1月5日

集中治療室のベッドで考えた事−その2:無意味な邪馬台国論争

 中国の西晋時代、陳寿が記述したとされる歴史書「三国志」、その中の「魏書」の東夷伝中に「倭人条」がある。一般には、その箇所を書名の一部として「魏志倭人伝」と呼んでいる。 そこに1995文字で当時の日本列島に存在した倭国の様子が記述されている。当時の日本を記述した歴史書はまだ我が国には存在しないが、さすがは漢字を発明した歴史大国中国である。倭国から魏の国に朝貢した使節からの聞き取りや、逆に魏の郡治だった帯方郡から倭国に派遣された軍事顧問から魏王朝へ提出された公文書の記述などをうまくアレンジして倭国の政治体制、文化、歴史、民俗などを要領よくまとめている。

   3世紀代の日本列島には、まだ多数の小国が存在しており、連合を組んで倭国を形成していた。その中心に存在したのが邪馬台国、いわゆる女王卑弥呼が君臨する宗教国家だった。陳寿は「魏略」などの当時の資料も参考にして、帯方郡から邪馬台国に至る道筋を丹念に記述している。だが、陳寿の記述通りに道筋をたどっても邪馬台国には到達できない。邪馬台国は九州のはるか南方の海中に存在したことになる。

 そこで、江戸時代から歴史学者は旅程日数の表記を短里法に読み替えるなどして、邪馬台国の所在地を北部九州に押しとどめようとした。陳寿自身も邪馬台国までの総里数を1万2千里と明記している。一方、誤りがあるのは里数ではなく当時の方向感覚で、我々現代人の地理認識とは異なっており、陳寿が「南」方向と書いた箇所は「東」方向と読み替えて良いのではないか。そうすることで、後の初期大和国家の中心となった奈良県の纒向地域に位置させることができる。何より邪馬台国は大和(やまと)と同義であり、邪馬台国が後の大和国家の形成にうまく繋がっていく。

 かくして2つの中心的な邪馬台国論が成立した。邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説である。その他にも地名比定などでご当地へ邪馬台国を持ってこようとする説がいくつか存在する。しかしその根拠は学問的にそれほど説得力あるとも思えず、小生は採らない。

2009年3月、纒向遺跡で見つかった神殿跡
2009年3月、纒向遺跡で見つかった神殿跡

 最近の歴史学者や考古学者たちの意見をマスコミ報道や出版物などを介して接すると、圧倒的に畿内説が多い。桜井市纒向で数年前に神殿跡らしき遺構が発見されてからは、そこが卑弥呼の宮殿が所在した場所として脚光を浴びている。だが、一世代前までは、三角縁神獣鏡が邪馬台国畿内説の有力な根拠とされてきた。卑弥呼が魏に遣使したとき、魏帝から百枚の銅鏡が下賜されたことは、魏志倭人伝にも明記されている。卑弥呼は各地の首長層に服属を示す証としてその銅鏡を配布し、それぞれの首長は威信材として己の墓に埋納あせたという。

纒向遺跡のイメージ図
纒向遺跡のイメージ図
 だが、この論拠には致命的な欠陥がある。先ず、三角縁神獣鏡を下賜したはずの魏の版図からは、現在までたった一枚も出土していない。専門家はその材料となる銅が中国産であるとかさまざまな理由を付けて何とか中国製としようとしているが、無理なこじつけである。しかも、出土枚数は卑弥呼に下賜された100枚をはるかに超え、500枚以上に達している。未出土のものや盗掘されて失われたものも入れると、おそらく1、000枚を軽く越えるであろう。卑弥呼が受領した「百枚」とは数が全く合わない。 したがって、冷静に考えれば、三角縁神獣鏡は国産の鏡と考えざるを得ない。

三角縁神獣鏡
三角縁神獣鏡
 しかも、卑弥呼は威信材として服属した地方の首長層に配布したというが、これも詭弁である。威信材であれば、首長が埋葬されるとき、一緒に納棺する鏡は常識的に卑弥呼に下賜され首長に配布された一枚であろう。だが、京都市木津川市の椿井大塚山古墳からは三角縁神獣鏡が32枚、天理市柳本町にある黒塚古墳からは33枚も出土し、しかも棺の外に立てかけられていた。椿井大塚山古墳にしろ、黒塚古墳にしろ邪馬台国と推定される地域のいわばお膝元である。複数の三角縁神獣鏡を複数埋納していた古墳は、その他にも多数ある。こうした事実は、この鏡は威信材などではなく、被葬者の親戚縁者が悪霊から死者を守るために棺のまわりに置いた破邪の鏡であることを物語っている。

箸墓古墳
箸墓古墳
 三角縁神獣鏡による邪馬台国畿内説がほころびると、今度は箸墓古墳が卑弥呼の墓であり、前方後円墳という我が国独自の墳形は、卑弥呼が亡くなったとき交戦国だった狗奴国と和解が成立し、その象徴として築かれたとする新説がお目見えする。そして、以前は箸墓古墳の築造時期が西暦280〜300年ごろと考えられていたが、それが最近では年輪年代法や炭素年代測定法などを援用して、まるで卑弥呼の死亡時期に合わせるように250年前後とどんどん早くなってきた。だが、関川尚功(せきがわひさよし)氏のように、箸墓古墳は4世紀代の古墳とみなす専門家もいる。


 戦後の歴史学の特徴は、戦前・戦中に軍部によって押し広げられた「皇国史観」を徹底的に否定することから始まった。その代わりとして、戦後の歴史家が信奉したのは、津田左右吉が説いた記紀批判である。津田史学の根底には記紀神話の完全な無視がある。皇国史観から津田史学への滔々たる奔流は歴史学界の流れを180度変えた。多くの歴史学者は敗戦を機に、皇国史観のヨロイをさっさと脱ぎ捨て、津田史学論者として巧みに変身していった。中には、記紀神話を批判的に評価して、我が国の古代史に迫ろうとした学者もいたが、その説は多くの場合無視された。

 文字を持たなかった古代の真実に迫ろうとする場合、考古学的知見だけでは不可能である。民俗学や民話学など隣接学問とのコラボレーションが必要なことは、一般常識からみて当然であろう。考古学で発掘される遺構は、確かにどのような建物が存在したかを明らかにしてくれるかもしれない。だが、そこに住んだ古代の人々が何を考え何を信じて生きていたかまでは教えてくれない。それを知るには民俗学、民話学などからのアプローチが必要だが、現代史学は”坊主憎ければ袈裟までも”ではないが、隣接科学からのアクセスを自ら 閉じてしまった。

 誰がみても、『古事記』や『日本書紀』に記された神話は、我々の祖先が長年に渡って伝承し伝えてきた重要な文字資料である。それなのに、記紀神話は”祭天の古俗”であるとか、奈良時代の初めに、律令官僚が天皇家の尊厳を国民に徹底させるために紙上で作り上げた単なる創作神話にすぎないと、一蹴してしまう歴史学者がいる。その結果、我が国の成立を考える上で必須の課題である邪馬台国の所在地について、いまだに統一的な見解を見いだせずにいる。

 「貴方は邪馬台国畿内説ですか、それとも九州説ですか」と聞かれることがる。その場合、「どちらもです」と答えることにしている。と言うのは『古事記』や『日本書紀』は神武天皇東征説話によって、すでにこの問題に解決を与えていると考えるからである。神武東征の話は、明らかに九州に存在した勢力の一部が東征によって大和に入り、そこに新しい王権を樹立したことを明確に物語っている。神武天皇はこうした勢力に仮託された人物で、必ずしも一人の人物に限定する必要はない。

 彼は邪馬台国の卑弥呼や台与の時代の3世紀後半に、物部氏など一部の勢力を引き連れて遠征の途につき、4世紀の中頃までに初期大和王権を大和の地に打ち立てた、つまりある時期、邪馬台国は北九州ににも大和にも実在したと見なすべきである。記紀が編纂された飛鳥時代から奈良時代の初め、神武東征は彼らが祖先から受け継いできた伝承であり、彼らにとっては紛れもない史実だった。その証拠に、『古事記』と『日本書紀』という異なる史書の間で、東征説話に大したブレはない。

 記紀神話を無視することから出発した現代の古代史学は、抜け道のない迷路をさ迷っている。迷路を抜け出す方法は、記紀の記述にもう一度正面から対峙する以外にない。小生の認識では邪馬台国は北九州にも大和にも実在した。ただその実在時期に1世紀ほどズレがあると言うだけだ。



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