熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ) 熊野川河口に鎮座する海の民の守り神

熊野速玉大社
熊野速玉大社

  メ モ

【所在地】 和歌山県新宮市新宮1
【主神】  速玉大神(くまのはやたまのおおかみ。別名・イザナギノミコト)と熊野夫須美神(別名・イザナミノミコト)
【主な祭事】10月16日に行われる御船祭(みふねまつり)
【アクセス】JR紀勢本線新宮駅下車、徒歩15分
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「新宮」の名で知られる熊野速玉大社

野三山の一つに数えられる熊野速玉大社は、熊野川河口の森の中に鎮座している。この神社は「新宮」という別名で呼ばれることが多い。『熊野速玉大社略記』には、そのいきさつを次のように説明している。
熊野川の流れ
熊野川の流れ
速玉大社の正面
熊野速玉大社の正面
ナギの大樹
天然記念物梛(ナギ)の大樹
熊野神宝館
南九州の正倉院・「熊野神宝館」

の昔、熊野信仰の原点である神倉山(かみくらやま)に熊野三所大神が天下られた。この山の山頂にはゴトビキ岩という霊石があり、人々は長らくこの岩を神体として斎き祀ってきた。後に、現在の社地に瑞垣や社殿を造営して、神々を遷座した。それ以来、神倉山の元宮に対し、ここを新宮と呼ぶようになったという。長寛元年(1163)頃に編纂され、熊野に関する最も古いとされる『熊野権現垂迹縁起』は、遷座を行った時を景行天皇58年としている。

野速玉神社は、熊野本宮大社から熊野川を船で8里ほど下った河口にある。熊野御幸や蟻の熊野詣では、本宮大社に参詣した後は川船で熊野川を下った。両岸にそびえる山々の緑や紅葉を愛でながら、ゆっくりと下っていく船旅はそれなりに風情があったであろう。だが、我々は熊野川の右岸に築かれた国道168号線を一気に走り抜けた。玉置神社の参拝に予想外の時間を取られた。そのため先を急いだ。それでも速玉神社に到着したときは、すでに午後の5時を過ぎていた。

面の大鳥居をくぐると、左手に巨大な梛(ナギ)の木が聳えている。当神社の神木とされ、平重盛お手植えのナギとの伝承がある。幹周り6m、高さ20mで、我が国最大の梛(ナギ)の木として天然記念物に指定されている。ナギは凪に通じることから、家内安全のお守りとされ、熊野詣の証にナギの小枝を手折って持ち帰ったことが古書にも見える。ちなみに、藤原定家は次の和歌を詠んでいる。
 千早振る 熊野の宮の なぎの葉を 実らぬ千代の ためしにぞ折る

の木の反対側には、南紀州の正倉院と呼ばれている「熊野神宝館」がある。大社は何度も火災に遭っている。現在の社殿は明治16年9月に炎上し、その後再建されたものである。幸いなことに、そうした災害にもかかわらず多数の文化財が奇跡的に残って現代に受け継がれている。南九州の正倉院と言われるゆえんである。

の中には、足利義満が寄進した古神宝類がある。檜(ひのき)の板に彩色、金・銀箔(ぱく)を施した熊野檜扇をはじめ、装束、手箱など絢爛(けんらん)豪華な熊野の神々の調度品である。当時の最高の工芸技術で作られたこれらの品々は、総計で1205点におよび、すべて国宝に指定されている。その他に、最古の神像彫刻で、平安初期の傑作といわれる速玉と夫須美の両神像など7体もある。こうした世界に誇る文化遺産の一部が熊野神宝館に展示してあると聞いていた。残念ながら、到着したときはすでに閉館していた。



平安中期までは速玉大社は本宮大社よりランクが上だった

速玉大社の神門
速玉大社の神門
速玉大社の拝殿
速玉大社の拝殿
熊野御幸を行なった上皇たち
熊野御幸を行なった上皇たち
色の鮮やかな神門をくぐって神域に入ると、瑞垣に囲まれた神庭の正面に、十二社を祀る社殿が棟を並べて立っている。向かって左から第一殿、第二殿、摂社の奥御前三神殿、第三殿・第四殿・神倉宮の三社相殿(あいどの)、第五殿から第十二殿までの八社相殿である。現在見るような十二社殿の形態は、熊野十二社大権現として人々の尊崇を集めるようになった後代に整えられた。当初は、結(夫須美、むすび)・早玉(速玉)の2神を祀っていたが、のちに、本宮・新宮・那智が熊野三山として連係を結ぶに及んで、家津美御子を勧請、熊野三所権現として三山共通に3柱の神を祀るようになった。そして、熊野信仰の流布とともに、さらに多くの諸神を祀るようになったとされている。

祭神の結(夫須美)大神は、第一殿の「結宮(むすびのみや)」に、速玉大神は第二殿の「速玉宮(はやたまぐう)」に、それぞれ祀られている。速玉大神が男神で、結大神が女神ということで、夫婦神と考えられ、別名をそれぞれイザナギノミコトとイザナミノミコトとされている。以前は2柱の神は同じ社殿に祀られてていたという。

に近い速玉大社は、もともとは海の民の信仰から発生したとする説がある。「速玉」とは、玉のように光る生命力を象徴している。黒潮にのってこの地にやってきた古代の人々が、船と速さを競うようにして船の舳先で飛び散る飛沫を速玉と呼んだのだという。

在、熊野三山は○○大社と呼んでいるが、これは第二次世界大戦前の国家神道の名残で、官幣大社であったことに由来する。平安時代中期に全国の主要な神社を列記した『延喜式』神名帳では、本宮は熊野坐(くまのにいます)神社、新宮は熊野速玉神社と記載されている。注目すべきは、当時は那智神社は式内社として認知されていない。

良時代から平安時代にかけて、熊野速玉神社は熊野坐神社よりも上に見られていたようだ。第46代孝謙天皇の時代に、「日本第一大霊験所」の勅額が速玉神社に下賜されている。9世紀半ばから諸国の神々に朝廷から位階が授けられるようになったが、神階でも速玉神のほうが、熊野坐神よりも上だった。両社に正一位が授けられて格差がなくなるのは、天慶3年(940)以降のことである。

来の熊野坐神・速玉神という呼称が本宮・新宮という呼称に一般化するのは、11世紀の末ごろとされている。その背景には、熊野三山が一体化し、本宮・新宮・那智の神々を相互に祀り合う「三所権現」の成立があった。



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