熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ) 全国に3000社以上ある熊野神社の総本宮

熊野本宮大社
熊野本宮大社の社殿 (左から第一・二殿、第三殿、第四殿)

  メ モ

【所在地】 和歌山県東牟婁郡本宮1110
【主神】  家都美御子大神(けつみみこのおおかみ。別名・スサノオノミコト)
【アクセス】JR紀勢本線新宮駅下車、バス「本宮大社前」下車すぐ
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熊野三所権現とも熊野十二社権現とも呼ばれてきた本宮大社

熊野川
熊野の母なる川・熊野川
尻神社を出発して約30分、国道311号線は富田川とも別れ、いくつものトンネルを抜けながら一路東へと続いている。熊野古道・中辺路も平行して、山中の杉木立を縫って本宮へと続いているはずだが、車窓からはどの当たりなのか判然としない。紀伊の国は「木の国」であるとは、よく言ったものだ。左を見ても右を見ても、見事に植林された山の斜面が天を貫くように連なっている。

がて国道311号線は熊野川に突き当たる。ここからは、熊野川の河岸に築かれた国道168号線を北に向かって走ることになる。このあたりは熊野川のかなり上流なのに、意外と川幅が広い。熊野の山野を潤しているこの母なる川も、しかし今は渇水期なのか、おびただしい川石がまるで海岸の砂浜のように続いている。車はやがて本宮の市街地に入り、音無川のほとりに鎮座する熊野本宮大社の鳥居の前に到着した。午前11時。橿原から約210kmの走行だった。
八咫烏の幟と大鳥居
八咫烏の幟と大鳥居
神門
本宮の神門
3つの社殿
上4社を祭祀する3つの社殿

らで巨大な八咫烏の幟(のぼり)がはためく大鳥居の前に立って、大きく深呼吸を一つした。往古、多くの人々が隊列を組んで訪れた熊野本宮大社が目の前にあった。この神社が熊野信仰の中心である。熊野詣のすべての参詣路はこの神社を目指している。それから熊野川を下って速玉(はやたま)大社、那智(なち)大社へとめぐるのが、熊野詣での昔からのコースだった。

が、本宮大社の社殿は当初から現在地にあったのではない。元の社殿は熊野川とその支流の音無川と岩田川が合流する中州にあった。明治22年(1889)の大洪水で倒壊したため、明治24年(1891)に、神像とともにこの地に移され、現在に至っているとのことだ。

鳥居の奥に、薄暗い杉並木の石段が続ている。石段を登り切ると、参道の向こうに神門が見える。神門の脇でも八咫烏の幟がはためいてる。神門から神域に一歩神域に足を踏み入れると、明治24年に移建された3つの社殿が正面に軒を並べている。移建からでもすでに100年以上の風雪に耐えてきただけあって、すでに古色を帯びて、それなりに風格がある。

野本宮大社が大斎原(おおゆのはら)と呼ばれている中州に鎮座していた当時は、上、中、下の三社で構成されていた。このため熊野三所権現とも呼ばれていた。三社はそれぞれ四殿からなり、十二殿で祭神が祀られていたことから、熊野十二社権現とも呼ばれた。だが、明治24年に現在の地に移されたのは、上四社だけであり、下四社と中四社は大斎原に石祠を造営して合祀してある。


常の神社では、それぞれの社殿に神々を合祀している場合、主祭神を祀る本殿が一番大きくて立派である。ところが、この本宮大社ではそうはなっていない。主神の家都御子大神(けつみこのおおかみ)は中央の第三殿に祀られているが、建物の規模は向かって右横の天照大神を祀る第四殿と同じだ。左横の速玉大神他三神を合祀する第一殿・第二殿の相殿(あいどの)に比べると遙かに小さい。

第一殿西御前・伊邪那美(いざなみ)大神(夫須美大神)、
・事解之男神(ことさかのおのかみ)
第二殿中御前・速玉(はやたま)大神、
・伊邪那岐(いざなぎ)大神
第三殿
本社
証誠殿・家都御子(けつみこ)大神
(スサノオノミコト)
第四殿若宮・天照(あまてらす)大神

神の家都御子大神を祀る檜皮葺きの本殿「証誠殿(しょうじょうでん)」は、神門の正面に建っている。平安時代に神仏習合が行われ、祭神は家都御子大神、その本地仏は「阿弥陀如来」とされた。後に述べるように、神仏習合を取り入れ、極楽浄土の中心にある仏の阿弥陀如来が本地仏になったことから、熊野の地は浄土を求める人々の聖地となった。



熊野本宮大社の旧社地・大斎原(おおゆのはら)

大鳥居
平成11年(1999)に建てられた大鳥居
合祀する石祠
中4社と下4社を合祀する石祠
っての熊野本宮大社の社地は、現在の大鳥居の前から道路を隔てた先の水田の中にある。付近は熊野川、音無川、岩田川の三つの川が作った中州で、大斎原(おおゆのはら)と呼ばれている。大斎原は現在の社地の8倍の広さだった。

治22年に発生した熊野川の大洪水は、大斎原に鎮座していた上中下各四社のうち、上四社を除くすべての社殿を一瞬のうちに押し流してしまった。そのため、上四社を明治24年に現在の社地に遷し、その他の流された社殿は仮に石祠を造営して合祀してある。

000年5月11日、大斎原の入り口に大きな鳥居が建てられた。高さ約34m、幅約42mという巨大さで、日本第一の大鳥居だという。神と自然と人が共にあるように、大斎原が熊野の大神の神徳の発信基地となることを祈願して建てられた鳥居だそうだ。

野三山の由来を記した『熊野三巻之書』には、大斎原にあったイチイの大木に神が降臨したことが熊野本宮大社の始まりとしている。熊野には、温暖多雨な気候が育てたむきだしの自然がある。この付近には緑したたる樹海の連なり、その中にひときわ高くそびえるイチイの木があった。人々はその木に霊位を感じて、神が天下る依り代としてあるいは神体そのものとして、先祖代々祀ってきた。

野には、原生林の樹海だけではない。天を突くようにそびえる巨岩や、轟音とともに落下する滝もあった。こうした人知を越えた造形に、古代の人々は畏怖の感情をいだき、自然信仰を生んだ。熊野本宮大社がイチイの巨木を祀ってきたように、熊野速玉神社はゴトビキ岩という巨岩を、そして熊野那智大社は那智の滝を、それそれ神体として祀ってきたことが起源とされている。

野信仰を原点にまで遡れば、そうした原始信仰に行き着く。巨木や巨岩、巨大な滝を信仰の対象にしてきた熊野信仰は、その後興味深い変遷をたどる。奈良時代に神仏習合思想が盛んになると、その時流に乗って、熊野三山に祀る神々は実は仏教の仏たちであると言い出した。こうした本地垂迹説を受け入れることで、霊験あらたかな「熊野権現」が生まれた。

れだけではない。熊野三山は、それぞれの主神を合わせ祀るようになったため、その霊験は格段に高まった。こうして、熊野三山は信仰の聖地として圧倒的な支持を得るようになった。



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