徐福公園(じょふくこうえん) 「徐福の墓」を中心に中国風楼門を配して整備された公園

徐福公園の楼門
徐福公園の入口を飾る楼門

  メ モ

【所在地】 和歌山県新宮市新宮7178
【アクセス】JR紀勢本線新宮駅から徒歩2分。
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方士・徐福(じょふく)の渡来伝説

徐福像
徐福像
R紀勢本線の「新宮駅」から東へ100mほどの所に、ひと際色鮮やかな楼門が建っている。この中国風の楼門が、「徐福公園」の入口である。ここには、紀州藩祖徳川頼宣公が建てた徐福の墓がある。その徐福の墓を中心に、平成6年(1994)に公園として整備された。

園内を見学する前に、徐福とは何者なのか確認しておこう。徐福は、中国で初めて全国統一という覇業をなしとげた秦の始皇帝の時代、秦に滅ぼされた斉の国の方士、すなわち神仙道や医方術の士であったとされている。

馬遷(しばせん)が紀元前91年ごろ完成させた『史記』の秦始皇本紀に、徐福に関する有名な話が記載されている。それによれば、中国全土を支配し、望むものすべてを手に入れた始皇帝が、不老不死の仙薬を求めていると聞いて、徐市(じょふつ)は「海中に三神山あり、蓬莱方丈瀛洲といい、仙人がこれに居る。童男女と之を求むることを得ん」と願い出たという(『史記』では、徐福を徐市の名で表わしている)。そこで、始皇帝は徐市に童男童女数千人をつけて海上に送りだし仙薬を求めさせた。始皇28年(B.C.219)のことである。

かし、それから9年を経過した始皇37年(B.C.210)、徐市は莫大な資金を費やして旅立ったにもかかわらず、得るものなく帰国した。始皇帝は「徐市ら費すこと、巨万を以って計うるも、終に薬を得ず」と大いに怒った。叱責を恐れて、徐市は始皇帝に対し、「大鮫に邪魔されてたどり着くことができないので、射手を用意していただきたい」と偽りの奏上をしたとされている。

徐福渡来の図絵
徐福渡来の図絵(新宮徐福協会作成パンフより)
『史記』の准南衡山列伝では、別の話を載せている。仙薬を求めさせた徐市は帰還すると、「海中の大神は始皇帝の礼が薄いという理由で延年益寿の薬を取ることを許さない。良家の童男童女とさまざまな分野の技術者を連れてくれば叶うと言っている」と報告した。不老不死の薬を得たい始皇帝はおおいに喜んで、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子とさまざまな分野の技術者を徐市に託して旅立たせた。徐市は、平原広沢を手に入れ、そこに留まって王となり、二度と帰らなかったという。


上である。徐福について書かれた根本史料はこれ以外にない。その後も『漢書』を始めとして中国の史書には徐福伝説が繰り返し語られるが、基本的には『史記』の記述を敷衍したものにすぎない。だが、『史記』の記述も、秦始皇本紀と准南衡山列伝で内容に矛盾がある。秦始皇本紀では童男童女数千人を伴って渡航したのは、最初の始皇28年(B.C.219)の渡航としているが、准南衡山列伝ではどうも2回目の渡航のときとしているようだ。しかも、良家の童男童女三千人と、より具体的な人数をあげている。

うしたことから、中国では、徐福は伝説上の人物であり実在ではない、また徐福と始皇帝との出会いは歴史的事実ではなく、ある種の民間伝承だと見なされてきた。しかしながら、『史記』は司馬遷によって著された中国のもっとも古い歴史書で、歴史的信憑性が高く、学術的権威もある。しかも、徐福の事件は『史記』が編纂されるたかだか100年前の出来事である。まだ前王朝の事績が明確に人々の記憶に残っていたと考える方が自然である。さらに、漢民族は無類の記録好きだ。司馬遷の手元には何らかの記録があった可能性が高い。

のため、一方では、徐福実在説も長らく信じられてきた。1982年になって、中国江蘇省連雲港市かん楡県で、徐福の故郷であるとの伝承をもつ徐福村(現徐阜村)が発見された。そのことで、最近では中国でも徐福が実在の人物として学術研究の対象となるようになったそうである。

徐福渡来の図絵
日本の徐福ゆかりの地(新宮徐福協会作成パンフより)
一王朝・秦の時代に、一人の男が始皇帝の命を受け、東方海上に浮かぶ「蓬莱の島」をめざして出航した。目的の島は仙人が住み、不老不死の霊薬が実る楽園である。その島は日本だったかどうかは分からない。中国の史書は、徐福がその島で平原広沢を手に入れ、そこに留まって王となったと記すのみで、それ以上のことは何も語ってくれない。

シナ海に乗り出した船は、黒潮か対馬海流に乗れば日本海沿岸、太平洋沿岸のどこかにたどり着く。対馬海流に乗れば東北地方まで、黒潮に乗れば、熊野灘に面した紀伊半島や伊勢湾・三河湾、遠州灘に面した地域や伊豆半島、八丈島などに流れ着く。そのため、今日我が国に残る「徐福伝説」は、図に示すように各地におよんでいる。



徐福渡来の地・熊野

蓬莱山
徐福が麓に住み着いたとされる蓬莱山

宮に伝わる徐福渡来伝説では、徐福たちの一行は熊野川の河口で上陸したことになっている。その上陸地点に現在記念碑が建っている。そして、一行は上陸地点から北西約100mのところにある蓬莱山(ほうらいさん)の麓に住み着いたとされている。蓬莱山は熊野川河口に位置するお椀を伏せたような小山である。

莱山の南麓には、熊野三神を祀る阿須賀神社が鎮座している。その境内には、徐福の宮が祀られている。徐福はこの地で薬草「天台烏薬」を見つけたと伝えられ、また医術や捕鯨・農耕など、さまざまな大陸の先進技術を伝えたといわれている。興味深いのは蓬莱山の南麓から弥生式土器や祭祀遺物が出土していることだ。『史記』の記述が史実ならば、徐福がこの地にやってきたのは紀元前210年。日本の歴史で言えば、まさに弥生時代の始まるころである。

徐福の墓
徐福の墓
福渡来伝説では、徐福はこの地で亡くなったことになっている。徐福公園の楼門をくぐると、正面に御影石に刻まれた徐福の像と不老の池がある。池の傍らには7本の天台烏薬が植えられている。天台烏薬は徐福が求めた不老長寿の霊薬とされているクスノキ科の常緑灌木である。徐福の墓は天台烏薬の陰になっていて、正面からは見にくいが、横に回れば簡単にアクセスできる。

の徐福の墓は紀伊藩の初代藩主である徳川頼宣公が熊野を訪れた時、阿須賀神社に祀られた徐福の話を聞いて建てさせたもので、儒臣の李梅渓に書かせた碑は二段の台石の上に建っている。墓の左には、昭和15年(1940)に建立された徐福顕彰碑が、右には大正4年(1915)に建立された徐福の重臣7人を祀る七塚の碑がある。



なぜ熊野に徐福伝説が生まれたか

徐福公園内の売店
徐福公園内の売店
福公園の片隅に小さな売店がある。かなり汗をかいたので、水分補給になにか飲もうと立ち寄ったら、女店員が天台烏薬のお茶「徐福之精」をサービスで入れてくれた。ウーロン茶のような味だった。新宮市では徐福伝説にちなんで天台烏薬の木を昭和57年から町おこしの一環として栽培し始めたそうだ。現在ではその数は10万本以上に達し年間600kgの生薬を収穫しているという。

るまわれたお茶をすすりながら、なぜこの地に徐福伝説が根付いたのか考えてみた。他の徐福ゆかりの地と同様に、熊野についても確固たる根拠があるわけではないようだ。顕徳5年(958)に中国に渡った僧の弘順は、、「徐福は各五百人の童男童女を連れ、日本の富士山を蓬莱山として永住し、子孫は秦(はた)氏を名乗っている」と伝えたと、中国の書に記録されている。

かし、弘安2年(1279)に元朝支配から逃れて来朝した宋の無学祖元禅師は、渡来した徐福の境遇に自らの境遇を重ね合わせて、弘安4年(1281)ごろ熊野を徐福上陸の地として詠んだ詩が残されている。この頃までに徐福伝説がすでに熊野では一般化していた証左とされている。また、洪武9年(1376)、日本の禅僧・絶海中津が明の太祖洪武帝に謁見したとき、熊野の徐福祠について尋問され、詩を吟じ合ったという。

野灘は黒潮が流れていて、いろんなものが流れ着く。徐福が率いた船団が特に熊野を目指した訳ではないだろうが、途中で嵐に遭えば、船団はちりぢりになり、そのうちの何隻かはこの地に漂着した可能性がないとは言えない。徐福が伴ったのは良家の童男童女三千人となっているが、上記の僧・弘順の言葉では千名に減っている。

ぜ徐福は大勢の子供たちを連れて船出したのか。もちろん三千人というの実数ではない。だが、大勢の子供たちを伴ったのには訳があったはずだ。斉の国では秦統一後も圧制で人民を苦しめられていたので、徐福は始皇帝の圧制から逃れ、前途ある子供たちと一緒に新天地を求めて旅立ったとする説がある。

供たちはやがて成長し、結婚し、子孫を増やしていったはずである。その子孫が秦氏であるというのも面白い。秦氏は遠祖を始皇帝に求めている。そのとき持ち込んだ五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子には、米が含まれていない。しかし弥生時代は稲作が開始された時期である。彼らが稲作文化も持ち込んだ可能性を否定できない。

暮れが迫った徐福公園は、実に楽しいところだ。あかね色に染まり始めた空を見上げながら、公園内を散策していると、いろんな空想が浮かんでくる。しかし、いつまでも空想に浸っている訳にはいかない。今夜の宿を探す仕事がまだ残っていた。



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