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| 伏見稲荷大社二の鳥居 |
メモ
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秦氏と稲荷神社との関係
渡来系氏族の秦氏と深草地域、および深草に鎮座する稲荷大神とは、深い関わりを持っている。深草の地域が早くから開拓されて、人が住んでいたことは、深草弥生遺跡の発掘などで分かっている。朝鮮半島南部から渡来してきた秦氏がこの地に住み着き、携えてきた新しい殖産技術で一帯を支配するようになったのは、5世紀前半ごろと推測される。葛野とともに、深草は秦氏の山城盆地における拠点の一つだった。 『日本書紀』は、深草に住んでいた秦大津父(はたのおおつち)という人物に関する伝承を伝えている。欽明天皇(在位539 - 571)が即位前の幼少のころ、「大津父というものを寵愛すれば、壮年になって必ず天下を治められるであろう」との夢のお告げがあった。そこで、深草の里から大津父を探しだし、近くに侍らして手厚くもてなした。そのため、大津父は大いに富を重ねることになり、天皇は即位すると、大津父を大蔵の司(つかさ)に任じたという。 『山城国風土記』逸文が伝える「稲荷」の地名伝説も面白い。秦忌寸の祖とされる秦伊呂具(はたのいろぐ)が、ある日のこと餅を的にして矢を射たところ、その餅が白鳥に化けて飛び去り、留まった山の峰に“稲”が生じるという奇瑞が生じ、「伊奈利(イナリ)」という地名になったという。イナリはイネナリまたはイネネルがつづまったもので、人間生活の根元であった稲によって、天地の霊得を象徴した古語とされている。 秦伊呂具は、元明天皇の和銅4年(711)2月壬午の日に、勅命によって三柱の神を伊奈利山の三つの峰に祀ったのが、この神社の始まりとされている。実は秦大津父と伊呂具が系図的にどうつながるのかよく分かっていない。両者の間には150年近い開きがあり、血縁関係があったとしても、伊呂具は大津父から数えて数代後の子孫ということになる。 |
稲荷明神の沿革秦伊呂具の後、秦氏はこの神社の神官を完全な世襲ではなく、一族の中で最も霊的な力の大きな人が継ぐ形で祭祀を続けていたと言われている。ここで、その後の沿革について少し触れておこう。 平安時代の天長4年(827)正月、淳和天皇が病に倒れた。占わせたところ、先の天皇の勅願で東寺を建立するに際し、塔の木に稲荷神社の樹が伐られた罪たたりであることが判明した。そこで、初めて当社に「従五位下」の神階が授けられ、東寺の鎮守とされるようになった。こうしたことが機縁となって、稲荷明神は朝野の尊崇を集め、社運が隆盛の一途をたどった。神格も従来の農業神から、殖産興業神、商業神、屋敷神へと拡大していった。年とともに神階も勧められ、天慶5年(942)には「正一位」の極位に昇った。村上天皇の応和3年(963)には皇城東南の鎮護神に定められ、後朱雀天皇の長歴3年(1039)には二十二社の上七社に加えられた。 しかし、平安末期から鎌倉初期にかけては、秦一族の地盤沈下に伴なって、この神社も荒廃していったようである。荒れはてた社殿は応仁の乱で完全に焼け落ちてしまった。だが、中世になると、商工業の守護神として庶民信仰に支えられる形で不死鳥のように復活してきた。明応8年(1499)に現在まで残る社殿が建築された後、次第に実力を付けてきた商工業者がこの神社を支えていったとされている。また、熊野詣でが盛んになると、稲荷明神が熊野参詣道中を守護してくれるという信仰が広がり、天皇が熊野行幸の帰りには、かならず奉幣の儀が行われた。 明治4年5月には、稲荷大神が官幣大社に列せられた。昭和21年11月には、宗教法人法によって「伏見稲荷大社」と改称した。稲荷大神は、今では、食物の神というより、商売の神様としての方が有名である。 |
神の使い:白狐
伏見稲荷大社の境内には多くの狐像が見られる。玉をくわえた狐と鍵をくわえた狐が対で飾られている。中でも、楼門前に飾られた2匹は大きく力強い。玉は稲荷大神の霊徳の象徴であり、鍵はその霊を身につけようとする願望の象徴だそうだ。 祭神に付属している神の使いは、多くの神社で認めることができる。例えば、春日大社の神鹿や熊野神社の神烏、日吉神社の神猿などは良く知られている。稲荷大神の使いは白狐である。単なる神のお供ではなく、大神の神威を信者に伝え、また信者の願いを大神に伝える特異な霊力を発揮するため、命婦と称えられ、ご眷属様と礼拝されている。 稲荷大神と狐との関係はよく分からないが、この神はもともと五穀豊穣の神である。一方、稔りの時期に野狐が跳梁する稲田では、野ネズミや野ウサギの被害が少ないとされている。こうしたことから、目に映らない白狐を神の使いとして信仰するようになったと推測されている。ただし、幕末までは狐像は境内にはなかった。明治になって造り付けられるようになったという。 |
大神に対する信心の証:朱の鳥居
伏見稲荷大社の境内に含まれる稲荷山(海抜233m)は、京都盆地の東にある東山連峰が南に延びた端にそびえている。古くは三ケ峰と呼ばれたように、三個の峰が西から東へだんだん高くなり、象形文字の山を思わせる山容を示している。山麓に近い峰が下社のある三の峰、次が中社のある二の峰、そして最後が上社がある一の峰である。これらの峰の頂へ続いている参道には、夥しい数の赤い鳥居が林立している。それだけではない。山上と山下を結ぶ接点には奥社があるが、本殿の後ろから命婦谷を経て奥社にいたる参道も、鳥居で作られた赤いトンネルだ。 これらの鳥居はすべては信者たちによって奉献されたものである。しかし、明治の初年までは、黒木鳥居(木皮をつけたままの材でつくられた鳥居)が六本立っていただけだという。今ではちょっと信じられない話だ。神社は、鳥居の奉献を、大神に対する信心の証ととらえている。参道をあかあかと染める鳥居は、生命・大地・生産を象徴しているようで、参詣者のこころを活力あふれるものにしてくれる。 |
お山信仰とお塚信仰
稲荷山は神が降る山である。上・中・下社神蹟など大神を迎えて祀った箇所が山中に何カ所かある。古来、こうした神蹟を巡る「お山信仰」が盛んに行われてきた。2月初午の日には、多くの人が福を得るために毎年山へ足を運ぶ。枕草子の作者である清少納言も、重い足を引きづって中社近くまで神蹟巡りをしたとのことである。 上記の神蹟を「塚」というが、それ以外に信者が勝手に据え付けた塚も多い。”何某稲荷大神”と稲荷大神に別称を冠称してその名を石に刻んだ塚が参道脇に処狭しと並び、その数の多さは、朱の鳥居と同様に参拝者を驚かせる。自分のお稲荷様がお山に鎮まっていただく所として塚を建立したいという、信者たちの「お塚信仰」の結果である。 神社では、まぎらわしい神号を刻んだ石碑を勝手に持ち込み、自分だけの拝所とすることを固く禁じてきた。明治の始めには、神社が建立した石碑は7神蹟を表す標石だけで、それ以外に私の塚を建立することは認めなかった。だが、そうした”おふれ”をものともせず、お塚信仰は高まりを見せ、明治30年代には、今見ることができる塚群の大方は成立していたとのことである。 |
主な年中行事伝統ある神社だけあって、この神社で催される年中行事は多い。参詣の栞には、1月1日の早朝6時に行われる歳旦祭から始まって、12月31日午後4時から行われる除夜祭まで、21の祭が主な年中行事として記載されている。その中から主なものを拾ってみよう。 大山祭は1月5日に行われる。この日の早朝、山上の神蹟に注連縄(しめなわ)を張るところから、注連縄神事とも呼ばれている。本殿祭のあと、御膳谷で故事にもとづいて、斎土器と称するカワラケに中汲酒をもり、これを御饌石と呼ばれる霊石の上に供えて生産豊穣を祈願する。 2月の初午の日に行われる初午大祭は、稲荷大神が稲荷山に鎮座したゆかりの日として、大神の神意威を仰ぐ祭とされている。二日前の辰の日に稲荷山の杉と椎の枝で作った青山飾りを、本殿をはじめ摂社・末社の柱に飾り立ててこの日を迎える。初午詣では福詣とも呼ばれ、この日は参詣者で境内が埋め尽くされる。 稲荷祭は4月20日前後の日曜日に行われる神幸祭と、5月3日に行われる還幸祭からなる。神幸祭では5基の御輿が御旅所に”おわたり”になり、還幸祭ではこれらの御輿がそれぞれの神座車に奉載され、多くの奉賛車とともに広く市内を巡幸して”おかえり”になる。
田植祭(6月10日)は、神前に日々供える御料米の苗を神殿に植える祭である。本殿祭のあと祭場を神田に移し、王朝を忍ばせる典雅な御田舞が奏される中を、20数名の早乙女によって田植えが進められる。 本宮祭は(7月20日)は、稲荷大神の分霊を祀る全国の崇拝者が、総本社であるこの神社に参拝して、日々の神恩に感謝する大祭である。宵宮には、稲荷山はじめ境内の全域に散在する灯籠や献納提灯に灯を点ずる万灯神事が行われる。 火焚祭(11月8日)は、秋の収穫の後に、五穀の豊穣をはじめ万物を育てて貰った神恩に感謝する祭典である。古儀にのっとり、全国の崇敬者から奉納された数十万本の火焚串を焚き上げ、宮司以下の神職者や参列者が大祓詞を奉唱して、罪障消滅、万福招来を祈る。また、夕刻には、神前に庭燎が赤々と焚かれ、荘重で古雅な「人長舞」が奏される。 |