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| 徐福公園の入口を飾る楼門 |
メ モ
【所在地】 和歌山県新宮市新宮7178 |
徐福渡来の地・熊野
新宮に伝わる徐福渡来伝説では、徐福たちの一行は熊野川の河口で上陸したことになっている。その上陸地点に現在記念碑が建っている。そして、一行は上陸地点から北西約100mのところにある蓬莱山(ほうらいさん)の麓に住み着いたとされている。蓬莱山は熊野川河口に位置するお椀を伏せたような小山である。 蓬莱山の南麓には、熊野三神を祀る阿須賀神社が鎮座している。その境内には、徐福の宮が祀られている。徐福はこの地で薬草「天台烏薬」を見つけたと伝えられ、また医術や捕鯨・農耕など、さまざまな大陸の先進技術を伝えたといわれている。興味深いのは蓬莱山の南麓から弥生式土器や祭祀遺物が出土していることだ。『史記』の記述が史実ならば、徐福がこの地にやってきたのは紀元前210年。日本の歴史で言えば、まさに弥生時代の始まるころである。
この徐福の墓は紀伊藩の初代藩主である徳川頼宣公が熊野を訪れた時、阿須賀神社に祀られた徐福の話を聞いて建てさせたもので、儒臣の李梅渓に書かせた碑は二段の台石の上に建っている。墓の左には、昭和15年(1940)に建立された徐福顕彰碑が、右には大正4年(1915)に建立された徐福の重臣7人を祀る七塚の碑がある。 |
なぜ熊野に徐福伝説が生まれたか
ふるまわれたお茶をすすりながら、なぜこの地に徐福伝説が根付いたのか考えてみた。他の徐福ゆかりの地と同様に、熊野についても確固たる根拠があるわけではないようだ。顕徳5年(958)に中国に渡った僧の弘順は、、「徐福は各五百人の童男童女を連れ、日本の富士山を蓬莱山として永住し、子孫は秦(はた)氏を名乗っている」と伝えたと、中国の書に記録されている。 しかし、弘安2年(1279)に元朝支配から逃れて来朝した宋の無学祖元禅師は、渡来した徐福の境遇に自らの境遇を重ね合わせて、弘安4年(1281)ごろ熊野を徐福上陸の地として詠んだ詩が残されている。この頃までに徐福伝説がすでに熊野では一般化していた証左とされている。また、洪武9年(1376)、日本の禅僧・絶海中津が明の太祖洪武帝に謁見したとき、熊野の徐福祠について尋問され、詩を吟じ合ったという。 熊野灘は黒潮が流れていて、いろんなものが流れ着く。徐福が率いた船団が特に熊野を目指した訳ではないだろうが、途中で嵐に遭えば、船団はちりぢりになり、そのうちの何隻かはこの地に漂着した可能性がないとは言えない。徐福が伴ったのは良家の童男童女三千人となっているが、上記の僧・弘順の言葉では千名に減っている。 なぜ徐福は大勢の子供たちを連れて船出したのか。もちろん三千人というの実数ではない。だが、大勢の子供たちを伴ったのには訳があったはずだ。斉の国では秦統一後も圧制で人民を苦しめられていたので、徐福は始皇帝の圧制から逃れ、前途ある子供たちと一緒に新天地を求めて旅立ったとする説がある。 子供たちはやがて成長し、結婚し、子孫を増やしていったはずである。その子孫が秦氏であるというのも面白い。秦氏は遠祖を始皇帝に求めている。そのとき持ち込んだ五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子には、米が含まれていない。しかし弥生時代は稲作が開始された時期である。彼らが稲作文化も持ち込んだ可能性を否定できない。 夕暮れが迫った徐福公園は、実に楽しいところだ。あかね色に染まり始めた空を見上げながら、公園内を散策していると、いろんな空想が浮かんでくる。しかし、いつまでも空想に浸っている訳にはいかない。今夜の宿を探す仕事がまだ残っていた。 |