3月28日(月)


 探訪ルート

海印寺 → 海印寺 → (高霊)池山洞古墳群  → (昌寧)校洞古墳群 → (昌寧)牧場山城 →桂城洞古墳群 → 昌原 → 昌原・ホテルインターナショナル(泊)


回の旅行では、海印寺(ヘインサ)参拝はオプションになっていた。そのため、昨晩は寺に近い海印寺観光ホテル泊まりになった。雨は夕べのうちにあがっていた。朝方は寒いほど山の空気は澄んでいる。朝食前に希望者はタクシーを利用して参拝するというので、皆に付き合った。

日は、昨日訪れた大伽耶王陵博物館の前までバスで戻って、そこから池山洞(チサンドン)古墳群と主山城を見学する。その後、洛東江の東に位置する昌寧(チャンニョン)郡に向かう。昌寧は伽耶時代には非火(ピファ)とか比自火(ピチャファ)、比斯伐(ピサボル)などさまざまな名で呼ばれた国があったとされる地域である。


海印寺(ヘインサ) 通度寺、松広寺とともに韓国三大名刹の一つとされる華厳宗の根本道場

■所在地:慶尚南道 陝川郡 伽耶山
■マップ:関連地図9

海印寺の山門
伽耶山海印寺の山門・一柱門

食前に海印寺の参拝を済ませるというので、ホテルからタクシーを借り切って往復することになった。朝7時、山の空気はまだ凍えるように冷たい。大きな岩がゴロゴロ転がっている渓谷沿いの道は、何時来ても気持ちが洗われる。俗世との結縁を絶ちきって清浄な仏教世界に続いているようで、なぜ仏寺が好んで山間に営まれるのか分かるような気がする。

提灯
参道に飾り付けられた提灯
僧侶たち
朝の勤行が終わって僧坊に戻る修行僧たち
蔵経閣の内部
蔵経閣の内部
印寺は、華厳宗の精神的な土台を固め、宣揚を図る目的で、高僧・義湘によって西暦802年、現在の地に建立されたと伝えられている。華厳宗の根本道場であり、現在も200人余りの修行僧がここで修行している。

国には三大名刹とされる仏寺がある。僧の寺である松広寺(ソングアンサ)、仏の寺である通度寺(トンドサ)、そして宝の寺であるこの海印寺(ヘインサ)である。宝の寺と呼ばれるのは、華厳宗の道場でありながら、朝鮮民族の文化遺産・高麗八万大蔵経を奉安しているためだ。

までに2回、2001年と2002年にこの寺に参拝している。海印寺の山門の前に立つと、以前にはなかった変わったものが眼に入った。参道の両脇につり下げられた、蓮の花の形の提灯の列である。赤と黄色の提灯が交互に飾り付けられている。寺で何か祭事があるのか、それとも4月8日の花祭りのためだろうか。

早い参拝だったので、普段は見慣れない珍しい光景に出会った。修行僧たちが朝の勤行を終えて、一列に隊列を組みながら僧坊に戻っていく。そう言えば、堂宇の軒先に吊られた風鐸の乾いた音色に混じって、荘厳な読経の声が今までどこからか風に乗って聞こえてきていた。僧侶たちの一日の日課は礼仏で始まり礼仏で終わるという。

印寺の蔵経閣(蔵経版殿)に納められている高麗大蔵経は、高麗王・高宗の命令で15年をかけて1251年に完成した世界最高の木版である。格子の窓から中をのぞき込むと、国境を越えて襲いかかる元帝国の毒牙を、仏法の力で防ごうとした悲鳴にも似た祈りが聞こえてくる思いがする。

教の経典は経・律・論から成り立っているが、これらを総称して大蔵経という。ここに納められている木版の数は81,340枚。これを本にすると6,791冊にもなるという。学術上の価値が高く、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。



池山洞(チサンドン)古墳群 主山の尾根に造営された高霊伽耶の支配者層の墓の数々

■所在地:慶尚北道 高霊郡 高霊邑 
■マップ:関連地図9

円墳の群れ
丘陵の尾根に累々と築かれた円墳の群れ


梅岸里伽耶碑
梅岸里伽耶碑
印寺から池山洞古墳群へ向かう途中で、バスが止まった。外を見ると、道路脇の畑の中に石碑が一つ建っている。1989年5月に、東国大学校新羅文化研究所の所長だった金相鉉(キムサンヒョン)氏がその故郷で見つけた伽耶時代の碑だそうだ。高さ265cm、幅56cm、厚さ35cmの細長い碑である。

には文字が刻まれていた。ほとんど判読できないが、金氏は「辛亥年□月五日■■村四十干支」と読んだ。田中教授によれば"干支"は”えとの干支(かんし)”ではなくて、”首長”を意味する”旱岐”(かんき)の略字だそうだ。おそらく40の小国の王たちが集まって何かを行なった記念に建立された碑ではないかと推測されている。

の年が「辛亥(しんがい)」年であれば、西暦531年の可能性が最も高いそうだ。土地の名前を取って、この碑は梅岸里伽耶碑と呼ばれている。


伽耶村の望む
古墳群のある丘陵の尾根から伽耶邑の望む
前10時すぎに、専用バスは88オリンピック高速道路を高霊ICで降りた。昨日と同じように北へ向かい、5分後には大加耶王陵展示館の前に到着する。バスを降りると、展示館の脇から裏の丘陵の尾根に続く階段を上っていった。松林を縫ってかなり急な階段が空の高みへと続く。雨に見舞われた昨日とはうって変わって、本日の空には雲一つ浮かんでいない。

在は古墳公園としてすっかり整備されているが、丘陵の尾根に並ぶ封土墳は、伽耶時代に大伽耶を支配した王たちの奥津城である。ところで、大伽耶とは固有の国名ではない。伽耶諸国の中の有力な国に対する呼称であり、正確には高霊伽耶という。没落以前の金官伽耶も大伽耶と呼ばれたことがあったという。高霊伽耶は金官伽耶が没落した後、大伽耶連盟を結成し、561年に新羅の軍門に下るまで、その盟主として他の国々を主導した。

池山洞古墳群
池山洞古墳群遠望
韓時代には高霊に半路という国があったと伝えられている。高霊地域は農耕に適した土地柄で、半路国は豊かな農業生産力を基盤にゆったりとした成長を続けたという。その国が伽耶社会で頭角を現す切っ掛けとなったのは、4世紀頃成立した治炉県を服属させたことによる。治炉県とは、現在の陜川郡治炉面から伽耶面の一帯で、鉄の生産が盛んだった。つまり半路国は治炉地域の鉄で鉄製武器を作りながら強力な軍事力を持つようなり、三国時代には伽耶諸国の中で一目おかれる高霊伽耶に成長したという。

の高霊伽耶が大伽耶へ発展した契機は、高句麗の広開土王が作った。広開土王は新羅の要請を受けて400年に新羅への救援出兵を決意し、慶州、洛東江流域まで進出した。高句麗軍郡のこうした朝鮮半島南部への進出は、金官伽耶の没落の切っ掛けとなったとされている。

金銅冠
池山洞32号墳から出土した金銅冠
のため金官伽耶の残存勢力は、一部は倭国に、また一部は高霊へ逃れて、彼らが持っていた交易と鉄鋼開発のノウハウを伝えたとされる。それを切っ掛けに金官伽耶は飛躍的に成長していく。5世紀の高霊伽耶の成長をよく反映しているのが、池山洞古墳群である。

山洞32号墳から出土した金銅冠は、大伽耶を代表する遺物としてよく取り上げられる。板模様の装飾1枚を額の正面に配置させた光背形のこの冠は、新羅の樹枝形あるいは鳥翼形の飾りではなくて、草の葉または草花の飾りを立てている。こうした金銅冠を独自に作り、自分の墓に埋葬させたことで、すでに高麗伽耶が大伽耶と呼ばれるにふさわしい勢力をすでに築いていたと推察されている。

た、大伽耶王陵展示館で復元展示されている44号墳は、外護列石を巡らした径27x25mの楕円形墳であるが、主室の竪穴石室に平行、直交して各1基の福室が築かれ、さらに周囲には32基の小石室が配されていた。主室内には装身具・武器・武具・馬具などが副葬品として納められ、副室には土器と人骨が、また小石室には25体の殉死者が埋められていた。多くの殉葬者を伴うこの王墓は、王の権力と富のすごさの象徴と言えよう。


外城の城壁
崩れかけた外城の城壁
大墳墓の裾を縫うように続いている遊歩道をそのまま進めば、自然と主山城に導かれる。主山城を構成しているのは主山(海抜311m)の山頂部を取り巻く内城とそこから伸びる外城である。6世紀半ばに百済が加耶に進出した際に、加耶王宮防備のために築造されたと推定されている。

歩道が途中から山麓の高霊邑に向かって折れ曲がるあたりに、崩れかけた外城の城壁の一部を見ることができる。


王宮推定地
高霊伽耶の王宮推定地
歩道を大加耶の王都であった高霊邑まで降りてくると、小さな広場があり、その一郭がいかにも意味ありげに区切られている。大伽耶の王宮跡と推測されている場所である。しかし、推測は伝承に基づくもので、考古学的物証は今のところ見つかっていないとのことだ。

伽耶連盟の盟主として、高霊伽耶の王たちは1世紀以上にわたって伽耶諸国の上に君臨してきた。その中の一人が5世紀の後半に東アジア世界に登場する。中国の正史『南斉書』の加羅国伝には、建元元年(479)、国王の荷知(かち)が使者を遣わして朝貢してきた、とある。南斉はそれに報いて「輔国将軍・本国王」の称号を授けた。倭王の武(雄略天皇)が宋に遣使して上表文を提出した翌年のことである。

中俊明教授は、その著『大伽耶連盟の興亡と「任那」』の中で、荷知は宇勒(うろく)に伽耶琴の作曲を命じた大伽耶の嘉悉王(かしつおう)と同一人物であると推論しておられる。

知が中国に遣使してから約80年後の562年、大伽耶は他の伽耶諸国とともに新羅に編入され、地上から滅び去った。



校洞(キョドン)古墳群 伽耶時代、比自火国を支配した王族たちが眠る墳丘の群れ

■所在地:慶尚南道 昌寧郡 昌寧邑
■マップ:関連地図9

校洞古墳群
昌寧邑のすぐ北に校洞古墳群の中心部

寧(チャンニョン)郡は、洛東江の東に位置し、昌寧邑は周囲を山に囲まれた盆地の中にある。ここに王都を構えた国は、伽耶の非火(ピファ)とか比自火(ピチャファ)など、文献によっては様々な名前で呼ばれた。大伽耶があった高霊から昌寧へ向かうのに、専用バスは珍しく一般国道を走った。洛東江を渡り、洛東江に沿って東岸を南下する国道は、ところによっては河岸を通る。

洛東江
車窓から眺めた洛東江
鮮半島南部の川は、源流と河口との間に余り高低差がない。そのため、どの川も実に広くゆったりとした流れである。伽耶時代、洛東江は現代の国道だった。それぞれの支流の流域に国家が成立していただろうが、国と国との交易は洛東江を上り下りする川船を利用したに相違ない。

窓の向こうで午後の太陽を受けてまぶしい川面を眼で追っていると、思わず睡魔に襲われる。ウトウトした意識の中で、倭人の船がこの大河を利用して大伽耶まで赴く姿を想像するのは楽しかった。


寧邑に到着したバスは、昌寧博物館の前で止まった。残念なことに、本日は月曜日なので博物館は休館である。だが、博物館の前後に、今まで見飽きるほど見てきた土饅頭が連なっている。校洞古墳群である。この古墳群は総数170基以上からなり、大きく3つの群に分けられるという。

B群
校洞古墳群のB群
群は、15基からなり、尾根の頂にある大型円墳の7号墳を核として尾根の稜線上に並んでいる。B群はA群の東南にあって、火旺山(ファワンサン)の西麓丘陵の上に位置し、約80基からなる。C群はB群から南約2.5kmの丘陵上に約20基ほど分布しているが、いずれもまだ未発掘とのことだ。

世紀後半の築造とされる7号墳は、直径約40mの円墳で、校洞古墳群の中では一番大きい。この古墳を発掘したとき、700余点の副葬品が出土した。その中に、金銅冠が2個含まれている。そのため、比自火の王室か有力貴族を埋葬した墓と推測されているが、出土した冠はいずれも、新羅王権の身分的象徴を表す山字冠だった。つまり、5世紀後半の段階では、比自火国はまだ独立した伽耶諸国の一つだったが、すでに新羅へ政治的に従属していたことを伺わせる。


牧場山城の石垣
牧場山城の石垣から見下ろした古墳群
牧場山城碑
下山道の途中にあった牧場山城碑
寧邑の東にある火旺山(海抜739m)の山頂付近には鉢巻式の石城が築かれていて、火旺山城と呼ばれている。周囲約1.8kmを石垣で囲った伽耶時代の山城である。それとは別に、火旺山の北の峯から西側にのびる支脈にも牧場山城(モンマサンソン)という鉢巻式の石城が築かれている。

墳を見学した後、山を登って牧場山城の石垣を見に行くという。池山洞古墳群の時も遊歩道を伝って主山城の石垣を見に行った。同じような遊歩道が古墳群から山城にのびているものとばかり思った。ところが事情はまったく違った。遊歩道など何処にも見あたらない。茨などの灌木が生い茂る急斜面を、今にも崩れ落ちそうな足場を気にしながら、30分以上もかけて登攀しなければならなかった。

っとの思いで山城の石垣まで到達すると、かなり長い石垣が積み直されて復元されていた。石垣の上に腰を下ろすと、眼下に校洞古墳群の墳墓の群れが小さく見えた。同じルートを通って下山するのは大変だと思ったが、この石垣にアクセスしてくる道は別にあった。比較的平坦で整備された山道を下るのは歩き易かった。少しくらい遠回りでもどうしてこの道を上ってこなかったのかいぶかしかった。

洞古墳群のC群の近くに、有名な「昌寧碑」がある。新羅の真興王巡狩碑の一つで、1914年に発見された。561年の建碑であることが、碑文から分かるという。ところが、下山の道を途中で間違えたため、C古墳群の方へ降りることができず、せっかく近くに来ながら碑をみることができなかった。残念である。



桂城里(ケーソンニ)古墳群 昌寧邑から10kmほど南の丘陵地帯に立地する古墳群

■所在地:慶尚南道 昌寧郡 桂城面 桂城里
■マップ:関連地図9

あああ
桂城里古墳群の中の墳墓

晩の宿泊地の昌原市へ向かう途中、昌寧郡の桂城面にある桂城里(ケーソンニ)古墳群に立ち寄った。この古墳群は、昌寧邑から10kmほど南の丘陵地帯に位置している。ここもA・B・Cの3地区に区分されている。

畑の中の円墳
畑の中の円墳
地区は主墳の1号墳とそれを取り巻く6基の古墳から構成され、いずれもすでに発掘調査されている。B地区では、丘陵上から斜面にかけて20基以上の古墳が築かれている。いずれも列石を巡らした円形の竪穴式石室墳だったという。B地区の南に位置するC地区では、15基が発掘された。これらの古墳はいずれも5世紀後半から6世紀前半の築造だが、群から離れた9号墳だけは7世紀前半に造営された。

は、この古墳群を訪れたときはすでに夕暮れが迫っていた。多くの墳墓が発掘調査されたはずなのに、封土が整備されているのは3基しかなかった。他の古墳は何処にあるのかと、付近の畑や雑木林を探し回った。松林の中にそれらしい場所がいくつか見つけただけで、あたりが暗くなってきたので探索は諦めた。

れた体をバスのシートに沈めていると、専用バスはいつしか夜のネオンがまぶしい昌原の市街地を走っていた。久しぶりに田舎から都会へ戻ってきたというのが、偽らざる感想だった。




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