造山古墳群(つくりやまこふんぐん) 全国第4位の墳丘規模をもつ巨大古墳を中心に6基の陪塚で構成される古墳群

造山古墳
全国第4位の墳丘規模をもつ造山古墳 (H17/10/01撮影)


遊歩道
造山古墳と陪塚周辺をめぐる遊歩道
山古墳群は、全長約350〜360mを測る全国第4位の巨大古墳である造山古墳と、その西側一帯に築かれた6基の中小規模の古墳とで構成される。

山古墳は、自由に立ち入りできる古墳としては最大の古墳である。5世紀前半の吉備を支配した「王」の墓といわれている。6基の中小規模の古墳は、その王に仕えた近臣たちの墓(陪塚)とされている。

のうち、榊山古墳(第1号古墳)と千足古墳(第5号古墳)は古くに発掘され,榊山古墳からは朝鮮半島からの輸入品と思われる馬形帯鈎(ベルトのバックル)などが出土している。また造山古墳前方部にある石棺や千足古墳の石室は九州産の石材を使用したり,九州地方独特の構造をしており,こうした地域との外交関係をうかがわせる。

古墳名墳形規模備考
榊山古墳(第1号古墳)前方後円墳径35m(現状)国内唯一例の馬形帯鈎が出土した
造山第2号古墳方墳一辺40m外提の埴輪列が検出され100本を越える埴輪が出土した
造山第3号古墳円墳?径30m?かなり削平され墳形は不明である
造山第4号古墳前方後円墳墳長55m農道拡幅に伴い家形埴輪、短甲形埴輪などが出土した
千足古墳(第5号古墳)前方後円墳墳長74m装飾古墳として有名。肥後地方特有の古式の横穴式石室を持つ
造山第6号古墳円墳径30m千足古墳と同様の石室を持つ



造山古墳(つくりやまこふん)

 見 学 メ モ

【所在地】岡山市新庄下
【墳形&規模】前方部3段、後円部3段築成の前方後円墳。両側くびれ部に造出あり。
全長350〜360m、後円部径224m、高さ32.5m、頂径48x46m、前方部幅230m、長さ170m、高さ27m、くびれ幅115m、後後高差3〜4m。葺石あり
【内部施設】未調査のため不明
【築造時期】五世紀前半 
【出土品】円筒埴輪、楯、衣蓋、靱、家など形象埴輪。埴輪前方部の頂きに刳抜式(くりぬきしき)長持ち形石棺(長さが193p、幅75p、深さ58p)が露出。別の古墳から出土したと言われているが、本墳からの出土の可能性もあるという。
【アクセス】中鉄バス「千足」で下車。備津神社から6K、自転車で30分。鯉喰神社から自転車で10分。


方後円墳とは、江戸時代後期の儒学者・font color=red>蒲生君平が名付けた名称だが、名称の是非はともかくとして、我が国の古墳を代表する独特の形をしている。古墳時代の成立は、実にこの前方後円墳の出現によって特徴づけられている。当時の大王をはじめ各地の首長は己の奥津城に主としてこの墳形を採用した。

造山古墳全景
造山古墳全景
造山古墳の墳丘
造山古墳の墳丘
方後円墳は近畿はもとより全国的な広がりをみせ、円筒埴輪を並べ葺石で覆うスタイルを確立している。だが、その築造には土木、天文学など高度な技術や知識が要求される。当時こうした技術を有していたのは土師氏であり、土師氏集団が墳形の様式を確立し、ヤマト朝廷の古代国家統一の動向と深い関わりを持っていたとされている。つまり、ヤマト朝廷に服属した各地の首長には、前方後円墳の築造を公認し、築造を指導するために土師氏の技術者を派遣したものと思われる。

本最大の前方後円墳は大阪府堺市の大山古墳(仁徳天皇陵、全長486m)であることは、よく知られている。その他にも、大阪府羽曳野市の誉田山古墳(応神天皇陵、全長420m)、大阪府堺市の石津ヶ丘古墳(履中天皇陵、全長362m)、奈良県桜井市の箸墓古墳(276m)、奈良県橿原市の見瀬丸山古墳(310m)など、200m以上のクラスの古墳の多くは奈良盆地と河内平野に集中して築造されている。そんな中にあって、岡山県岡山市の造山古墳(360m)や岡山県総社市の作山古墳(286m)は、特異な例外である。

山古墳の築造時期は5世紀の初め頃、人によっては5世紀の前半と推定されている。この時期、河内平野では、皇統譜にしたがって応神・仁徳・履中の各天皇陵に比定されている古墳がこの順に築造されたとされている。だが、考古学的には現・履中天皇陵(石津ヶ丘古墳)は父の仁徳天皇陵(大仙古墳)より古く、5世紀前半頃の築造とされと見なされている。つまり、現在の天皇陵比定は誤りということになる。

すると、5世紀の前半には、河内と吉備に同等規模の古墳を築造した首長が存在したことになる。石津ヶ丘古墳も造山古墳も、その全長だけをとって比較すればほとんど変わらない。もう一つ、面白い対比が目立つ。大仙古墳の築造は5世紀中頃と考えられ、河内平野では、石津ヶ丘古墳→大仙古墳と時代が下るにつれて墳丘の規模は巨大化している。吉備においては、作山古墳は造山古墳から1世代または2世代後の5世紀後半の墓とされているが、墳丘の規模は造山古墳→作山古墳と時代がさがるにつれて小さくなっている。

うした対比や変更が何を物語るかは興味あるテーマである。いずれにせよ、同時代にヤマト王権に匹敵する、あるいは対抗できる巨大な権力がこの地に存在したことは事実であろう。そのモニュメントが、”古墳である”と注意されなければ、普通の小山として見過ごしてしまいそうな造山古墳である。


登り口
造山古墳の登り口
方後円墳の規模で1から3位にランクされる古墳は、天皇陵に比定されているため立ち入り禁止である。全国第4位の大きさを誇る造山古墳は、実際に庶民が立ち入りできる古墳としては全国最大規模である。この古墳の登り口は前方部にあり、誰に遠慮することもなく立ち入ることができる。

さ27mの前方部の頂上に荒神社があり、その社の前には石を刳りぬいた石棺の身が置かれている。畿内的な組み合せ式の長持形石棺に似せているが、材質は九州阿蘇山系の凝灰岩で、形態も九州系の石棺に似ているという。形態的には畿内の石棺を意識しながら、吉備と九州の関係の強さを示しているようで、興味深い。蓋の部分は壊れてしまったようだが、その一部が荒神社の裏手にある。

石棺の身
荒神社の前に置かれた石棺の身
蓋の一部
うち捨てられている蓋の一部
の石棺は、造山古墳から掘り出されたものであるという説と、造山古墳の北にあった新庄車塚古墳のものであるという説があり、現在はいずれとも決めがたい。

山古墳は、まだ学術的な発掘調査が実施されていない。それでも様々なことが分かっている。例えば、低丘陵を切断し土盛や削平などを施して墳形を整えている。墳丘は三段築成で、くびれ部両側に台形の造り出しを設けている。また、墳丘表面には葺き石がふかれ、各段には円筒埴輪がめぐらされている。このほか、楯・靭・蓋・家などの形象埴輪の破片も見つかっている。大正10年(1921)、周辺の陪塚(1−6号墳)とともに国指定史跡となった。

葬者は、当地域の首長であったと同時に、吉備全域をも統括していた大首長の地位にあったと考えられている。また、造山古墳に次ぐ作山古墳(総社市)、両宮山古墳(山陽町)などの巨大古墳の存在は、吉備が畿内の勢力と肩を並べるほどに強大であったことを示唆している。

の古墳の巨大さは、実際に墳丘上を歩いてみないと分からない。後方部からゆっくりと下っていき、しばらく植林された平坦な部分が続く。だが、後円部の頂上に立つにはかなり急な坂を登らなければならない。後円部の頂上は以外と平坦な原っぱになっていた。豊臣秀吉の毛利攻めの際、毛利方が陣地を築くために頂上を平らにしたためだという。そのとき後円部の周囲に土塁を築き、さらに郭(くるわ)を2カ所と竪堀(たてぼり)を3カ所設けている。

後円部
造山古墳の後円部
畿地方に住む考古学愛好者にとっては驚きの一語に尽きるが、天皇陵に匹敵するこの古墳の本格的な学術調査は、上述のように未だ行われたことがない。学術調査のためには、基礎資料になる精細な墳丘測量図の作成が求められる。岡山大学の新納泉教授らの研究チームは今年の9月から3カ年計画で、衛生を用いた位置測定システムで「GPSデジタル測量」を開始したばかりだ。”眠れる巨墳”の実態解明に、ようやく第一歩が記されたと言うべきであろう。



榊山古墳(さかきやまこふん)(第1号古墳) 馬形帯鈎の出土で有名

榊山古墳
榊山古墳の後円部
山古墳の西側には大小6基の陪塚と呼ばれる古墳がある。主墳である造山古墳の被葬者の一族か、有力な従者の墓と考えられているが。その中の一つである第1号古墳は、古くに発掘され榊山古墳と呼ばれている。この古墳は、朝鮮半島からの輸入品と思われる馬形帯鈎(ベルトのバックル)などが出土したことで知られている。

山古墳の前方部の南北方向に、稲穂が色づいた水田が続いている。この水田は造山古墳の周濠の跡と推定されている。その水田の向こう側が幾分小高くなっていて、北側に竹藪が茂っている。そのあたりが榊山古墳の後円部で、前方部は造山古墳と同じ方向に位置している。



造山第2号古墳

造山第2号古墳
造山第2号古墳
山第2号古墳は、一辺約20mの方墳である。造山古墳の濠(推定)のすぐ外側にあり、造山古墳の前方部と平行になっている。造山古墳の区画と密接な関係あるように思われ、副葬品をおさめるための古墳または祭壇のようなものではないかとの説もある。

成9年(1997)に、造山古墳群を巡る遊歩道を建設するため発掘調査が行われた。すると、この古墳の南辺、または南側の丘陵斜面に平行に、およそ100本ほどの円筒埴輪と盾型埴輪の列が約35mの範囲にわたって一列に並べられているのが発見された。埴輪の特徴から5世紀後半と考えられ,この古墳が築造されたのは造山古墳よりやや新しい時期と想定されている。



造山第4号古墳

造山第4号古墳
造山第4号古墳
山第4号古墳も、造山古墳の陪塚といわれる古墳のひとつで、現状は直径35mほどの円形の形をしている。農道の拡幅に伴って発掘調査を行ったところ、周溝と考えられる溝状遺構から、円筒埴輪や朝顔形埴輪、家形埴輪が出土した。

輪の出土した溝状遺構の位置や向き、周辺の地形などから判断して、この4号古墳はもとは墳長55m程度の前方後円墳、あるいは帆立貝形古墳だったようだ。



千足古墳(せんぞくこふん)(第5号古墳)

千足古墳遠望
千足古墳遠望
石室入口
千足古墳の石室入口
山古墳群の中の陪塚第5号古墳は、5世紀後半に造られた全長75m、三段築成の前方後円墳である。古くから発掘調査が行われ、一般には千足古墳または千足装飾古墳と呼ばれている。吉備地方でもっとも古い形式の横穴式石室が築かれおり、さらに、石室内には直弧文が刻まれた石障が見つかったことから、大正10年に史跡の指定を受けている。

室は開口しているが、のぞき込んでも何も見えない。案内板の説明によると、横穴式石室は玄室が長さ3.45m、幅2.5m、高さ2,7mで、板石を持ち送り式に積み上げ、3枚の天井石で塞いでいる。下半部には凝灰岩製切石を四隅に立て巡らし、さらに2枚の障石で内部を二分している。この障石の前面に直弧文、上面に鍵手文が彫刻されている。この石室の構造や、直弧文様は九州西北部の装飾古墳の石室に類似しており、被葬者が北部九州と深いつながりがあったことを示唆している。


晩の宿舎に当てられたのは「ウェルサンピア岡山」。午後5時に到着して大浴場で汗を流した後、3階の「雪舟」の間でミニ講座が開かれた。このあたりが、一般の観光ツアーとは異なる。正岡先生と松田館長の講義がびっしり1時間続いた。その中で松田館長の児島湾岸の貝塚遺跡の話は特に興味深かった。現在の児島半島は、縄文海進以降は瀬戸内に浮かぶ島だったが、海退期に入った縄文前期中葉以降、沖積作用が進む中で河口付近や沿岸の砂州上、丘陵末端の微高地などに大規模な貝塚が形成され始めたという。現在の児島湾岸周辺には、西日本で最も多く約30カ所の貝塚が集中して営まれたとのことだ。



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