山代二子塚古墳(やましろふたごづかこふん) 日本で初めて「前方後方墳」と名付けられた島根県最大の古墳

山代二子塚古墳の前方部
山代二子塚古墳の前方部

 見 学 メ モ

【所在地】松江市山代町二子塚
【墳形・規模】前方後方墳。全長94m、周囲の外堤を含めると150m。後方部の高さ9.5m
【築造時期】6世紀中頃
【アクセス】 JR松江駅から一畑バス八雲行きまたは大庭行きで15分、「山代町」バス停下車 徒歩2分


「前方後方墳」と最初に命名されたことで知られる古墳

古墳築造当時のイメージ
山代二子塚古墳築造当時のイメージ
江市内から国道432号線で南に向かうと、やがて進行方向左手に小高い山が見えてくる。標高171mの茶臼山である。『出雲風土記』には神の籠もる山、「神那樋野(かんなびの)」と称された神奈備である。茶臼山から意宇(おう)川周辺にかけての一帯は古代出雲文化の発祥の地で、古墳群や遺跡、古社が点在している。

然「山代二子塚古墳」の標識が目に飛び込んできたので、車を住宅街に乗り入れた。住宅街に入ってすぐのところに、樹木がすっかり取り払われた墳丘があった。大正14年(1925)に日本で初めて「前方後方墳」の名付けられた島根県最大の古墳である。全長94m、後方部の高さ9.5mという墳丘規模は、畿内の大王陵を除けば全国トップクラスに位置づけられる。

の古墳の後方部は、旧陸軍の射撃場を造るために東側が削られたままだったが、島根県は関連施設も含め12億円余りを掛けて、復元・整備した。工事は平成10年(1998)3月に完成し、全国で初めて古墳の土層を見学できる高さ5m、幅16mの土層見学施設が設けられた。内部にはこの古墳を他と比較考察する解説パネルや音声解説の設備も設けられている。古墳の裾近くには、周辺の遺跡・古墳の見学拠点となる「ガイダンス山代の郷」も同時にオープンした。残念ながら、ここを訪れたのは早朝だったので、土層見学施設もガイダンスも施錠されたままだった。



山代・大庭古墳群の一画を構成する東部出雲の首長墓

土層見学施設入り口
扉が閉まったままの土層見学施設入り口
代二子塚古墳は、埋葬施設として巨大な切石を用いた石棺式石室と呼ばれる特徴的な石室を採用する。また、出雲型子持壷と呼ばれる独特な壷も発見されており、当時の東部出雲の首長たちは、こうした壺を用いて古墳の祭りにを行っていたと推測されている。

世紀中頃から7世紀前半に東部出雲を支配した首長たちを埋葬した墓が、山代二子塚古墳や、山代方墳、永久宅後(えいきゅうたくうしろ)古墳である。いずれも茶臼山山麓に位置している。また、近くには山代二子塚古墳にやや先行する大庭鶏塚(おおばにわとりづか)古墳もある。これらの古墳を総称して、山代・大庭古墳群と呼んでいる。

の東部出雲の勢力に対抗する勢力が、西部出雲に存在した。その勢力の代表格を埋葬したのが、出雲市にある大念寺(だいねんじ)古墳とされている。この古墳は全長91mの前方後円墳で山陰最大の横穴式石室をもつ。そのなかに納められている家形石棺は日本最大の石棺である。

の時期は、畿内政権中央で蘇我氏と物部氏が政治の主導権をめぐって激しく争っていた頃である。墳形や飾り大刀などの副葬品から、東部勢力は蘇我氏と結びつき、西部勢力は物部氏と深く結びついていたことが推測されている。西暦587年に蘇我馬子が物部守屋を葬って政争に勝利すると、物部氏と結んでいた出雲西部勢力は衰退していった。しかし、出雲東部勢力は引き続き大型古墳を築造し続け、奈良時代には出雲臣、出雲国造としてその名を残していくことになったという。



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