1月3日

首と腹から管が取り外される

 午前中、神部医師がベッドの傍に来た。昨日、小生の心臓は他の患者より弱っているため快復の遅れが心配されたが順調にきていると説明してくれた医師である。彼は、本日の午後、首からカテーテルともう一本の管を抜くことができると伝えた。

 午後3時、その医師がまたやってきて、小生の首から2本の管を抜いた。さらに腹部の切開部からにじみ出る液体排出用の管も抜いた。これで体の動きが大分楽になった。だが、点滴の管や酸素マスクはまだ装着されたままである。

 午後5時少し前、手術を終えた患者のベッドが、先日亡くなった少女のベッドがあった場所に運ばれてきた。だが、何か不具合が生じたようで、応急処置のため手術室へまた搬送されていった。

 午後8時に就寝した。と言って眠れるものでもない。目を閉じると、例によって幻覚が様々な過去を思い出させてくれた。その中に、小生が技術翻訳者の道に進むきっかけを与えてくれたペルーの通信隊兵士の顔があった。

幻覚が思い出させた記憶−4: 技術翻訳者を目指した理由

 小生がサラリーマン家業を辞めてフリーランスで技術翻訳の目指したきっかけは、1970年に南米ペルーの通信隊で実施した現地訓練にある。沖電気工業はその前の年に短波無線機とそれに接続して使用するテレックス端末装置を百数十台納入する契約を結んだ。テレックス端末装置は今も昔もオフィスの片隅に置かれる事務機である。ペルー陸軍はそれを野戦用のジープに積んで本部との交信に使用する計画だった。

 テレックス端末装置のそうした使用目的もはっきり確認せず国際入札で落札させた沖電気も沖電気である。ジープなどの車に積んで道なき道を走れば、その振動で受信したメッセージが誤字だらけになるのは目に見ている。そのため、後にその収拾に苦労させられることになる。

テレックス端末OKITYPER-4500
テレックス端末OKITYPER-4500
 沖電気のテレックス端末OKITYPER-4500は世界に先駆けて論理回路による制御方式を採用した画期的な装置だった。ペルー通信隊への納入は最初の実績だったが、納入マニュアルなどまだ影も形もなかった。当時、小生は体調を崩して一時海外営業部の訓練科に席をおいていた。ある日、訓練課長と目が合うと、課長は手招きしてこう言った。
「どうだろう、オウセイ君。OKITYPER-4500の訓練教材を作成してくれないか?」
「え? 課長、冗談でしょ? 小生は事務系です。論理回路の見方すらわかりません。分かっているのはOKITYPER-4500がタイプライタのお化けだということぐらいです」
小生の話を聞いた課長はニコリと笑った。
「何も新製品を開発してくれと頼んでいる訳ではない。新規開発された製品の動作原理やメンテナンス方法を、扱い者にも分かる平易なドキュメントに作成して欲しいだけだ。設計屋に書かせるよりも、むしろ事務屋の方が立派な物が作れるかもしれない。事務屋は技術が分からないととかく尻込みするが、技術など一般に思われているほど難しいものではない」

 結局課長に押しきられて訓練教材を作らされる羽目になったが、条件を付けた。
「一つ条件があります。高崎事業所に出張して製造ラインでメカ部分を実際に組み立てたり、技術屋から論理回路の見方を教わる機会を作ってください」
かくして、それから二ヶ月高崎事業所横の旅館に寝泊まりし、昼は製造ラインの一員としてクラッチなどのパーツ製作に従事し、夜は旅館のベッドに寝そべって20枚ほどの論理回路図とにらめっこする日が続いた。回路図に描かれた線を一本一本色づけし、"0"と"1"とで構成される回路の妙を楽しんだ。

 事業所から戻って教材の原稿作成に取りかかったときいろいろな工夫をした。当時の簡易製本は青焼きコピーで、しかも両面焼きなどなかった。メカ部分の動作説明は本文を読みながら、メカ部分のイラストでその内容が確かめられるようにしたい。本文とイラストが別のページにあって、いちいちページをめくりながら見比べるのは煩雑だ。そのためには、左右のページのどちらかにイラストを配置し、もう一方のページに本文を載せればよい。しかし、A4サイズの片面焼きではこうした配置はできない。

 この問題を解決するために、前のイラストの説明を右のページに配し、次のイラストを左のページに配するように編修した。そして、2枚のA4ページをテープで貼り合わせてA3の原稿として印刷し、その後に中央で折り曲げれば、左右見開きでイラストと説明文が同時に見られる。さらにメカ部品の製造図面は平面図しかなかったが、平面図から立体図をおこして表示することにした。こうした配慮の結果、後に訓練生から見やすい教科書であるとの評判を取った。

   原稿の本文は日本語で書き、会社の元先輩のM氏にスペイン語に翻訳して貰った。M氏は事情があって沖電気を途中退職して翻訳会社を設立したが、技術ドキュメントのスペイン語訳では、氏の右に出る者はいないと言われた。こうして完成した教科書を携えて、講師役のO氏と同道でペルーのリマ市に向かった。

三菱ペルー主催の訓練講師歓迎パーティ
三菱ペルー主催の訓練講師歓迎パーティ
 自信を持って制作した教科書だったが、ペルー通信隊の受講生の評判は今一だった。不思議に思って、ある日の講義の後彼らに質問すると、その中の一人が起立してこう言った。
「この教科書の論理回路の説明は間違っています。電気はプラス(+)からマイナス(−)へは流れません。La corriente fluye del polo negativo al plo positivo (電流はマイナス極からプラス極に流れます)」
「何だって!?、電気は+極から−極へ流れないって?」
「電流って電子の流れでしょう? 電子はーから+へ流れます。したがって電流の流れる方向も同じです」

 気になって、リマ市内の書店で電子回路の概説書を拾い読みした。受講生の指摘は正しかった。日本では電流の流れはプラスからマイナスと教えているが、地球の裏側では、逆の方向の流れと教えているのだ。さらに言えば、どちらの流れの説明も正しい。いずれも電気理論の前提にすぎない。ただ、小生の失敗は相手国の教育事情や社会的事情をまともに確認せずに教科書を作ってしまったことだ。

 別の受講生は、
「この教科書の段落の区切り方は正しいが、段落内の論理の展開は我々の思考形態と合わない」
と、痛いところを突いてきた。どういう事かというと、日本人の思考では説明を積み重ねて行って、最後に結論を持ってくる。平たく言えば、センテンスはthereforeで繋がっている。しかし、西洋人の場合、先ず結論ありきである。結論を最初に掲げ、その後に結論に達した理由を順序だって補足していく。つまり、最初に大枠で全体像を示し、その後に各部の特徴を、何故ならとbecauseで補足して行く。言うならば何故・何故思考なのだ。

リマで宿泊していたペンション
リマで宿泊していたペンション
 ちなみにその受講生に教科書の一部を訂正させてみると、説明の展開が逆になり、”したがって”が”なぜならば”と書き換えられた。そこで、彼らと分かりやすい文章作成法を徹底的に検討することにした。ある受講生はセンテンスをまず箇条書きにすることを勧めた。箇条書きにして、センテンス間で論理性が明確であることを確認したら、後は接続詞や関係詞で通りの良い文章に作り替えればよいとのことだ。この手法は後に技術翻訳者として飯を食っていこうとしたとき、大いに役にたった。

 以後、技術翻訳とは単なる言葉の置き換えではなくて、target languageによる創作であると考えるようになった。もちろん、伝えるべき技術情報は変更できないが、その他は翻訳者の裁量で読者の分かりやすい文章に作り替えてよい。スペイン語の技術表現を理解するために、現地で出版されている150ページくらいの小冊子を購入し、その内容を徹底的に暗記した。すると、いくつかの定型的な表現パターンがあるのに気づいた。スペイン語への技術翻訳では、日本語の文章をそうした表現パターンに押し込めればよいのだ。

 あるメーカの遠隔制御装置マニュアルのスペイン語訳を頼まれた。設計者が切羽詰まって書き殴っただけの代物で、とても翻訳できる原稿ではなかった。そこで、一応依頼元に断って章立ごと変えてしまったら、依頼者からこれは翻訳ではないと猛烈なクレームがついた。しかし、これがオウセイの翻訳ですと突っぱねた。ラチがあかなくなり、小生の訳文と社内翻訳者の訳文をネイティブ・スピーカに審査させることになった。結論から言うと、そのコロンビア技師は小生の訳文を絶賛してくれた。

 日本電気が世界数十カ国に売りまくった電子交換機NEAX61の技術概説書が、あちこちからクレームがついた。その改善提案をあるドキュメントハウスを介して委託された。何しろ数万ページに及ぶ膨大なドキュメント大系である。もちろん、その全てに目を通す時間などない。メインとなる数冊を選択して、その記述形式や記述内容を把握した上で、半年後に大胆な改善案を提案した。そして首を洗って反応を待った。何しろ天下の日本電気にケチをつけたのである、ただで済む訳はない。

 一週間後、ドキュメント部長から一緒に食事をしながら改善策について説明して欲しいとの連絡があった。部長は改善提案の一つ一つを絶賛し、是非うちの会社に来てドキュメント制作を指導して欲しいと懇願された。しかし、フリーランスの自由な生活が身について、今更サラリーマンに戻る気は無く丁重に断った。天下のNECからの招聘を断るなんて・・・とフリーランスの不安定な収入を危惧していた妻は大いに怒った。

 そのためではないが、1987年にドキュメント会社「アドック」を数人の翻訳者と協同で設立し、専務取締役として経営を担当した。しかし、事情があって、自らその任を解き、1990年に有限会社「エル・ムンド企画」を設立した。固定客を得て経営が軌道に乗りかかった矢先、最初の心筋梗塞に見舞われ、また元のフリーランスの翻訳者に戻った。



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