妙法山阿弥陀寺(みょうほうざんあみだでら) 「亡者の熊野詣」で知られる熊野三社大権現

阿弥陀寺の正面
阿弥陀寺の正面

  メ モ

【所在地】 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町南平野
【本尊】  阿弥陀如来
【アクセス】JR紀勢本線 紀伊勝浦駅より車で25分。那智の滝からその先にある 「那智山スカイライン」を通って約10分
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妙法山の山頂近くに空海が創建したとの伝承をもつ古刹

休憩所の阿弥陀仏
見晴台の阿弥陀仏
野山真言宗の妙法山阿弥陀寺は、那智の滝の先にある有料の「那智山スカイライン」を10分ほど車を走らせた所に位置している。那智三峯のひとつ妙法山(標高749m)の山頂近くに建つ寺で、那智山の中腹に築かれた那智山スカイラインからの参詣が一般的なようだ。

智大社から阿弥陀寺まで足を延ばす観光客はそれほど多くないようだ。スカイラインの途中に見晴台を兼ねた休憩所があり、そこから那智湾を見下ろす展望はすばらしい。しかし、車を止めて展望を楽しんでいる観光客や参拝客は一人もいなかった。見晴台の中央に巨大な阿弥陀仏の像が聳えている。あるいは、阿弥陀寺へのアクセスを示すモニュメントなのか?

大鳥居門
正面の大鳥居門
「一つ鐘」
幽魂が撞くという「一つ鐘」
本堂
復元阿弥陀如来像を祀る本堂
智山スカイラインの終点で車を降りると、駐車場の脇から妙法山の山門に続く参道がある。この寺に着いたのは正午ごろ、真夏の暑い日差しが照りつけていた。しかし、参道を覆いかぶさるよう続く杉並木が木陰を作ってくれている。梢からは珍しくカナカナ蝉の鳴き声が降ってきた。

弥陀寺の山門は、南面する大鳥居門である。寺の山門が鳥居になっているのは珍しい。新しい寺を山に造るとき、その山に元から鎮座している神に敬意を払い、加護を願うために昔は鳥居を建てることがあったそうだ。

の寺がいつ開創したのかよく分からない。寺の縁起は次のような妙法山のいわれを伝えている。今から1300年前の大宝3年(703)ことである。唐の天台山から蓮寂上人という僧が渡来しこの山で修行した。そのとき、彼は妙法蓮華経を写経して山頂に埋め、また立っている木を彫って釈迦像を安置した。その時から、経の名前をとってこの山は妙法山と呼ばれるようになったという。

の後、空海が高野山を開く前の年の弘仁6年(815)に妙法山で修行した。その折りに、極楽浄土への入り口として山腹にお堂を建て、阿弥陀如来を本尊として祀った。そのため、当寺は阿弥陀寺と号したという。

の阿弥陀寺は、女人禁制の高野山の代わりに女性が多く参詣したので、女人高野とも呼ばれた。また、ここは死者の霊魂が詣でる寺でもあった。人が死ぬと、その魂は、枕飯3合を炊く間に、枕元に供えられたシキミ(仏事に使われる常緑の小高木)を1本持ってこの寺を詣でるという。そして、釣鐘を一つ撞(つ)き、持ってきたシキミを妙法山山頂に建つ奥ノ院・浄土堂に供え、それから大雲取越えの山路を歩いていくとされている。これを「亡者の熊野詣」という。その亡者が妙法山に詣でて必ず撞くという「一つ鐘」が大鳥居門の左手にある。

鳥居門をくぐると、正面に阿弥陀如来を安置した本堂がある。この寺の本堂には、鎌倉初期の作で、有名な運慶・快慶派の阿弥陀如来像が安置されていた。しかし、昭和56年(1981)、原因不明の火事で本堂が本尊ともども全焼してしまった。現在の本堂は、昭和59年(1984)に再建されたものである。また本尊は、旧仏像の写真をもとに京都の大仏師・松久宗淋に復元してもらったとのことだ。



奥の院への参道と弘法大師堂

火生三昧跡
火生三昧跡
奥の院浄土堂への参道
奥の院浄土堂への参道
弘法大師堂
弘法大師堂
「一つ鐘」の横を左に続く小道に入って行くと、林の中に火生三昧(かしょうざんまい)跡がある。平安時代に応照上人が火生三昧の行を実践したところと伝えられている。火生三昧とは法華経の中の一節に示された行で、薬王はすべての衆生の罪とがを一身にかぶり火をもってみずからの体を焼き尽くしたという。その薬王の姿に打たれた応照上人は、この場所で食物を断ち、松の葉草の根を食べて苦行を重ね、自らも紙の衣を着て身を火に包んだ。体全体が火に包まれても、穏やかな読経の声が最後まで聞こえ、辺りにはまばゆいほどの光に満ち、身を焼く煙は三日三晩熊野灘を漂い続けたと言われている。

道を挟んで火生三昧跡の反対側には、案内板と釈迦像が立っていて、そこから奥の院浄土堂の参道が続いている。浄土堂とは、唐僧の蓮寂上人が、妙法蓮華経を書き写して土中に埋め、その上に立った木をそのまま彫って釈迦像を安置した場所である。約800mの山道を登れば、浄土堂にたどり着くというが、我々には時間の余裕がなかったので、800mの山歩きは辞退した。

迦像の前から左へ下る道を進むと、納骨髪堂がある。俗に「蟻の熊野詣」と言われる平安時代末から鎌倉時代にかけて盛んに行われた熊野参詣の人たちが、阿弥陀の極楽浄土への往生を願って毛髪をここに納めたという。その後、室町時代から現在に至るまで、亡き人の菩提を弔うために人々が遺髪や遺骨を納めて行く。

骨髪堂の先に、室町時代の永正6年に建てられた弘法大師堂があり、空海の42歳の姿を刻んだ等身大の坐像が安置してある。厄除け大師と呼ばれているこの像は、毎年4月20火と6月15日の2日開帳されるだけで、普段は閉ざされているとのことだ。



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