両宮山古墳(りょうぐうざんこふん) 新たに発見された二重周濠を持つ巨大前方後円墳

ああああ
周濠に影を落とす両宮山古墳の前方部 (H17/10/02 撮す)

 見 学 メ モ

地形図
【所在地】岡山県赤磐市(あかいわし)山陽町穂崎
【墳形&規模】前方部2段築成の前方後円墳。中央くびれ部の両側に造出あり。二重周濠を巡らす。周堤(基底幅24m、上部幅14m)の外側に幅約13m、深さ約3mの外濠あり。
総長346m、 墳長192〜200m、後円部径104m、高さ21.7m、頂径23x18m、前方部幅124m、長さ90m、高さ22.3m、くびれ幅75m、後後高差0.64m。葺石なし
【内部施設】未調査のため不明
【外表施設】埴輪なし
【築造時期】五世紀後半 
【史跡指定】国指定史跡(1927年4月) 
【アクセス】宇野バス馬屋バス停/徒歩5分 
【その他】西の造出は、戦国時代にしろとして利用された際盛りつけたため高くなっている。



二重周濠古墳は畿内勢力に優遇された吉備勢力の台頭の証?

東→西方向の周濠
東→西方向の周濠
北→南方向の周濠
北→南方向の周濠
年の3月7日、4つの町(山陽町、赤坂町、熊山町、吉井町)が合併して岡山市の北東に赤磐市(あかいわし)が誕生した。周濠を持ち、極めてよく整備された前方後円墳として知られる両宮山古墳は、かっての山陽町の地域にある。全長192mの墳丘をもつこの古墳は、吉備地方では造山古墳作山古墳に次ぐ巨大古墳である。備前地域ではもちろん最大の古墳で、全国の古墳ランキングでは第39位を占め、国の史跡に指定されている。

の古墳は平地に作られた古墳である。盛り上げる土を採取したあとが巨大な周濠となっている。現在は後円部の北側が一部水田となっているが、周濠を持つ古墳は岡山県では珍しい。中世には城として一部改変されたが、後円部に比べ前方部が発達している点や、造り出しの位置などから、5世紀後半の築造と推定されてる。

世紀後半は、大和朝廷の推し進める中央集権化の荒波の中で、吉備勢力が弱体化し次第に力を失っていく時期にあたる。造山古墳(全長360m)や作山古墳(全長286m)など天皇陵と規模を競うほどの墓を築造した吉備勢力は、両宮前古墳を最後に大きな墓を作らなくなる。両宮前古墳は吉備全体の盟主墳とされながら、墳丘の規模は192mと、造山、作山古墳に比べて格段に小さい。

ころがである。史跡の範囲確定を目的に山陽町の教育委員会が2002年から3年計画で発掘調査してきて、二重目の周濠が設けられていることが判明した。後円部の周り5カ所で行った試掘の結果、幅約13m、深さ約3mの外濠(そとぼり)が幅28mの周堤の外側に巡らされているというのだ。この外濠は古墳を全周していた。その結果、濠を含めた古墳の総長は346メートルに達する。すなわち、作山古墳を抜いて造山古墳に迫る大きさを持ち、畿内天皇墓に迫る規模の古墳だったことがわかったという。

掘調査に併せて行なった墳丘測量の結果、この古墳が我が国最大の大山(だいせん)古墳のちょうど5分の2の規格で作られていることも分かった。この古墳の被葬者は、弱体化しながらも造山・作山古墳を築いてきた系列を継ぐ首長であると、今までは考えられてきた。

重の周濠は、天皇陵と見られる巨大古墳を中心に全国の前方後円墳のごく一部にだけ採用された施設である。そのため、天皇陵またはそれに次ぐ格付けを表しているという見方がある。そうであるならば、この古墳の被葬者は、造山・作山古墳を築いてきた系列とは別の系列の勢力で、畿内の天皇勢力に優遇されて二重周濠古墳の築造を許されたと考えることもできる。



葺石も埴輪も出土しない古墳の謎


吉備上道臣田狭の奥津城
吉備上道臣田狭の奥津城?
宮山古墳には、以前から大きな謎があった。天皇陵にも匹敵する前方後円墳でありながら、この時代の古墳には常識の葺石が墳丘に敷かれておらず、また埴輪の列柱も見あたらないのである。今回の発掘調査でも葺石や埴輪の形跡は見つからなかった。以前は、このことが弱体化した吉備勢力の象徴と考えられてきた。だが、大山古墳の規格をきっちりとコピーし二重周濠まで築いていて、造山・作山古墳を築いてきた系列とは別系列であることを主張しているような古墳である。それなりの理由があったにちがいない。

の点に関して、山陽町教育委員会の宇垣匡正主幹は独創的な仮説を立てておられる。すなわち、寿陵として被葬者の生前から進められた築造工事が、葺石と埴輪を敷設する工程の一歩手前で、天皇権力との間に”何か”が起こり、予定通り完成できなかったのではないか、というのである。

は、その”何か”とは何か。『日本書紀』はそのことに関係する「稚媛(わかひめ)伝説」を載せている。稚媛の夫、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみ・たさ))は宮廷で自分の妻の稚媛が魅力的な女性であると自慢していた。これを聞いた雄略天皇は、田狭を「任那国司」に任じて国外に追いやり、稚媛を奪っってしまった。もしこの話が史実であれば、田狭が任那に追いやられた時点で寿陵の築造が中断し、そのままになってしまったという可能性はある。

狭の妻だった稚媛と雄略天皇の間には星川皇子という皇子が生まれた。雄略の死後、稚媛は星川を天皇位につけようとして、星川にクーデターを勧める。星川は諸国からの貢ぎ物を収容する大蔵を占領するが、雄略の寵臣だった大伴室屋東漢掬(つか)らに包囲されて、星川皇子は焼死してしまう。 このとき吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)らは星川皇子のクーデターを聞いて水軍を率いて駆けつけるが、時すでに遅く皇子は焼死したことを聞いて引き上げる。しかし、雄略の後を継いだ清寧天皇は吉備上道臣らの行動を責め、その支配する山部を奪ったという。

の両宮山古墳の築造時期は5世紀の後半に想定されている。その点は雄略天皇の治世の時期と重なる。もし、田狭が任那の地で計画が発覚して殺害されたのであれば、この古墳の石室には埋葬された遺体はないことになるが、果たしてどうであろうか。



周囲の古墳

宮山古墳の周囲には二つの小さな古墳が築かれている。北にある和田茶臼山古墳は、現状から直径30mの円墳とされてきた。しかし、調査の結果、長さ55mの帆立貝形古墳で、両宮山古墳と同様にに二重の周濠を持つことが分かった。外濠のさしわたしは99mに達するという。

宮山古墳から県道を隔てた南側には、森山古墳がある。長さ82mの帆立貝形古墳で、周囲には埋没した周濠の周堤が水田となってのこっていまる。

れらの古墳はいずれも両宮山古墳とほぼ同時期の5世紀後半に築造されたと推測されている。両宮山古墳の被葬者を支えた人たちが眠っているのかもしれない。



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