり説明責任を果たして欲しい」
余り苦言を呈するのは本意ではなかったが、言うだけ言うと、看護師は分かりましたとだけ言ってその場を立ち去った。

 どの医師も急患のオペで忙しい。術後の患者の依頼などいちいち聞いている暇がない。それが実情だろうと諦めていると、夕方一人の医師がやってきて、こう説明した。
「オウセイさんの心臓は他の方より弱っていて、正常な血圧がまだ確保できない状態にあります。そのため、血圧を高める薬を点滴にいれており、それを少なくする方向で調整しています。徐徐に減らしても問題なさそうなので、後しばらく様子を見て首に挿してある管を抜くことができるでしょう。そしたら、室内歩行訓練も可能になります。どうかご安心ください。順調に快復方向にむかっています」

 医師から聞きたかったのは、最後の一言だ。その一言で、退屈な集中治療を希望をもって続けられる。ところで、この病院のシステムは分からない点が多い。誰が小生の主治医か分からないのだ。看護師に聞くと意外な返事が返ってきた。先生方全員が主治医です、と。

幻覚が思い出させた記憶−3:ボリビアでゲリラを捕まえた話

 さまざまな幻覚を見た中に、なぜかゲリラを捕まえた時の様子があった。その話を下記しておこう。

ゲリラ戦士チェ・ゲバラ
ゲリラ戦士チェ・ゲバラ
 20世紀最大のカリスマと言えば、カストロの右腕として1959年にキューバ革命に参加したエルネスト・チェ・ゲバラであろう。小生とゲバラの間には、むろん何の接点もない。だが、 外国語大学でスペイン語を専攻したのは、当時の左翼がかった若者の風潮の中で革命の国キューバに興味を持ったからである。特にラテン音楽が好きだった訳ではない。中南米文学に惹かれた訳でもない。

 ただ、北の巨人アメリカ合衆国の鼻先で赤い国旗の社会主義国家を出現させたことに、心躍るものを感じた。と言って、マルクス主義に共鳴していた訳ではない。大学に入学した1960年は、日米安保条約の批准問題で国論が二分した年である。入学式の日から校門にピケを張られ、マルクス主義にかぶれた一部の学生指導者たちによって、連日のように御堂筋などの街頭デモにかり出された。デモの先頭に立って警官ともみ合いになり、膝を蹴られて痛い思いをしたこともある。だが理屈ばかりが先行する彼らのマルクス主義にはついて行けなかった。

 大学時代を通してゲバラの噂をよく耳にするようになった。国立銀行総裁として新紙幣に”Che"とだけ簡単に署名した話は有名だし、砂糖買い付けの増量を求めてソ連をはじめ世界各国を歴訪し我が国にも来ていた。彼はまた「ゲリラ戦争」など何冊もの本を出版して、キューバ革命政府内の秀でた理論家でもあった。

   そのゲバラが、ある日カストロ宛に別れの手紙を残して消えた。「第二、第三、そしてより多くのベトナムを・・・」をスローガンに、彼は先ずコンゴに現れた。農民達によるゲリラ戦線をあちこちに構築してアメリカの巨大な軍事力に対抗しようとする彼の情熱は、ある意味では現代のドン・キホーテを想像されて、そのロマンチストぶりが憎めなかった。

 やがて彼の姿はコンゴからも消え、しばらく所在不明となった。ゲバラの存在が再び取りざたされるようになったのは、1966年5月頃である。沖電気工業がボリビアのサンタクルス市で実施している電話工事に、小生が渉外係として赴任した頃、ゲバラは変装してボリビアに入り、ニャンカワスのジャングルの中に消えた。

牧場での射撃練習
牧場での射撃練習
 ゲバラがボリビア南部のジャングルで密かにゲリラ戦線を組織しているとの噂がマスコミに報道されるようになった頃、工事事務所に一人のボリビア正規軍の将校と名乗る人物が訪れてきた。小生が応対に出ていろいろ話しを聞いてみると、ラパスの日本人関係者からこの事務所を紹介された、これから戦闘地区に赴任するが、家族を同伴するには資金が少したりない、なんとか少しでも援助して貰えないか・・・と言うのが、彼の話の骨子だった。

 話を聞いているうちに、腑に落ちない点がいくつか出てきた。そこで事務所で雇っている日系二世の青年に、日本語で、
「この男、軍人と言っているがどうもおかしい。軍警察に連絡をとって調べて貰ってくれ」
と指示した。やがて青年は二人の憲兵を連れて戻ってくると、その男はがっちりと両腕を捕まえられて連行されて行った。

 翌日の地方紙を見て驚いた。”沖電気がゲリラを捕らえた”という見出しで、その男はボリビア正規軍の兵士に化けてゲリラ支援のための資金を集めていた”、と報じていた。さて、困ったと思った。いつ事務所がゲリラに復讐されるかもしれない。ベッドの枕元にピストルを隠して寝る日々が続いた。

   しかし、ピストルなど扱ったことがない。そのことを日系二世の青年に話すと、彼は練習に格好の場所がありますと、休みの日に案内してくれた。そこは日系人が経営する牧場だった。 その牧場でコカコーラの空き瓶を並べて実弾を発射してみた。素人が狙いすまして引き金を引いても、標的にあたるものではない。西部劇で二丁拳銃をぶっ放して悪を退治して行くような訳にはいかない。ライフル銃ですら、筒先をスコップの柄などで固定しないと、標的を捕らえることはできない。

ドブレ裁判が行われたYPFB図書館前
ドブレ裁判が行われたYPFB図書館前
 サンタクルス市の電話施設設置工事が終わって、引き続き同じ州の南方の石油の町カミリでも新しく電話工事を行なうことになり、工事隊と共にそちらに移動した。カミリはYPFBという石油公社が運営する製油工場があり、ゲリラ騒動が発覚してからは、警戒が厳しくなっていた。300加入ほどの規模の小さい電話交換設備の工事で約半年後が納期だった。

 カミリで電話工事に従事していたころ、レジ・ドブレというフランス人の青年がゲバラとの単独インタビューのためニャンカワス地区に入り、正規兵に捕まった。その軍事裁判が、我々の宿舎にほど近いYPFB図書館で開かれた。裁判のある日は、正面の道を封鎖する兵士が銃を構えて並び、見ていても気持ちの良い光景ではなかった。

ゲバラの死を報じる67年10月11日付けEl Diario紙
ゲバラの死を報じる67年10月11日付けEl Diario紙
 カミリはサンタクルスとの間に週に三日航空機を運航しているだけの不便な場所である。そのため、新聞は2日遅れ、3日遅れで届く。ある日新聞を開いて驚いた。一面トップにゲバラが半ば裸体で横たわる写真が掲載され、ゲリラと正規軍が遭遇して銃撃戦となり負傷したと報じていた。だが、写真の胸部に銃痕のようなものがあった。時のボリビア大統領バリエントスは、カリスマの復活を阻止するため射殺を命じたようだ。

 蛇足ながら、ゲバラが殺される一ヶ月半前の8月31日、もやはり正規軍との抗戦で一人のゲリラ戦士が負傷し捕まった。厳しい拷問にも耐え何一つ答えなかったので射殺された。彼は”ビーバ・ボリビア(ボリビア万歳)!”と叫んで死出の旅についたそうだ。そのゲリラは医師で、しかもファーストネームがエルネストだった。そのことを新聞で知ったとき、チェ・ゲバラが殺されたものと錯覚した。実は、彼はエルネスト・マイムラという日系二世で、小生と同じ年頃の青年だった。



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