天馬塚(チォンマチォン) 古墳の構造を隅々まで見られる古墳(155号古墳)


 見学のしおり
天馬塚
内部が展示館になっている天馬塚

馬塚は、慶州市の市街地の端にある敷地面積12万5400坪の大陵苑(デルンウォン)の中に位置し、内部が公開されている円墳。

墳の高さは27.7m、下部の直径は47m。「積石木槨墳」と呼ばれる構造を持っていて、5−6世紀の築造と考えられている

馬塚の存在を世界に知らしめたのは、金冠塚、金鈴塚、西棒塚などから出土した金冠よりも大きく豪華な金冠を出土したことによる。

大陵苑:慶州市街地の端にある大古墳群。慶州にある古墳群の中で一番大きく、20余基の古墳が密集している。著名なものに、金冠塚、瑞凰塚、金鈴塚、天馬塚、98号双古墳などがある。

 見 所

白樺の皮で作られた障泥
白樺の皮で作られた障泥
金製外冠
金製外冠
金製蝶形冠飾
金製蝶形冠飾

天馬が描かれた白樺の障泥(あおり)  

 障泥(あおり)は、馬の両腹に泥よけとして下げるもので、馬に乗った人の脚部を泥はねから守るために用いられる。天馬塚で出土した障泥は、薄い白樺の皮を何枚も重ね斜め格子状に縫い合わせて、その上に白馬が飛んでいる姿が描かれている。天馬塚の名称の由来となった絵画である。

出字形と鹿角形立飾りがついた金製外冠
 新羅の冠飾りを代表する外冠。出字形立飾りと鹿角形立飾り付いている。出字形は樹枝を、鹿角形は鹿の角を図案化したもので、こうした形の冠はシベリアシャーマンの冠に似ている。このため、新羅の支配者の性格にシャーマン的側面があったとする研究者もいるという。

金製蝶形冠飾
 薄い金板を切り取って作った冠装飾で、白樺の皮で作った冠帽の前部分に挿したものと推定される。

積石木槨墳の構造模型
 「積石木槨墳」の構造を示した実物大の模型が展示室の正面にある。王陵級の新羅の古墳は、出入口のない木槨構造で周囲を膨大な量の石を積み上げてある。このため盗掘者はこれらの石を取除かなければ発掘できない。新羅の古墳が盗掘の被害にあっていないとされる理由は、こうした古墳構造技術にある。実物大の石積みを眼前にすると、いかに盗掘が困難かが実感できる。
 積石木槨墳は、5世紀初めごろに登場し、三国時代の新羅の代表的な墓制であったが、新羅が統一したころ、本来の墓制であった積石木槨墳は消え、あたらしく受容された横穴式石室墳が中心となったという。


■所在地:慶州市古墳公園(大陵苑・テヌンウォン)内

  古墳公園の中のハイライト・天馬塚

馬塚は、「大陵苑」と呼ばれる古墳公園の中にある。大陵苑は、一般には皇南洞古墳群として知られる慶州の名所である。天馬塚の発掘を機会に民家を移転させて、市街地の約12万5400坪の広大な敷地を公園化したもので、天馬塚を含めて20余基の古墳が整備・管理されている。これらの古墳は平地に位置し、黄金宝冠など貴重な遺物を出土した金冠塚、瑞凰塚、金鈴塚、天馬塚、98号双古墳などはここにある。

天馬
天馬塚の名の由来となった天馬

馬塚は1973年に偶然に発見された。近くにある皇南大塚の発掘に先立って、当時は第155号古墳と呼ばれていた墳墓にシャベルを入れてみることにした。第155号古墳は「積石木郭墳」であり、竪穴式石室の人頭大の河原石で完全に覆った構造をしていて、一般に盗掘を受けていない。発掘してみるとその内部からは輝かしき新羅文化の宝物が続々と掘り出された。

の中に、天馬を描いた薄い白樺の皮の障泥(あおり)があった。この天馬の絵は、韓国最古の絵画とされており、以来、第155号古墳は天馬塚と呼ばれるようになった。現在の天馬塚は発掘された遺物のレプブリカや発掘時の状況を示す模型が展示してある。出土された副葬品は約1万点にも達する。これらの遺物は国立慶州博物館に収蔵されている。



  新羅に突然出現した黄金文化の背景

馬塚や皇南大塚、金冠塚、金鈴塚、瑞凰塚など新羅の5世紀代の墓から金銀製の装身具が多数出土している。出土品には目を見張るほど絢爛豪華なものが多い。被葬者は、頭には冠飾りセットを、耳には太環耳飾りを、首から胸にかけては頸胸飾りを、腰には”か帯”を、腿には”か帯”につながる垂下飾を、そして足には飾履(しょくり)を身につけて埋葬されたと思われる。

うした装飾品は、死出の旅路を飾る死に装束として用いられただけだろうか。そうではあるまい。生前から被葬者は頭から足まで全身を黄金の装身具で固めていたものと見なすべきだろう。当時の支配者層は権威の象徴として金銀の装飾品で身を飾っていたに違いない。

ころで、新羅の黄金文化について2つの疑問がある。一つは、なぜ特定の時期から金銀の装飾品が急に愛好されるようになったのか、ということである。朝鮮半島の南部に馬韓、弁韓、辰韓が栄えた三韓時代(紀元前後から3世紀後半頃)の遺跡からは、金銀製品が出土したことはないという。3世紀頃の朝鮮半島の国々を記した『三国志』「魏書東夷伝」にも、”金銀と錦繍を珍宝としない”と明記してある。

天馬
天馬塚から出土した金製冠帽

世紀より前の新羅の墓から、金銀製品は出土していない。5世紀になって初めて少量が出土し始め、5世紀の半ばからその量が増加し、5世紀末から6世紀初めごろにその絶頂に達している。こうした出土状況から、5世紀の社会は支配層と一般大衆との間に明確な支配・被支配の関係が成立したと見る学者がいる。

まり、下部構造の上に君臨する支配者達は大衆との分離を象徴するために、身体に威厳を示すアクセサリを必要とした。その必要性に応じて求められて黄金文化が定着したというわけだ。はたしてどうであろうか。支配・被支配の関係ははるか以前から成立していて、支配者層は鉄製の刀や武具などで十分威厳を示せたはずである。鉄の持つ冷たさから金銀の持つ美しさ、華やかさへ支配者層の嗜好が変わったと、単純に考えたほうが理解しやすい。

二の疑問は、その原料をどのように入手したかという点である。慶州周辺に砂金の産地があることから、新羅の金は砂金だとされたことがある。だが、砂金で作られた製品は光沢が鮮明ではなく、色もよくない。新羅の墳墓から出土した装飾品は、金色絢爛たる製品であり、その原料は採鉱による金以外は考えられないという。ところが、現在の慶州やその周辺には金鉱は存在しない。往時に優れた金鉱山があったという話も聞かない。

うであるならば、外部から入手したと考えざるをえない。この点に関して、金銀製品が5世紀という限定された時期以後に突然出現することに注目して、高句麗から金銀の材料を入手したとの仮説が出されている。確かに、広開土王の時代から活発化する高句麗の南征によって、新羅と高句麗との間で活発な交流があったことは事実であろう。