1月6日

 幻覚の出現回数は徐徐に減ってきたが、我が人生で一番楽しかった回想は、若き時代に妻と生きた日々であろう。幻覚でなくても、彼女と共に過ごした日々は何かの拍子にふと思い出される。その妻は2年前の11月、68歳の誕生日を3日後に控えながら、胃がんで逝ってしまった。妻の冥福を祈る意味も含めて、彼女との思い出を記しておこう。

幻覚が思い出させた記憶−4:我が亡き妻を語る

 妻は、昭和19年(1944)11月10日、JR鉄道員手塚氏の娘として、当時赤羽にあった鉄道官舎で生を受け、弘子と命名された。上に兄が三人、下に弟が一人いる五人兄弟のたった一人の女子として平凡に育ったようだ。地元の中学校を卒業すると、家計を助けるため就職した。何処に勤め何をしていたかは、結婚しても一言も話してくれなかった。ただ映画好きのいとこがいて、暇さえあれば、一緒に近くの映画館に出かけ、日活映画を良く見たと話してくれた。赤木圭一郎のファンだったようだ。

>付き合いだした頃の弘子
付き合いだした頃の弘子(全共連の庭にて)
 小生が大学を卒業して、沖電気工業の貿易部に配属になった頃、彼女は平河町にある全共連ビルの一階で受け付けをしていた。たまたま沖電気の貿易部が全共連ビルの5階を借りていたので、毎朝出勤するたびに、お早うございますと受付から笑顔を送ってくれていた。彼女は受付だけでなく、エレベータ嬢も兼務していた。ある日の昼食の後、仕事場に戻るためエレベータに乗ったところ。彼女が操作していた。5階で止めてくれるものとばかり思っていたのに、屋上まで連れていかれた。そして、
「オウセイサンは、どなたか付き合っている女性の方がおりますか?」
と、いきなり聞いてきた。

 入社早々で、そのような女性などいるはずもなかった。
「そうであれば、是非付き合っていただきたい方がいます。考えていただきますか」
とたたみかけてくる。
「俺と付き合って見たい物好きな女性って、いったい誰なの?」
「貴方も良くご存じの方です」
はて、誰かな?と思案していると、
「一緒に仕事をしている大久保さんです」と教えてくれた。
一階の受付には、もう一人女性が働いていた。非常にスリムな体型で杓子顔の女だった。

 それから、2〜3回彼女とデートを重ねたように思う。最後のデートは東京オリンピックの開会式が行われた土曜日の午後だった。雲一つない秋空に描かれた五輪のマークを見上げながら、連れだって平河町から赤坂見附方面に歩いているとき、彼女のハイヒールの足が排水溝の覆い蓋に挟まって折れてしまった。片足になって、何とか地下鉄の駅近くの靴屋まで我慢すると歩き出したが、もう一方のハイヒールの足も折れてしまった。普段とは違った力が加わったせいだろう。仕方なしにタクシーを止めると銀座のワシントン靴店まで行き、新しい靴を買ってやった。入社早々の安サラリーマンの小生には、かなり負担となる買い物だった。

 それからしばらくして、退社でビルの玄関を出ようとしたとき、にわか雨に降られた。通り雨なので止むまで地下一階の喫茶店で時間を費やそうかどうしょうか思案していると、
「駅まで一緒に行きませんか?」
と、背後から傘を差しだした者がいた。手塚弘子だった。
相合い傘で地下鉄「赤坂見附駅」まで一緒に歩きながら、
「聞いたわよ。大久保さん、新しい靴を新調してもらったそうね。喜んでいたわよ」
と、彼女は肘で脇腹を突いた。それが丁度排水溝の蓋があったあたりだった。

 傘の礼にコーヒーでもご馳走しようと言うと、彼女は嬉しそうについてきた。テーブルについてしげしげと彼女を見ると、かなり大柄な女性だった。こちらの話をいちいち頷きながら相づちを打ってくれる。小生はこのようなタイプの女性に弱い。何とか頼りたくなる。話の最後に、新宿で一緒に映画を見ようと約束した。約束の日も雨だった。落ち合う場所を新宿の二光前と決めていたはずだが、15分待っても30分待っても彼女は現れない。さては振られたのかな、と幾分やけ気味で二本立ての映画を一人で見て、当時独身寮があった武蔵小金井まで戻った。

 驚いたことに、駅の改札を出たところで彼女がしょんぼりと立っていた。
「どうして、ここに・・・・?」
こちらから声をかけると、彼女はやっと会えて良かったとでも言うように、フウゥと息をついた。話を聞いてみると、同じ二光前でも待ち合わせスポットがいくつかあり、違った場所をイメージしたようだ。それにしても、約束した時間から6時間は過ぎていた。普通なら適当に見切りをつけて帰宅している時間である。それを、本人の口から会って貰えなかった理由を聞きたいと、何時になるか分からないけど、この改札で待っていることにしたという。なんて馬鹿な女だと思うと同時に、彼女が急にいじらしく思えた。

 それからの二人は、口にこそ出さなかったが結婚を前提に会うようになった。その年の暮れには伊東へ婚前旅行にも出かけた。年が改まってしばらくすると、ボリビア出張の話が持ち上がった。当時、沖電気工業は国際入札でサンタクルス市の電話交換設備一式を落札し、電話局に設置する電話交換機のみならず市街地に電話ケーブルを張り巡らせる管路工事、はては各加入者宅に電話機を設置する宅内工事まで一切を請け負った。工事長はすでに現地に入って工事事務所を開設し、現地の日本人を何人か雇用していた。しかし、客先との様々な折衝には本社の人間が必要である。そのため2年をメドにボリビアに出張してくれないかという打診だった。

 大学でスペイン語を専攻し、商社でなくても民間企業の海外営業に配属になったからには、海外出張、現地駐在は避けては通れないことは覚悟していた。ただタイミングが悪かった。ボリビア出張の話を持ち出すと、
「わたし、とても待てない・・・」と泣き崩れた。と言って、サラリーマン2年目をようやく迎えようとしている小生には結婚式を直ぐに挙げるほどの蓄えなどない。彼女にとっても事情はは変わらない。思いあまって母親に相談すると、母は電話の向こうでしばらく考えていたが、 「よし、わたしにまかせなさい。裏ワザを使おう」と意外な返事を返してきた。

結婚式の写真
結婚式の写真
 小生の郷里である福井県は冠婚葬祭に莫大な費用をかける地域として全国でも有名だ。農家では娘一人嫁にだすと田んぼが一反消えるという。息子が嫁を迎える家では、親戚だけでなく、近所や村中の者を呼んで三日三晩夜通しで宴会を開く。そのような土地柄だから、実家で式を挙げるわけには行かない。そこで、母親が考え出した裏ワザとは、自宅ではなく母親の実家で新郎新婦の家族だけで式と披露宴を挙げるというものだ。勤務先には田舎で式を挙げることにしたが遠方なので誰も招待できないと断り、一方田舎では東京で式を挙げてきたことにして、隣近所には新妻を紹介するだけで良い。

 それにしても貸衣装や記念撮影、披露宴の仕出しなど、それなりに費用がかかるだろうと言うと、
「予算は5万円、それくらいの費用は祝儀としてわたしがもってやる」
と、母は電話の向こうでカラカラと笑った。

 そんな訳で、昭和41年(1966)3月20日に母の実家で式を挙げ、翌日上京している。そのとき何故か大阪に立ち寄っている。式に呼べなかった母の妹が大阪にいるので、その挨拶回りに立ち寄ったようだ。ついでに橿原神宮に参拝している。これが二人の新婚旅行のようなものだった。そのため、私たちはまだ新婚旅行を済ませていないと、後になっても妻は事あるごとに話していた。

 新居は地下鉄「高円寺」近くの民間アパートの一室を借りた。4畳半一間で、台所もトイレも共同だったが、わずか3ヶ月程度の新婚生活とは言え、余りにお粗末な二人の人生の出発だった。しかし、彼女は一緒に住めることを喜び、全然気にもしていなかった。整理ダンス一本と布団だけを持ち込んで、その他の嫁入り道具は実家に預けたままだった。

 相変わらず残業が続き、帰宅は連日夜の10時をすぎた。それでも彼女は小さなテーブルに茶碗をふせたまま待っていてくれた。たいした料理を作ってくれた訳でもないが、それでも独身寮での揚げ物中心の食事に比べると各段の美味しさだった。退屈だったら、また何処かへ勤めたらと言ったら、前の会社の紹介で別の企業に行くことにした。しかし、何の不満があったのか、たった一日の出勤だけで止めてしまった。以来、彼女は死ぬまで専業主婦に徹した。

中米局外設備調査報告書
中米局外設備調査報告書
 その年の6月に予定されていた渡航が急に一ヶ月早まった。沖電気工業は中米ホンジュラスで電話工事を実施し、前年に通信省に引き渡していたが、地下管路に敷設したケーブルが電蝕に冒されるという事故が相次いだ。そのため、工事に関係した企業の部長や調査役で調査団を組織し、ホンジュラスに派遣することになった。政府の援助を受けるため、調査団は中米五カ国の電話局外施設の調査を名目にメキシコ、エル・サルバドル、コスタリカ、グアテマラをまわって最後にホンジュラスに入ることになった。

 どうせ一ヶ月後にはボリビアに出張するのだから、物のついでに調査団の渉外係として一緒に行ってくれというのである。出発はゴールデンウイーク中と決まった。海外出張中、赤羽の実家に戻っていたらと言ったが、妻は貴方の実家で帰りを待ちますと、小生の実家で母と一緒に住む道を選んだ。田舎に行っても待っているのはきつい野良仕事ばかりだから、東京にいたほうが良いと説得したが、彼女は聞く耳を持たなかった。

 5月5日の出発の日、調査団は羽田空港のVIPームで家族同伴の記念写真を撮った。新妻の弘子が一番きれいで光っていた。出発から一週間後、彼女はアパートを引き払って田舎に移ったようだ。赤羽で生まれ育ったせいか、田舎暮らしが何事も興味深かかったようだ。野良着に着替えて田んぼの草取りをしたり、一輪車を押して畑に行き、野菜の種まきを母に教えられながら楽しんでいるようだった。そうした日々を綴った航空便が毎週のように届いた。

 母は病弱だった父を4年前に亡くし、子供達もそれぞれ親元を離れて一人暮らしだった。田舎育ちでかなり性格の厳しい女性だったが、姑にはさんざんいじめられ、苦しい日々を過ごしたことを何度も聞かされていた。そんな経験が何もできない嫁を人一倍いたわったのであろう。一つ屋根の下で二人はうまくやっているようだった。

 太平洋戦争突入のきっかけとなった真珠湾攻撃は12月8日だが、その夜妻は市内の病院で長女を出産した。雪がちらつく夜で相当難産だったようだ。一ヶ月後、ドッチボールのようにまん丸の顔をした娘の写真を送ってきた。出産に立ち会ってやれなくて淋しい思いをさせたことを詫びる手紙を書いた。

 2年の滞在予定だったが、本社側の業務が増えたため半年短縮されて帰国した。12月25日だった。羽田に向かう飛行機の中でクリスマスを祝った。弘子は西川口にアパートを借り、小生の帰りを娘と共に待っていてくれた。娘は誕生日を過ぎて片言を話すようになっていた。小生がいつまでも一緒にいるのを見て、怪訝そうに母親に聞いていた。
「このオジさん、いつまでウチにいるの?」
それに対して、妻は笑いながら答えていた。
「オジさんではないよ、あなたのパパですよ」
しかし、娘は直ぐにはなついてくれなかった。たまたま帰国した翌年、十二指腸潰瘍を患ってしばらく済生会病院に入院した。アパートに近かったので、毎日のように見舞いに来てベッドの上で遊んでいたので、娘のわだかまりは徐々に消えていったようだ。

子育てに追われる日々
子育てに追われる日々
 その翌年の暮れ、川口市内の外れに建て売りの分譲住宅を買った。周囲はまだ開けていなくて、朝から晩まで日当たりが良かった。それだけが取り柄のような新居だったが、その家で長男が生まれた。妻は二人の子育てにてんてこ舞いの日々を送っていたが、それが楽しくて仕方がないようだった。毎朝出勤のとき、玄関に子供達を立たせると、 「さあ、パパのおでかけですよ。行ってらっさいをしましょ」 と見送ってくれた。

 娘が高校に進学するまでは、我が家は順風万風のように思えた。それが突然変わったのは、娘が高校2年に進級した時からである。突然、拒食症を患ってしまった。食欲がなくなり、どんどん痩せてくる。原因はよく分からなかったが、どうも高校の女友達と何かのトラブルがあって、それがきっかけで食事がたべれなくなったようだ。今まで朗らかに振る舞っていた妻が無口になり、まるで責任が自分にあるかのように思い込んだ。娘の体力が無くなり、体重も半減してしまった。針金のようにやせ衰えた後ろ姿をみて、妻はたびたび涙を流した。

 ある朝、犬の散歩に出た娘が、犬に鎖を引っ張られて転倒し、前歯を3本折ってしまった。もはや自分の足で体を支えきれなくなっているのを知って、高校を休学させることにした。妻はなんとか娘が体力を回復するようにと、娘を近くの芝川の堤防に連れ出して散歩に付き合った。気分転換をはかるため、天気の良い日はたびたび日帰り旅行に連れ出したりもしていた。そうした献身的な妻の介護にもかかわらず、娘の病状はいっこうに回復の兆しが見えなかった。

 結局、友達が進級してクラスが別れたことで、娘の体力は徐徐に回復し、1年留年したが無事短大に入学できた。しかし、拒食症の反動で今度は過食症に陥った。夜、押し入れに隠しておいたパンを食べたり、過食で苦しくなり風呂場で喉に指をつっこんで吐き出しているのを、妻は気づきながら何も言わなかった。言って直る病気ならとっくに直っているはずだ。

1992年、軽井沢プリンスホテルにて
1992年、軽井沢プリンスホテルにて
 加えて今度は息子が家庭内暴力をふるうようになった。家庭内暴力の原因は大抵本人の側にある。ストレスや周囲に対する不満が昂じて前後の見境がつかなくなった時、一気に爆発させる。その暴力は常に家庭での弱者である母親に向かう。母親に馬乗りにのって所構わず殴る蹴るの暴力を振るい、自分の部屋や浴室のドアをたたき割った。その頃、小生は新しく会社を立ち上げた時期で、翻訳の仕事も軌道により事務所代わりに借りたマンションの一室で一日を過ごすことが多く、家庭で何が起きているのか気づかなかった。妻も何も言ってくれなかった。

 息子の家庭内病気が治まると、今度は引きこもりである。自室に閉じこもりきりになり食事すら家族と一緒に取れなくなった。
「お前は病気だから、一度医者に診て貰おう」
と、彼女は何度も何度も息子を説得したが、俺は病気なんかではないと、いつも拒絶されていた。

 そうした嵐が過ぎ去って10年、ようやく家庭に平穏な日々が戻ってきたと思われる矢先、今度は妻が病気で倒れた。彼女は病院嫌いでちょっとした体の変調などをじっと耐えて自然治癒を待つ性格だった。しかし、今度の病気は本人も尋常でないことに気付いたのか最寄りの病院で見て貰う気になった。診察の結果、すでに胃がんの末期状態であり、すぐに埼玉市民病院に入院するよう紹介状を書いて貰った。

   市民病での再検査では、他の部位への転移がなければ胃の全摘出で対処できそうだとの説明を受けて、手術を受けさせることにした。手術当日、手術室に搬入される彼女を娘と見送った。しかし、一時間もしないのに手術室のドアが開き執刀医が出てきて、次のように説明した。
「手術前に、念のため腹部に穴を開け内視鏡で内部の臓器を調べたら腹壁のあちこちへの転移が見つかりました。残念ながら腹壁に転移した癌を完全に取り除くことはできません。そのため、抗がん剤治療などで延命を図るより方法はなくなりました」
「抗がん剤治療を施さなければどうなりますか?」
「現在の状態で放置すれば4ヶ月の命、抗がん剤治療で延命を図ったとしても1年持つか持たないでしょう」

日光の宝コ牧場にて
2009年、日光の宝コ牧場にて
 抗がん剤治療は一定の間隔を置いて何サイクルか繰り返す。その最初のサイクルで髪は抜け落ち、吐き気に悩まされ、幻覚を見るようになった。さかんに家に帰りたいと繰り返し懇願するので、主治医に相談すると、在宅治療をする病院を紹介してくれた。春先になって陽気が緩んで来た頃、妻の表情が明るくなった。
「貴方、この頃病気が治ったように気分がすっきりする日が多くなったわ。体重も減っていないし・・・・この夏は田舎の墓参りには行けないだろうから、今のうちに言ってみたくなったわ」
それを聞いて、息子が
「俺が連れて行ってやる」
と、車で600キロの道を踏破して墓参りに連れて行った。帰りには、高山市で祭の山車を見たり高遠で桜を見学して戻ってくる余裕だった。

 すると、今度は名古屋城や大阪城など城を見たくなったと言いだし、また息子の運転で出かけていった。そして橿原のアパートをキーステーションにして城だけでなく、京都、奈良、大阪、吉野など一週間かけて見学してまわった。妻の喜ぶ顔を見て、息子は天気の良い日は近隣の名所へ車で連れ出した。よくも疲れないものだと感心したが、10月に入ると容態が激変した。苦痛で顔をゆがめるようになり、コバルト治療のため病院へ出かける体力も失われた。

 一日中ベッドに横になり、背中や足の痛みを訴えるので、息子が人が変わったように長時間さすってやったり、下の世話までするようになった。ある日、息子は妻に言ったそうだ。「俺はお前の子供に生まれてきて良かった」と。妻はよほど嬉しかったのか、そのことを涙を浮かべながら語ってくれた。妻と息子のわだかまりが、やっと解消したようだ。

 それから10日ほどした11月7日の朝方、妻は静かに逝った。傍で寝ていた息子も気づかないほどだった。その死に顔は実に穏やかであり、微笑みを浮かべているようにも見えた。在宅治療に切り替えて貰って、見慣れた自分の部屋で最後の息を引き取ることができたことに満足しているようにも見えた。

 妻の68年の生涯は、傍目からみても実に慎ましく、どちらかと言えば岩陰でそっと咲いた野菊のような一生だった。一度彼女に聞いてみたいと思ったことがある。
「俺と結婚して、幸せだったか、それとも・・・・」
しかし、その機会は永遠に失われてしまった。いや、今回の手術が失敗しておれば、天国で再会して聞くことができたかもしれない。


 本来ならこの種の手記は公表すべきものではないことは重々承知している。だが今回生死の境をさ迷ってみて、息子達に母親が生きた一生を何らかの形で記録しておいてやるべきだと、筆を執った。



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