神原神社(かんばらじんじゃ)古墳 景初3年(239)銘の銅鏡を出土した神原神社古墳を復元

神原神社古墳
覆い屋に覆われた神原神社古墳

 見 学 メ モ

【所在地】 島根県大原郡加茂町大字神原
【墳形】 一辺が約30mの方墳。狭長(5.8m)の竪穴式石室を持つ
【築造時期】 4世紀中頃
【出土品】 「景初三年」銘の三角縁神獣鏡(国の重要文化財)、鉄製武器や農耕具
【アクセス】 国道54号(出雲神話街道)を広島方面へ。赤川に架かる柳橋を渡り、右折して赤川の堤防沿いに西へ1km。


赤川左岸の古墳の墳丘の上に建っていた神原神社

墳から三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が出土する例は、特に珍しいことではない。ところが、その鏡が景初三年の銘が刻まれていると話は別だ。景初三年は西暦239年、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の明帝のもとに使者を派遣し、明帝から銅鏡100枚を下賜されたとされる年である。

赤川
神原神社のそばを流れる赤川
角縁神獣鏡が下賜された銅鏡かどうかは、学会でも異論があるところである。だが、景初三年銘がある三角縁神獣鏡は、現在までのところ2面しか出土していない。一面は大阪の和泉黄金塚古墳からであり、そしてもう一面は神原神社古墳からである。

原神社古墳は、加茂岩倉遺跡から近く、南東1.8kmのところに位置している。車なら数分で行くことができる。国道54号線に戻って広島方面に向かうと、まもなく赤川に架かる柳橋がある。橋を渡りきって赤川の左岸の堤防を下流に向かうと、1kmほどで神原神社の裏手に出る。神原神社古墳は、この神社の横手に移設して復元されている。

神原神社
周囲を畑に囲まれた神原神社
原神社は、今でこそ赤川左岸の畑の中に鎮座しているが、『出雲風土記』や『延喜式』の神名帳にも記載されている古社である。祭神として、オオクニヌシノミコト(大国主命)と、イワツツオノミコト(磐筒男命)、イワツツメノミコト(磐筒女命)を祀っている。古伝では、アマテラスオオミカミ(天照大神)がオオクニヌシノミコトの神宝や真種の甘美鏡(水底に眠る神威溢れる見事な宝)を天の八十河にいるイワツツオノミコトとイワツツメノミコトを派遣して管理させたとされている。社殿はもともと赤川左岸の微高地の突端に建てられていた。その微高地が実は古墳の墳丘だったのである。度重なる社殿の改築などで古墳の存在は古くからわかっていたが、調査の手は加えられなかった。

和47年(1972)、赤川改修工事で新堤防を築くことが決まり、堤防上にあった神社の社殿を隣接地に移すことになった。新堤防建設に先立って微高地を発掘調査したところ、南北方向27〜30m、東西方向22〜26m、周濠の底からの高さ6.9mの方墳であることが判明した。しかも、横穴式の後期古墳が多いこの地方にあっては珍しい、狭長の竪穴式石室を持つ前期古墳だった。



移設して復元された古墳

神原神社古墳
神原神社古墳
掘調査を進めると、石室の蓋石の上に多くの器台形土器や壺が供えてあった。石室内には、各種の鉄製武器や農耕具が副葬されていた。さらに、鏡も一面見つかった。驚くべきことに、鏡には景初三年の銘が刻まれていた。全国で2枚目となる景初三年銘の三角縁神獣鏡の出土で、この古墳が全国的にも貴重なものであることが判明した。

墳の取り扱いについて、現状保存すべきかどうか慎重な検討が重ねられたが、最終的には、完全な発掘調査を実施して、石室を隣接地に移築して保存することになった。昭和48年の暮れに墳丘と石室に対する徹底調査が行われ、翌年には移設地の用地買収が行われて、昭和50年(1975)に石室の移築・復元作業が終わった。現在、神原神社横の巨大な覆い屋の下に横たわっている竪穴式石室は、このような経過を経て復元されたものである。
復元された竪穴式石室
復元された竪穴式石室

室の規模は内法で測定して、長さが5.75m、幅は北端で1.3m、南端で0.95m、床面から蓋石までの高さは約1.4mとのことだ。石室の四隅の壁はこの付近で産出する扁平な板状石を持ち送り式に小口積みしてある。床面はU字型にくぼんだ粘土で、くぼみの大きさから長さ5.8mの割竹形木棺が据えられていたと推測されている。

角縁神獣鏡以外に、素環頭大刀・木装大刀・剣・槍・鉄鏃などの鉄製品や、鋤・鍬・鎌などの農耕具農耕具、土器 、玉類(ヒスイの勾玉・碧玉の管玉・滑石製臼玉など)なども、この古墳から出土している。石室の構造に、これらの副葬品の組み合わせや出土土器の形式を勘案して、この方墳の築造時期は4世紀中頃と推定されている。


埋葬されていた景初三年銘の三角縁神獣鏡

三角縁神獣鏡
三角縁神獣鏡
初三年銘がある三角縁神獣鏡は、神原神社古墳の石室に安置された木棺の中央東側から見つかった。鏡面を上にして約40度の傾で棺壁に立てかけてあったという。出土した鏡は国の重要文化財に指定され、島根県立八雲立つ風土記の丘資料館に一般公開されている。

の鏡は青銅の鏡で直径は23cm。銘帯には次の41文字が左回りに鋳出されている。
景初三年 陳是作鏡 自有経述 本是京師 杜地□出 吏人■之 位至三公 母人■之 保子宜孫 壽如金石兮 (□は判読不明の文字、■は言偏に名)

く知られているように、銘文中の「景初」は中国三国時代の魏の年号で、三年はちょうど邪馬台国の卑弥呼が魏に貢献した年(西暦239年)にあたる。このため、「景初三年」銘の鏡は邪馬台国論争や三角縁神獣鏡の製作地論争などで古代史上非常に注目されている鏡である。しかも、現在まで、大阪の和泉黄金塚古墳とここ神原神社古墳からそれぞれ一面しか見つかっていない。

角縁神獣鏡は古代史の大きな謎の一つとされている。魏の明帝が卑弥呼に下賜した銅鏡が三角縁神獣鏡であるならば、中国本土でも出土していておかしくないのだが、現実には一枚も発見されていない。その理由として2つの説がある。一つは魏朝特鋳説と呼ばれるもので、中国で出土しないのは、魏が卑弥呼のために特別に鋳造して、そのすべてを卑弥呼に下賜してしまったからだとする。この説では、三角縁神獣鏡は魏志倭人伝に記載の、卑弥呼に賜った銅鏡百枚にあたるという。もう一つは国産説で、我が国でしか出土しないのは、この鏡が日本で作られたものだからであるという。今までに発掘された三角縁神獣鏡がすでに500枚を越えていている点を考慮すれば、国産説の方が蓋然性があるように思われる

都産業大学の森博達教授は、中国詩文の韻律の研究から、魏朝特鋳説が成り立たないことを発表しておられる(2000・9・12付け毎日新聞)。面白い説なので、以下にその要旨を付記しておく。

国の詩や銘は韻文であり、原則として韻を踏なければならない。後漢に流行した方格規矩四神鏡の代表的な銘文を見ると、音符と四声による平仄(ひょうそく)の法則が当時すでに確立していたことがわかる。ところが、方格規矩四神鏡の後に現れた三角縁神獣鏡には、魏で押韻(おういん)しなくなった字を押韻字とする銘文が少なくない。神原神社古墳出土の景初三年鏡に関して言えば、かすかに押韻の跡が見られるところが一箇所あるが、平仄の韻律は全く無視されている。卑弥呼が使者を遣わした魏の明帝の時代は、まさに詩文全盛の時代である。押韻の意識すら持たない拙劣な銘を刻んだ鏡は、皇帝自身の権威を傷つけるものであり、こんな銘文の鏡を特鋳して賜わるはずがない、というのである。 



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