楯築遺跡(たてつきいせき) キビツヒコが温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたといわれる故地

ああああ
楯築遺跡の頂上に環状に並んだ立石 (H17/10/01 撮影)

 見 学 メ モ

【所在】  岡山市矢部  
【墳丘】  円丘部は径約50m, 高さ5m。北東側と南西側に突出部を持つ。墳丘頂部に5個の巨石。墳丘斜面には円礫帯をめぐらす。
【内部主体】朱の敷き詰められた棺とそれを納めた木製の槨の痕跡を発見 
【築造時期】弥生時代後期
【出土品】 丹塗りの壷形土器、大形で飾られた器台形や壷形の土器、高杯、鉄剣、大量のガラス小玉,土製の勾玉
【アクセス】吉備津神社から4km


吉備路にある日本最大の弥生墳丘墓

備津神社から県道270号線を西に向かうと、足守川を渡ってすぐの所に鯉喰神社がある。温羅伝説でキビツヒコが鵜となり、鯉に姿を変えた温羅(ウラ)をこの場所で捕食したとされている。その温羅終焉の地に建てられた小さな神社である。

5個の立石
頂上に立てられた5個の立石
喰神社から足守川に沿って南へ下ると、岡山市が倉敷市と境を接するあたりに、王墓山丘陵が広がっている。弥生時代の後期に、その丘陵の北端に墳丘墓が築かれた。自然地形を利用し盛り土を行って整えられた楯築弥生墳丘墓である。

の墳丘墓は、直径約50m、高さ5mの円丘部を中心にして、北東側と南西側に突出部を備えた、弥生時代の後期では国内最大級の墳墓遺跡とされている。墳丘墓の頂上には立石が環状に配されている非常に珍しい例で、その横に鎮まる楯築神社の御神体も「亀石」と呼ばれている岩石である。そのため、遺跡は昭和57年(1982)に国の史跡の指定を受けている。

楯築神社の祠
楯築神社の祠
陵の麓でバスを降り、緩やかなスロープの坂道を登っていくと、途中に休憩所がある。休憩所の横に倉敷市教育委員会が楯築遺跡の案内板を立てている。そこで、遺跡の概要を理解した後、さらに先に進むと、左手に巨大な貯水塔のタンクが見えてくる。倉敷市水道局のものである。このタンクはかって墳丘墓の南西突出部が築かれていた台地の上に位置している。

水タンクの横に、楯築神社の御神体とされる「亀石」がおさめられている収蔵庫がある。楯築神社の御神体である亀石が国の重要文化財に指定されたことから、現在は収蔵庫を作って保管している。

の先の円形の頂きに扁平で巨大な5枚の石が環状に並べて建っている。まるでヘッドストーンを見るような異様な光景である。その中心に立って目をつむると、弥生時代の吉備地方の部族が、対立よりも協調することを選び、互いに連合していって一大勢力となって古墳時代を迎える直前の様子が脳裏に浮かんでくる。

部族を話し合いで一大吉備勢力にまとめ上げた大首長が死に、その墓の周りに部族の長が参集し不戦の誓いを立てた。環状に立てられた5枚の立石は、あるいは円卓を囲んで不戦を誓った各部族の長をイメージしたものかもしれない。



岡山大学考古学研究室が行なった発掘調査の成果。

実測図
楯築遺跡の実測図
の楯築遺跡の発掘調査は、昭和51年(1976)から前後6回にわたって、岡山大学の近藤義郎教授を中心とするグループが行なってきた。休憩所の横に倉敷市教育委員会が立てた楯築遺跡の案内板は、その成果を次のように解説している。

.二つの突出部はすでに団地造成工事で大きく破壊されていた。だが残った部分を発掘調査したところ、そこには石列が並び、飾られた丹塗りの壷形土器が多数置かれていたことが判明した。

.墳丘頂部には5個の巨石が立っており、墳丘斜面には円礫の帯がめぐらされていた。墳丘の各所から、大形で飾られた器台形や壷形の土器、高杯などが発見され、盛大な埋葬の祭りが行われた様子を示している。

.主墳のほぼ中心、地下約1.5mのところに、この墓の主人公の埋葬設備が発見された。長さ約2m、幅約70cmの棺が長さ3.5m、幅1.5mの木槨の中に置に置かれていた。棺の中には30kg近い膨大な量の朱が入れてあったという。鉄剣や首飾りなどの副葬品も発見された。

.現在収蔵庫に収められている弧帯石は、もと主墳上にあった楯築神社のご神体として伝世されてきたもので、帯状の複雑な文様が刻みこまれている。これとよく似た小形品も、発掘によって出土している。


墓の頂上に立てられた環状列石を、古代人は矢を止めるための楯と考えたようだ。そのため、楯築という地名が付けられた。立石が置かれた時代は古く、岡山大学の近藤教授が中心になって行った発掘調査でも、弥生時代までさかのぼるとのことだ。

内役の正岡睦夫教授は、この遺跡について興味深いことを指摘された。楯築墳墓は後の時代の古墳につながる要素が多いが、古墳と全く異なる要素もあり、考古学上非常に重要な遺跡であるとという。

特殊器台
特殊器台
墳につながる要素としては、かなりの数の特殊器台やその上に載せる壺が多く見つかっている。これらの遺物は、後の近畿の古墳を飾る特殊器台型埴輪につながるもので、埴輪の先祖と見ることができる。また、この墳墓には弥生時代には例を見ない排水溝が作ってある。こうした付帯設備も後の古墳に引き継がれている。

に、古墳時代につながらない要素として、埋葬設備として、ここでは、竪穴式石室の代わりに木槨が採用されていた。また、墳頂部は葺石だあったが、墳丘の裾の部分は石で囲んでいない。さらに、鏡が出土していない。こうしたことは、古墳時代の墓には見られない現象である。

ずれにせよ、楯築墳丘墓は突出部を含めると長さが約80mに達し、弥生時代後期の傑出した規模をほこる墓である。強大な権力の出現を後世に示したモニュメントであると言えるであろう。



楯築神社の御神体になっている亀石

亀石の収蔵庫 亀石
亀石の収蔵庫 収蔵庫の中の亀石(フラッシュ撮影)

元の言い伝えでは、楯築神社は、キビツヒコと共に従軍し従い功を立てた片岡多計留(カタオカノタケル)を祀っていたと伝えられている。この神社は亀石と呼ばれているまことに不思議な石を御神体として伝世してきた。石の大きさは対角線で93.4cm×88.2cm、厚さ35.7cm。大人の一抱えもある大きさであり、しかも石の表面全体に帯を巻き付けたような弧状の紋様が線彫りされている。

ともと、この亀石は墳丘の頂上にある環状列石の中央に、石で作った祠に祀られていた。何時の頃からか、亀石を麓の神社で祀るようにしたところ、たびたび祟りが生じた。そこで、村人はまた頂上に石の祠を建ててそこで祀るようにしたが、何故か祠は元の立石の中央ではなく、その隣に作られた。

楯築神体跡地
楯築神社の神体が祀られていた場所
はこの亀石が楯築遺跡発見の糸口になったとされている。亀石が弥生時代のものであることは誰も気がつかなかった。30年ほど前に、郷土史家が表面に掘られた文様は弥生の文様に似ていると言い出した。その後、中央から坪井清足教授など著名な考古学者が見学に訪れ、弥生時代のものに間違いないとされた。

こで、上記のように岡山大学の近藤教授を中心に発掘が行われ弥生時代後期の墳丘墓に関する数々の知見が得られた。

石の表面の紋様は、「弧帯文(こたいもん)」と呼ばれ、弥生時代後期に吉備地方中心に作られたとされる特殊器台の装飾と似ている。半肉彫りの部分もあってダイナミックな紋様になっている。石の正面と思われる場所には、卵形をした顔があり、浅い線彫りで、眼、鼻、口が描かれている。亀石と呼ばれる所以である。

掘を担当した、近藤義郎教授によれば、弧帯文は恐らく直弧文(ちょっこもん)の源流と思われる、とのことだ。また亀石を調査した結果、その製作過程が分かった。槌のようなもので亀石の表面を叩いてならし、その後で磨いて紋様を彫ったという。ただし、紋様の持つ意味は分からないとのことだ、しかし、地面の中から同じ紋様の石が、弥生時代後期の土器と一緒に出土したことから、亀石は弥生時代に製作されたことが明らかになった。

のため、亀石は国の重要文化財の指定を受け、現在は収蔵庫に厳重に保管されている。収蔵庫に設けられた2つの窓は小さすぎて、見学者がのぞき込んでも石の様子がよく分からない。保存の方法にもう少し知恵を出せなかったのかと残念である。幸い、岡山大学の考古資料展示室でレプリカを見学できたので、全体的なイメージは掴めたが、不思議な石である。



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