武寧王陵(ムリョンワンヌン) 華麗豪華な装飾品を出土した王陵


 見学のしおり

宋山里古墳群
宋山里古墳群
武寧王陵の入り口
武寧王陵の入り口
武寧王陵模型館
武寧王陵模型館

州の宋山里古墳群において1971年に発見された王陵。第25代の武寧王(ムリョンワン)(在位501−523)とその王妃を埋葬した墳墓である。

掘を免れていたため、内部の玄室からは、1500年眠っていた王と王妃の棺のほか、金冠、装身具、死後の世界の土地の証書である買地券など108種類、2900点を超える遺物が出土した。

 見 所

宋山里古墳群
 忠清南道公州市の錦城洞に位置する古墳群。海抜130mの宋山を北側の主山とした丘陵の中腹の南斜面に13基の古墳が分布しており、そのうち武寧王陵(7号墳)を含めて9基が調査されている。武寧王陵の発見により、王陵であることがはっきりした。

武寧王陵
 宋山里5〜6号墳の排水工事中に、1971年7月に偶然発掘されたセン築墳。墓の入り口がセンと漆喰で隙間なく密封されていたため、盗掘を免れており処女墳のまま調査された。誌石によって、1442年前に埋葬された武寧王と王妃の墓であることが判明した。

武寧王陵模型館
 武寧王陵に隣接する模型展示館。精巧なレプブリカで武寧王陵の構造や発見時の副葬品の様子を展示している。


■所在地:忠清南道公州市

  武寧王とその周辺
宋山里古墳群の第7号古墳(武寧王陵)内部
宋山里古墳群の第7号古墳(武寧王陵)内部

清南道の公州は錦江の中流域に位置し、百済時代には熊津と呼ばれた。475年、スパイ作戦で百済の国力消耗に成功した高句麗の長寿王は兵3万を率いて王都漢城を攻めた。城は陥落し蓋鹵王は捕らえられて殺害された。そのとき新羅に救援を求めに行っていた子の文周は、新羅の援兵1万を得て帰ってきたが、すでに城は破れ王は殺されいた。

の年の10月、文周王は即位すると都を漢江流域から錦江流域の熊津に移して国の建て直しをはかった。新しい都である熊津は、北に車嶺山脈がそびえ、領内には錦江が流れ、東南には鶏竜の雄嶽が盤踞していて、旧都の漢城と地理的条件が似ていた。聖王(在位523-554)が新たな国家発展の要を作り上げようとして、538年により広い泗ヒ(今の扶余)へ都を移すまで、熊津は64年の間百済の都として栄えた。

寧王は聖王の父である。彼の誕生について、『日本書紀』は次のような伝承を伝えている。雄略天皇5年、百済の蓋鹵王は弟の昆支(こんき)王をヤマトに遣わし天皇に仕えさせることにした。出国に先立って、昆支王は妃の下賜を願いで、蓋鹵王は妊娠中の妃を与えてこう言った。「この妃は臨月を迎えている。途中で出産したら、母子とも同じ船に乗せてどこからでも速やかに送り返すように」と。女性は筑紫の加羅島で出産した。それでこの子を嶋君(せまきし)という。後の武寧王である。

『日本書紀』はこの記事の出所を『百済新撰』と断っている。『百済新撰』はこの出来事があった年を辛丑(かのとうし)年としている。辛丑年は西暦461にあたる。武寧王の薨去は523年であるから、数えで63歳まで生きたことになる。なお、武寧王の名を斯摩(しま)というが、これは『日本書紀』に記すように加羅島で生まれたことによる命名であるとされている。かなり苦しいこじつけのような気もするが.....

なみに、461年に我が国に来てた昆支王は、ヤマトに永住して蘇我氏の祖となったと説くのは、作家の黒岩重吾氏である。一方、高句麗の長寿王に攻められたとき、蓋鹵王は、子の文周に木羅満致と祖弥桀をつけて新羅に救援を求めるため南へ逃している。このとき、文周とともに南に向かった木羅満致が蘇我満智と同一人物であるとするのは、門脇貞二氏の蘇我渡来人説である。



  武寧王陵発掘の意義

寧王とその王妃を埋葬した古墳は、韓国三国時代の古墳の中で被葬者が特定できる唯一の古墳である。入口付近に銘文を刻んだ誌石2枚が置かれていたためだ。この誌石によって被葬者はもちろん、いつどのような過程でこの墓が作られたが明らかになった。それだけではない。出土遺物の年代を知ることができ、武寧王の時代の墓制や信仰、国際関係などについても多くの端緒を発見することができた。その結果、三国時代の歴史研究に新しい展望が開けた。その意義はきわめて大きい。

武寧王の誌石の1面
武寧王の誌石の1面

寧王の誌石の1面には、次のように刻まれていた。"寧東大将軍 百済斯麻王は62歳である癸卯(523年)5月7日に崩御された。乙巳年(525年)8月12日に大墓に埋葬し、次のように記録しておく。" 一方、王妃の誌石の1面には、次のように刻まれていた。”丙午年(526年)12月百済国王大妃が天命のままに生きて亡くなられた。西側の土地で喪葬を行ない、己酉年(529年)2月12日に再び大墓に移して正式に葬儀を行い、つぎのように記録しておく。”(国立公州博物館作製「博物館物語」より)

寧王の誌石に現れた”癸卯(523年)5月7日に崩御された”という表示は、『三国史記』の記録と年月が一致している。『三国史記』の百済本紀には「武寧王23年夏5月、王が薨じた。贈り名を武寧といった」と記載されている。これによって5〜6世紀に関する『三国史記』の記録の信憑性が裏付けられたとされている。ちなみに、512年4月に、武寧王は梁に朝貢の使者を派遣し、9年後の521年11月にも再び朝貢の使者を派遣している。度重なる朝貢に対して、梁の武帝はその年の12月、「使持節都督百済諸軍事寧東大将軍」に武寧王を任じている。

寧王が我が国とも通交していたことを証明する資料が、王陵の中にあった。王と王妃の木棺の材質を調査したところ、世界的に1科1属1種だけの高野槇(コウヤマキ)であることが判明した。高野槇は非常に堅くて湿気に強く、若干の香りもある最高級の木材である。この木は降水量が600〜1200mm程度と豊富な日本の南部高地地帯のみに自生する。近畿の古墳で確認されている木棺は、ほとんどが高野槇である。武寧王陵の2つの木棺に日本特産の木材が使われている点を見ても、我が国と百済との交流が当時しきりに行われていた様子を伺い知ることができる。