加茂岩倉(かもいわくら)遺跡 平成8年10月、39個という大量の銅鐸をまとめて出土

加茂岩倉遺跡遠望
加茂岩倉遺跡を上から望む

 見 学 メ モ

【所在地】 島根県大原郡加茂町大字岩倉字南ケ廻(みなみがさこ)
【出土品】 銅鐸39個
【発見時期】 平成8年(1966)10月14日、農道の整備工事中に偶然に発見
【史跡指定】 平成11年(1999)年1月、国史跡に指定
【アクセス】 JR木次線「加茂中」駅からタクシーで約5分、山陰本線「宍道」駅からタクシーで8分


出雲を全国最多の銅鐸保有国に押し上げた驚きの発見

銅鐸
銅鐸
生時代、青銅製の銅鐸は稲作農耕の祭りのとき神を招くための鐘として使われたと言われている。現在、博物館などに展示されてている銅鐸は錆びて緑青を帯びているが、青銅すなわちブロンズは銅に錫を加えた合金である。錫が少ないと金色になり、多いと銀色になる。したがって、製造直後は金色または銀色に光り輝いてい祭器だったのである。

鐸は不思議な祭器である。なぜか海、湖あるいは川に近く村から離れた山や丘の斜面の地中に浅く埋められている。しかも、意識的に打ち抜いたり壊して埋められているものもある。『扶桑略記』は、天智天皇7年(668)、滋賀県大津市の北に崇福寺健立の工事中に宝鐸(高さ165p)発見されたと伝えている。最古の出土例である。『続日本紀』は和銅6年(713)、大和の長岡野で銅鐸が発見されたが、人々はこれを怪しんだと伝えている。奈良時代の初め、当時の人々には銅鐸の記憶や知識がまったくなかったことを示している。

って銅鐸は弥生時代の文化圏を象徴する祭器とされ、近畿地方を中心に、西は島根・広島から高知、東は福井・長野・静岡と広い範囲で出土してきた。特に河内では鋳型が見つかっており、北部九州の”銅剣・銅矛文化圏”に対して、近畿は”銅鐸文化圏”を構成するとされてきた。この考古学の常識を覆す発見は、神庭荒神谷遺跡の銅剣大量出土から8年後に生じた。

成8年(1996)の10月、神庭荒神谷遺跡から南東約3.4kmの地点で、今度は弥生時代中期から後期の銅鐸が39個も同じ場所で見つかった。農道整備の工事中の偶然の出来事である。それ以前にも、滋賀県大岩山の三カ所から24個、神戸市の桜ヶ丘神岡から14個の銅鐸がまとまって出土した例はある。しかし、加茂板倉遺跡と名付けられたこの遺跡から出土した銅鐸は、一カ所からの出土数としては全国最多であり、古代出雲の名を一躍最大の銅鐸保有国に押し上げることになった。



銅鐸の埋納を暗示するような地元の伝承

大岩
遺跡駐車場から見える大岩
の出土地点を見学するため、再び出雲ロマン街道を東に向かった。出雲ロマン街道とは、広域農道の別称だが、荒神谷遺跡を出発してからは、かなり上り下りが激しい丘陵地帯を行く山道である。車窓を流れる景色は森林ばかりで、田園の風景はほとんど見あたらない。山陰自動車道の高架の下を過ぎると、まもなく国道54号線との交差点にでる。右折して国道に入る。このまま車を走らせれば154kmで広島に出るが、途中に加茂岩倉遺跡まで1.7kmの標識が出ている。

茂岩倉遺跡は、国道54号線から脇道を西に入った狭い谷奥にある。駐車場は完備しているが、出土地点まではそこから500mほど谷を遡らなければならない。平日の昼過ぎとあって、駐車場には一台の車も見あたらず、まことにあっけらかんとした雰囲気が漂っていた。

と見ると、駐車場の反対側の山肌に巨大な岩石がむき出している。案内板には、この大岩に関する面白い伝説を紹介している。この岩は宝の隠し場所になっており、大岩の下には金の鶏がいて、1年に1度だけ大晦日に鳴き、それを聞いた者は宝を得ることができるが、それを他人に話してはならないという。

保2年(1717)の『雲陽誌』には、この岩倉が地名の由来になったとして、以下のような話を記載しているという。すなわち、民家の西に高さ3丈横7間ばかりの岩窟があり、里の古老が言うには、むかし神原村に長者がいて、この岩窟を宝倉としたために、岩倉という。こうした伝説が生まれるほど、付近は岩が多く至る所に巨岩や奇岩が露出しているそうだ。

平5年(733)に編纂された『出雲風土記』にも、神原郷の地名起源に関連して面白い古老の話が記載されている。それによれば、神原郷は天の下を作られた大神(大穴持命?)が神宝を積んで置かれた所なので、本来は神財(かむたから)の郷というべきなのに、今の人はだた誤って神原(かむはら)と言っているという。見方によっては、これらの伝承は大量の銅鐸が眠っていることを暗示しているようにもとれるが、いかがだろうか。

 

狭い谷筋の奥まった崖の中腹が出土地点

銅鐸出土地
銅鐸出土地遠望

アクセス階段
発掘現場へのアクセス階段
跡を見学に来て、砂利を敷いただけの坂道を目的地までの500mも歩かされるのは、正直言ってきつい。農道を建設するために谷を拡張していたため、車が通行できない訳ではない。だが、坂道の入り口で進入禁止の柵が行く手をふさいでいる。茂岩倉遺跡は、狭い谷筋の見晴らしの決してよくない場所にある。 やっと、遺跡に到着したら、さらにそこから18mの階段を上らなければならない。発掘場所は谷底を見下ろす南向き急斜面の途中にある。

を弾ませて階段を上りながら、よくもこのような場所で銅鐸が発掘できたものだと感心する。農道の整備工事で崖崩れを防ぐために、山の斜面に重機を入れなければ、おそらく発見されることはなかっただろう。工事現場からの連絡を受けて、関係者が駆けつけたとき、銅鐸の一部は発見者によって現場の片隅に集められ、土砂とともに斜面したに転げ落ちたものは、目の前にあった水田の畔に並べられていたという。

復元状況
銅鐸発掘時の状況を復元したレプリカ
在、発掘現場はすっかり整備されて、銅鐸発見時の状況が復元されている。要所要所には、発掘当時の様子が写真入りで解説したボードが立ててあり、見学者には親切だ。手許に見学案内があれば、さらに理解しやすいのだが、残念ながらパンフレットはさらに100mほど登った「加茂遺跡ガイダンス」まで行かないと貰えない。あるいは、先ずガイダンスを訪れるのが見学順序だったかもしれない。

鐸を埋めた穴(埋納坑)の大きさは畳一枚ほどで、深さは40cm程度。丘陵の斜面を上から5〜6mほど切った所に位置していた。発見当時、大部分の銅鐸は重機の爪によって埋納坑からえぐり出されていた。それでも、4個の銅鐸はまだ埋納坑に残っていたという。その後の調査によって、出土した銅鐸の数は最終的に39個になった。埋納坑は、暗褐色粘質土と黄褐色砂質土の二種類の土で塞がれていた。埋納後に掘り返した後は見あたらなかった。こうしたことから、決して無造作に埋納したものではないとされている。


丘陵の両側を繋ぐように作られた加茂岩倉遺跡ガイダンス

加茂岩倉遺跡ガイダンス
加茂岩倉遺跡ガイダンス

イダンスは、遺跡発見の発端となった農道工事でV字に掘削された丘陵の両側を繋ぐ橋のイメージで建てられている。エレベータで施設内に入ると、遺跡が目の高さで遠望できるガラス張りの休憩スペースがある。セルフサービスながらお茶のサービスもあるので、坂道を登ってきた汗が引くまで、周辺の豊かな自然の景観を楽しみながら一息入れることができる。

展示室の内部
展示室の内部 (加茂岩倉遺跡パンフより)
示室には、出土した銅鐸のレプリカが展示されており、壁には遺跡の解説パネルが貼ってある。部屋の隅にはビデオ映像で遺跡の発掘状況を解説してくれるコーナーもある。他に見学者が誰もいない展示室をゆっくりと見学していると、管理人を兼ねたガイドのヒロノ氏が近寄ってきて、いろいろ説明していただいたのは有り難かった。

茂岩倉遺跡から出土した銅鐸は全部で39個。そのうち、約40cm大のものが20個で、残りの19個は約30cmの大きさである。特徴的なのは、これらの銅鐸は「入れ子」の状態で、すなわち大きい銅鐸の中に小さい銅鐸を納めた形で出土していることだ。確実に入れ子状態にあったものは13組26個あり、その他のものも土の付着状態から入れ子で埋納されていたと推測されている。「入れ子」状態での発掘例は、この遺跡が初めてということだ。

「入れ子」状態の銅鐸
「入れ子」状態の銅鐸
の他にもいろいろ特徴的なことがある。例えば鈕(ちゅう)と呼ばれる吊り手の部分に「x」印が刻印されているものが14個見つかっている。鋳造後にタガネか何かで打ち込まれたと思われるが、実は荒神山遺跡から出土した銅剣358本のうち、344本にもこの印が刻まれていた。このような例は、現在までのところ他の遺跡では見つかっていない。このため、「x」印は、これらの銅剣や銅鐸をつくった工房のマークであるとする説もあるが、本当の理由は謎のままである。

鐸の身の部分には、流水文または袈裟襷文が描かれているが、これらの文様とともに銅鐸の表面に、鹿や猪、トンボ、人の顔、あるいはウミガメなどを描いたものが、39個のうち7個あった。出土した銅鐸のうち、15組26個が同じ鋳型から造られた「兄弟」であることがわかっている。同范のものは、加茂岩倉だけでなく広い範囲に及んでいる。また、大きい方の銅鐸には、他の地域で出土した銅鐸にはみられない特徴があり、出雲で作られた可能性が高い。だが、この遺跡からは銅鐸の鋳型はまだ見つかっていない。



銅鐸の編年から推理した埋納時期

れらの銅鐸の埋納時期はどのように特定できるのだろうか。2年前の平成14年7月に永眠された国立歴史民俗博物館の元館長・佐原真(まこと)氏(*1)はユニークな考古学者である。筆者と同じ外国語大学を卒業されながら考古学の世界に入られた。昭和35年(1960)に平凡社が『世界考古学大系』を発行したとき、佐原氏は「銅鐸の鋳造」というタイトルで、鈕(ちゅう)の形態に基づく銅鐸の編年に関する論文を発表され、以後の研究に大きな影響を与えられた。そのとき、氏は全く実物を見ないで写真だけを見て、この論文をまとめたという。有名なエピソードである。

銅鐸の出土状況
銅鐸の出土状況
原氏は、銅鐸の鈕の断面の変化に着目して、その変遷を追うことができるとして、第T段階のものを菱環鈕式(弥生前期ごろ、紀元前3世紀)、第U段階のものを外縁付鈕式(弥生中期前半ごろ、紀元前2世紀)、第V段階のものを扁平鈕式(弥生中期後半ごろ、紀元前1世紀)、第W段階のものを突線鈕式(弥生後期ごろ、紀元1世紀)と分類された。40年後の今日も、この分類法は有効である。銅鐸はこの過程で大型化し、また「聞く銅鐸」(T−1〜W−1)から「見る銅鐸」(W−2〜W−5)へ移行したという。

茂岩倉遺跡で見つかった39個の銅鐸は、外縁付紐1式(U−1)、外縁付紐2式(U−2)、および扁平紐式2式(V−2)である。その製造時期は、いずれも弥生中期、実年代いえば紀元前1世紀から紀元後1世紀前半頃に作られたもので、弥生後期のものは含まれない。ということは、これらの銅鐸が埋納された時期もおおよそ限定できる。すなわち中期末から後期初等のころと見なすことができる。ちなみに、神庭荒神谷遺跡から出土した5個の銅鐸は、5号銅鐸が最古段階の菱環紐1式で、その他はいずれも外縁付紐1式である。時期は弥生前期末〜弥生中期前半と推定されている。

遺跡の出土品はいずれもいわゆる「聞く銅鐸」で、新しい段階の「見る銅鐸」は含まれていない。時期はほぼ重なるが、神庭荒神谷には最古段階を含んでおり、加茂岩倉遺跡には新しい扁平紐式を含むので若干の時期差はみられる。なぜ大量の銅鐸が一括してこの地に埋納されたのかという問いに対する回答は、神庭荒神谷の埋納銅剣と同様に、まだ出ていない。何らかの理由で、当時の弥生人の農耕祭儀に変化が生じて、いままで使用してきた祭器が不要となり、一括して埋納したとの見方が一般的である。問題はその理由だ。



その後の島根県の銅鐸事情

示室を見学しているとき、ヒロノ氏から面白い話を聞いた。島根県では荒神山遺跡および賀茂岩倉遺跡から見つかった銅鐸を含めて、今までに56個の銅鐸が出土しているという。しかし、いずれも弥生時代前期から中期のもので、音を鳴らす「聞く銅鐸」であり、飾り耳が巨大化し銅鐸を安置して使用する「見る銅鐸」はないと思われてきた。

ころが、2003年2月に出雲市東林木町の青木遺跡から横6cm、縦3.5cmの銅鐸片が見つかった。銅鐸の外縁を装飾する「飾り耳」部分で、弥生時代後期の1〜2世紀の「見る銅鐸」のものであるという。加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の銅鐸より、100〜200年後の新しい時代の型式のものとなる。この発見は、出雲地方の銅鐸祭祀は紀元前後に終わったという従来の学説に一石を投じているという。



(*1) 佐原 真氏の経歴
・1932年、大阪に生まれる。小学生のときから熱心な考古少年だった
・1957年、大阪外国語大学ドイツ語学科卒業。京都大学の聴講生となる
・1958年、京都大学院修士課程に入学。有光教一・小林行雄・樋口隆康氏の指導を受ける
・1960年、「銅鐸の鋳造」を『世界考古学大系2』に執筆。鈕の形態に基づく銅鐸の編年を発表。以後の研究に大きな影響を与える
・1964年、奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部に入る
・1992年、奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センター長に就任
・1993年、国立歴史民族博物館企画調整官(副館長)に就任
・1997年、国立歴史民族博物館長に就任
・2001年、8月、国立歴史民族博物館長を退官、名誉教授となる
・2002年、7月10日、佐倉市で死去
・『考古学つれずれ草』他著作多数



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