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| 補陀洛山寺の本堂 |
メ モ
【所在地】 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮 |
この寺は「補陀落渡海」の出発点だった補陀洛山寺を有名にしているのは、ここが補陀洛渡海の出発地とされたからである。那智地方には、熊野灘の彼方に観音菩薩が住む浄土・補陀洛(ふだらく)があるという信仰があった。そのため、JR那智駅に近い砂浜から何人もの人たちがその浄土へ向かって旅だっていった。これを「補陀洛渡海」という。
その船出の仕方が面白い。小さな船に一ヶ月分の食料と共に閉じこめられ、外に出られないように扉に釘を打たれと、とも船で沖に向かって曳航された。そして、沖の綱切島に近づくと、供船でお経を唱えていた僧が曳き綱を切る。こうして船は潮に流され補陀洛を目指して死出の旅に向かう。 渡海船を復元した模型が寺の境内の建物の中に展示してある。船の上に屋形を取り付けた小さな船で、屋形の前後左右を4つの鳥居が囲んでいる。修験道の葬送作法では、死者は「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の四門をくぐって浄土に往生すると考えられている。屋形を囲む4つの鳥居は、おそらく渡海船がそのまま葬送の船であることを表しているのであろう。 記録では、最も古い補陀洛渡海は平安時代の貞観10年(868)に行われたとされている。それ以後、18世紀の初め頃までこうした渡海が続いた。特に補陀洛山寺の住職は61歳になると渡海を行うことが、何時の頃からか習慣化していた。その年を過ぎても渡海しない場合は、信者に後ろ指を指されたという。江戸時代には、生者の渡海は行われなくなった。代わって、補陀洛山寺の住職が死亡した場合、あたかも生きているかのように扱って、かつての補陀落渡海の方法で水葬を行うようになった。 補陀洛渡海で往生した僧たちは渡海上人と呼ばれた。補陀洛山寺の裏手に渡海上人たちの墓がある。那智の浜からは、21人が渡海を遂げたと言われる。補陀落を目指して船出した人々の名を刻んだ碑が、寺の境内に置かれている。 |