いたすけ古墳  地域住民を中心とした保存運動でかろうじて破壊を免れた古墳

いたすけ古墳
いたすけ古墳

所在堺市百舌鳥本町3-349.394別名/比定
アクセスJR阪和線「百舌鳥」駅下車、 徒歩12分
墳形前方後円墳前方部3段、後円部3段築成。前方部が西向きで立地。
造り出し有り(左側くびれ部)周濠有り(楯形)周庭有り
規模総長201m(?)墳長146m
前方部98m長さ75m高さ11m
後円部90m高さ12m頂径
外表施設埴輪円筒W式埴輪、形象埴輪(冑形)葺石有り
内部構造・
副葬品
築造時期5世紀後半
  (出典:『前方後円墳集成 近畿編』山川出版社、『日本古墳大辞典』東京堂出版

5世紀後半頃に築造された国指定史跡

いたすけ古墳
いたすけ古墳
仙公園の南にある都市緑化センターの前から東へ進みJR阪和線の踏切を渡ると、右手の民家の家並みが切れたところに巨大古墳が見えてくる。百舌鳥古墳群の中では8番目に大きく、また百舌鳥古墳群のほぼ中央に位置する前方後円墳のいたすけ古墳である。

墳の全長は約146mだが、周濠も含めれば200mと越えると言われている。前方部3段、後円部も3段に築成されており、前方部は西に向けて築かれている。木のないところが幅98m、長さ75mの前方部、竹林が生えているところが直径90mの後円部である。墳丘には葺石が敷かれ、埴輪が並べられていた。右側のくびれ部に造出しが設けられ、また周囲に楯形の周濠が巡らされている。台地の南端に位置しているため、濠の南側には大規模な堤が築かれている。

の古墳の後円部から衝角付冑形埴輪が出土している。また、この古墳は2〜3基の陪塚を従えていたと思われるが、その一つであった吾呂茂塚古墳から削平された後に円筒埴輪と初期須恵器が見つかっている。これらの遺品から判断して、5世紀後半頃に作られた古墳とされている。国の史跡に指定されている遺跡である。



地域住民の保存運動で破壊を免れた古墳

破壊された橋の名残
破壊された橋の名残
舌鳥古墳群にはかって100基を越える古墳が存在したという。今日、何らかの形でその一部が残っているものも含めても、現存するのは46基に過ぎない。墳丘長168mの百舌鳥大塚山古墳の墳丘部の破壊をはじめ、半数以上は第2次大戦後の宅地開発や道路建設の犠牲となって、姿を消してしまったことになる。そんな中にあって、破壊の危機にさらされながら、地域住民を中心にした保存運動によって破壊を免れた古墳がある。それがいたすけ古墳である。

和30年(1955)当時、この古墳は民有地だった。土建業者がこの古墳の墳丘の土砂採り取りをしてその跡地を住宅にする目的で、工事車輌を墳丘に入れるための橋が架け、樹木が伐採を始めた。このとき、堺市内外の市民・教育団体・研究者などが遺跡保存に立ち上がり、必死に保存運動を行なった。

存運動はやがて全国規模にまで拡大し、マスコミも大きく取り上げた。皇族の三笠宮が視察に訪れるようなこともあって、ついに工事は中止され、堺市が民有地を買収して、保存することを決定した。こうした保存運動のお陰で、国の史跡に指定され、かろうじて破壊を免れた。墳丘に架けられた橋は寸断されて現在ものこっている。その当時、後円部から出土した冑の埴輪が、堺市の文化財保護のシンボルマークになっている。

から7年ほど前、タヌキ一家がいたすけ古墳に住み着いているのが発見された。毎日一家総出で廃橋の上にずらりと並び、住民がエサを投げてくるのを心待ちにしているという。現在も住民とタヌキたちの交流が続いているのかどうかは確認するのを忘れた。




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