広隆寺(こうりゅうじ) 国宝第一号の弥勒菩薩がおわす京都最古の寺

広隆寺の仁王門
広隆寺の南大門(仁王門)

 メモ

【宗派】真言宗御室派
【山号】蜂岡山
【本尊】秘仏聖徳太子立像
【古称】蜂岡寺、秦寺、秦公寺、葛野寺、太秦寺

【創建】推古天皇11年(603)、秦河勝(はたのかわかつ)が建立したとされている
【所在地】京都市右京区太秦蜂岡町32
【アクセス】京福電鉄嵐山線「太秦」駅下車すぐ。または、市バス右京区総合庁舎前下車、徒歩2分


広隆寺創建のきっかけは、聖徳太子から貰い受けた仏像

福電鉄嵐山線の「太秦」駅の改札を出ると、交差点の角に巨大な木造建造物が、周囲を威嚇するようにそびえている。広隆寺の南大門(仁王門)である。木島神社から広隆寺へまわるには、神社前の通りを西に進めばよい。徒歩約8分ほどで、南大門のある交差点に出る。

隆寺は、古くは蜂岡寺、秦寺、秦公寺、葛野寺、太秦寺など、さまざまな名称で呼ばれた。もっとも古い呼称は蜂岡寺で、推古天皇11年(603)に建立された山城最古の寺であるとされている。寺伝は、蜂岡寺を聖徳太子が在世中に建立した七大寺の一つとしている。太子建立の七大寺とは、1.法隆寺(法隆学問寺)、2.四天王寺、3.中宮寺(中宮尼寺)、4.橘寺、5.蜂岡寺(広隆寺)、6.池後寺(池後尼寺、法起寺)および7.葛木寺(葛城尼寺)をいう。 別に寺伝にケチをつけるつもりはないが、聖徳太子が実際に建立したのは斑鳩寺(=法隆寺)だけであり、後は聖徳太子にゆかりがあった人々によって建てられたものである。

宝冠弥勒
宝冠弥勒菩薩(広隆寺パンフより)

隆寺の創建についても、聖徳太子ではなく秦河勝が建立したことを示す次の話が『日本書紀』に載っている。すなわち、推古11年11月1日、太子は群臣を集めて「私は尊い仏像を持っている。誰かこの仏を祀るものはいないか」と訊かれた。このとき、秦河勝が進んで申し出て「臣(やつがれ)がお祀りしましょう」と言って仏像を貰い受け、蜂岡寺を造った、云々。

のとき秦河勝が貰い受けたのが、国宝第一号に指定された像高2尺8寸の宝冠弥勒木造であるとされている。しかし、上に示した『日本書紀』の記事は、蜂岡寺建立の契機を記したもので、推古11年に蜂岡寺が建立されたとは言っていない。秦河勝が実際に建立したのはもう少し後であろう。しかし、太子没後1年の推古天皇31年(623)、新羅から遣使があって、生前何かと縁の深かった太子供養のために仏像一躯が贈られてきた。『日本書紀』は、この仏像を蜂岡寺に安置したと伝えているから、その頃までには蜂岡寺は建立されていたと見るべきである。なお、このとき安置した仏像は、”泣き弥勒”の名で知られているもう一体の弥勒菩薩半跏思惟像であるとされている。

岡寺は当初から現在の場所に建立されたわけではない。現在地の東北にあたる北野白梅町の北野廃寺跡が葛野秦寺(かどのはたでら)ではないかと考えられている。平安遷都の際に今の場所に移転したという。



広隆寺の歴史を振り返る

秦河勝の像
秦河勝の像

隆寺の創建に関する諸伝は上記の通りだが、境内の各堂宇を紹介する前に、当寺がその後に歩んだ歴史をまとめておこう。

城国葛野郡を本拠としていた渡来系氏族・秦氏は蚕養や機織り、金工、土木などの先進技術で莫大な富を築き、奈良時代末期には平安京建設に協力して、皇室との結びつきを強めた。このため秦氏の氏寺だった広隆寺が、平安時代初めの延暦16年(797)官寺に準ずる定額寺に列せられ、本尊の弥勒菩薩を霊験薬師仏に替えた。

1世紀後の弘仁9年(818)に、最初の火災に遭い、伽藍は焼失した。しかし、幸いなことに創建以来の仏像の多くは火災を免れた。火災後の復興に着手したのは、秦氏出身で空海の弟子だった道昌(どうしょう)である。彼は承和3年(836)に当寺の別当になると、復興に着手した。この時期に阿弥陀三尊像が造られている。

安6年(1150)には、再び火災に遭っている。しかし、永万元年(1165)には堂宇が復興され、上記の阿弥陀三尊像は再建された講堂に安置された。元永3年(1120)には、現在の本尊である聖徳太子立像が造られ、広隆寺は聖徳太子信仰の寺として再出発した。鎌倉時代の建長3年(1251)には、中観上人によって桂宮院本堂が大改修され、当初の面影を残す夢殿形式の八角円堂として再現された。その他の現在の堂宇は、江戸時代の造営である。

れにしても、2回の火災に遭いながら、国宝第1号に指定されている宝冠弥勒菩薩像をはじめとする多くの仏像が難を免れたのは驚異である。現在、広隆寺には仏像だけでも国宝7件17点、重要文化材28件31点を寺宝として保有している。そのほとんどを新霊宝殿で拝観できる。



国宝の阿弥陀如来像が坐す講堂(赤堂)

広隆寺講堂
広隆寺講堂

大門をくぐって境内に足を踏み入れると、不思議なことに表通りの喧噪がスーッと遠のき、物静かな空気に包まれてくるのを感じる。それとともに気持ちも和んで、石畳を歩く足取りもいつしかゆったりとしてくる。広隆寺の境内は他の古代寺院と違って、厳めしさがなく開放的な雰囲気にあふれているためだ。境内を散策するだけで、ほっとした気分にさせてくれる広隆寺が好きで、今までに何度訪れたか知れない。もちろん、他の多くの参拝者がそうであるように、参詣の目的は新霊宝殿の宝冠弥勒菩薩との対面にある。

畳の参道が分岐して右に曲がった先に、適当に配置された松の木に隠れるように講堂が建っている。永万元年(1165)に再建された建物で、京都に現存する最古のもので重要文化財の指定を受けている。俗に赤堂と呼ばれているが、そのいわれは知らない。中央に本尊の阿弥陀如来坐像(国宝)を安置している。承和7年(840)に没した淳和上皇の追善供養のために、女御の永原御息所の発願により造立されたという。脇侍仏として、向かって右に地蔵菩薩坐像、左に虚空蔵菩薩坐像(ともに重文)を安置している。訪れるたびに格子戸からのぞき込んでみるのだが、堂の中が暗くてよく見えない。



本尊の聖徳太子像を安置する上宮王院太子殿(本堂)

堂を右手に見ながら石畳の参道を進むと、重々しい大屋根を戴く貴族の住宅風の建物が正面に聳えている。享保15年(1730)に建立された本堂・上宮王院太子殿(じょうぐうおういんたいしでん)である。秘仏の本尊・聖徳太子立像を内陣に安置していて、開扉されるのは毎年11月22日に行われる御火焚祭(おひたきまつり)のときだけである。

上宮王院太子殿(本堂)
上宮王院太子殿(本堂)

の本尊は、聖徳太子が秦河勝に蜂岡寺を建立させた33歳ころの姿を写したものだという。元永3年(1120)に僧定海が発願し、仏師の頼範が造立したことが、像内の銘でわかっている。古来、歴代天皇の即位式に着用した黄櫨染(こうろぜん)の御袍(ごほう)が下賜されて、それをこの像に着せているという。

の本堂の広い縁側の端に腰かけて、周りの景色を見るともなしに眺めながら、ぼんやりと時を過ごすのが好きだ。ここで思い描くことはいつも決まっている。聖徳太子と秦河勝との関係だ。

氏の出自についてはいろんな説があるが、諸般の事情を考えると、やはり新羅系の渡来氏族と考えた方が良さそうだ。しかも、並の氏族ではない。殖産的氏族と呼ばれるほど莫大な構成員をかかえた渡来氏族の雄である。もう一方の渡来系氏族の雄は、蘇我氏配下の東漢氏とされている。この二大勢力が対決することく共存できたのは、秦氏の非貴族性官僚性によるとされている。雄略天皇の時代から大化の改新(645年)までの約150年間、史書にその名を留めている秦氏の人間はわずか4名にすぎない。

徳太子の時代、蘇我氏は全盛を誇り、太子自身も蘇我氏の血を濃厚に受け継いでいる皇族だった。蘇我氏は、百済の支援を得て飛鳥寺を建て、百済仏教をこの地に移植するのにやっきだった。だが、不思議と聖徳太子は蘇我氏と一歩距離をおいていたように見える。外交一つにしても、百済一辺倒の蘇我氏に批判的で、新羅敵視策を取らず、独自の判断で対隋外交を展開している。

我氏が中央政界に勢力を張ることができた背景には、東漢氏を配下におさめたことがある。そこで考えるのだが、同じ事を太子も踏襲しようとしたのではあるまいか。しかし、組む相手は秦氏である。叔父の蘇我馬子に対抗して、摂政として独自にヤマト朝廷を主導して行くために、それなりのバックが必要である。聖徳太子は秦氏と組むことでその財力に期待したように思える。秦氏としても、陰のスポンサーとして太子の政策を支えることは、それなりのメリットがあったはずである。二人の間には、個人的な信頼関係が当然築かれていたであろうが、それと同時に、お互いの利害を計算した結びつきもあったはずである。



50体以上の仏像を一堂に参拝できる新霊宝殿

ハス
新霊宝殿の前に池に咲くハス

宝第1号の宝冠弥勒菩薩像をはじめとして多くの仏像を安置した新霊宝殿は境内の北奥にある。新霊宝殿は和風の落ち着いた雰囲気を持つ建物で、昭和57年(1982)に新築された。建物の前には、蓮池があり、様々な花々が植えられていて、霊宝殿に入る前に季節の花を愛でるのも楽しい。

霊宝殿の中は実にアッケラカンとしている。火災を免れた創建当時の仏像や天平、弘仁、貞観、藤原、鎌倉の各時代に造立された仏像が、壁に沿って一列に並べられ、さながら博物館に入り込んだ感じだ。室内の照明は幾分落としたほの暗い室内で、歴史を経てきた50体を超す仏像に囲まれると、拝観する者は思わず背筋を伸ばしたくなる衝動にかられる。

目当ての弥勒菩薩半跏思惟像は、居並ぶ諸仏の中心の一段高い位置に微笑をたたえて坐している。残念ながら、参拝者はかなりの距離を置いて、この像を見上げなければならない。旧霊宝殿に安置されていたころは、もっと近くで拝観することができた。顔や胴体に浮かんだ木目の線まで確認できた。現在は、美術雑誌などのグラビアに大写しされた造影を実物に重ね合わせて拝むことになる。

冠弥勒菩薩像は木造である。飛鳥時代の木像は樟(くす)に限定されていたのに、この像は異例のアカマツを用いている。さらに、この像の彫り方は他の飛鳥像と異なり、木裏から彫ってあり、頭部から右手指まですべて一木から刻み出している。こうしたことから、半島からの渡来仏とする説がある。韓国の国立中央博物館の仏教彫刻室には、国宝第83号に指定されている金銅三山冠半跏思惟像が、ガラスケースの中に安置されている。その造形感覚は、この宝冠弥勒菩薩像と実によく似ている。



聖徳太子を祀る桂宮院(けいきゅういん)

桂宮院
八角円堂の桂宮院

拝受付をすませ、石畳の道を新霊宝殿にむかう途中に、西に延びる土の道がある。道は築地塀と竹林に囲まれた広隆寺の奥院に続いている。そこには、法隆寺東院の夢殿を小さくして造った八角円堂がある。建長3年(1251)に中観上人が聖徳太子を祀るために再興した桂宮院である。

皮葺の屋根の頂上に八角形の露盤を置き、その上に宝珠が載せた形は、まことに清雅である。堂内の厨子には、現在新霊宝殿に安置されている聖徳太子半跏像が祀られていた。残念ながら、広隆寺を訪れた日は、桂宮院を見ることができなかった。桂宮院が公開されるのは、4,5,10,11月の日曜・祝日のみである。