紀伊路(きいじ)中辺路(なかへち) 熊野詣の公式ルート

滝尻王子社付近
熊野古道・中辺路ルートの出発点とされた滝尻王子社付近 (h16/07/22 撮す)

当時の熊野御幸のメインルートだった紀伊路と中辺路

から800年前の建仁元年(1201)10月、後鳥羽上皇は第4回目の熊野御幸(くまのごこう)を行なった。その往復に22日を要したという。後鳥羽上皇に重用され、この御幸に付き従った歌人・藤原定家は、その時の様子を「後鳥羽院熊野御幸記」の中で詳細に記録している。

後鳥羽上皇の肖像画
後鳥羽上皇の肖像画
時の熊野詣(くまのもうで)は、上皇や貴族たちが京都から船で淀川を下り、現在の大阪市天満橋の辺りで上陸した。そこには熊野権現の分霊を祭った窪津王子(くぼつおうじ)と呼ばれる神祠があり、熊野古道紀伊路の出発点とされていた。一行は天満橋から海岸筋を通り、熊野の玄関口、口熊野(くちくまの)といわれた田辺まで南下すると、そこからは中辺路(なかへち)の山中の道を本宮へ向かう。

宮からは熊野川を船で下り、熊野川河口にある新宮に詣る。新宮からは再び徒歩で海岸線沿いを辿り、それから那智川に沿って那智に登っていく。那智からの帰途は、再び新宮を経、熊野川を遡行するか、あるいは那智の背後にそびえる妙法山に登り、大雲取越え・小雲取越えの険路を越えるかして本宮に戻り、再び中辺路を通って都に帰っていった。

なみに、上記の後鳥羽上皇の熊野詣は10月5日に京を発ち、途中で和歌会を催しながら16日に本宮に到着した。本宮に参詣できた喜びを、定家は「山川千里を過ぎて、遂に宝前に奉拝す。感涙禁じがたし」と記している。そして、2日後には新宮、さらに翌日には那智へ到っている。上皇が京に還御したのは10月26日のことだった。



現代の熊野詣は阪和道、国道311号を乗り継いで

滝尻王子社付近
現代の紀伊路−阪和自動車道
野古道とは、はるか遠くの聖地「熊野」まで参詣者を導いた道である。その熊野詣のメインルートは、紀伊路から中辺路とされてきた。京都から大阪、堺を経て、「口熊野」と呼ばれた熊野の玄関口・紀伊田辺までは、紀伊路を通った。その後は、紀伊田辺から中辺路と呼ばれる道を一直線に本宮大社を目指した。

代の我々には、熊野詣に20日も費やす余裕は許されていない。一泊二日の強行スケジュールである。朝の6時過ぎには、すでに南阪奈自動車道を西に向かって走っていた。その後、現代の紀伊路である阪和自動車道を南に向かい、南部(みなべ)まで南下する。

かし、阪和自動車道の途中の海南ICで、いったん高速道を降りることにした(関連地図)。藤白(藤代)王子の跡が海南市にあると聞いたからである。熊野詣の際、宿舎にしたり神事を行った熊野九十九王子の中でも、藤白王子は特に格式が高く、五体王子の一つに数えられ、神前で神楽・相撲等が奉納されたことで知られている。


クスノキの巨木
鳥居を覆うクスノキの巨木
藤白王子権現
藤白王子跡に建つ藤白王子権現
後鳥羽上皇の歌碑
後鳥羽上皇の歌碑
原定家の「後鳥羽院熊野御幸記」には、後鳥羽上皇の熊野御幸の際に、藤白王子で大規模な和歌会を催したことが記されている。歌の題は「深山紅葉」と「海辺冬月」だった。このときの和歌会の詠草の実物が三十数葉、現在も残っていて「熊野懐紙」と呼ばれている。

南ICからほど近い万葉の故地「藤白のみ坂」の入り口付近に神社があった。物部氏の祖神・饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀っている藤白神社である。車を降りると、耳をつんざくばかりのセミの声が降ってきた。周囲を見渡すと、神社の境内にはクスノキの巨木が多い。境内には3カ所に分かれて、クスノキの大木が5本あり、天然記念物として海南市から文化財に指定されているとのことだ。

殿前のクスノキは幹周りが10mを越えるという。この大木は子守楠神社として祭られ、子が生まれるとここに祈願し、楠・藤・熊の字の名を付ければ、その子は長生き出世するとされている。明治の自然保護の先駆者として知られる南方熊楠(みなかたくまぐす)もその一人とか。

社の境内で宮司が掃除をしていたので、藤白王子跡を聞くと、この神社がそれであるとの返事が返ってきた。往時の藤白王子は戦国時代まで神宮寺として残っていたらしいが、戦国の戦乱で消失してしまった。しかし、紀州徳川家初代藩主・頼宣(南龍公)によってその故地に三間社流造の社殿が建てられた。それが現在の藤白神社で、県指定の文化財となっている。ただし、現在の社殿は、藤白王子権現として立て直され、昨年11月にこけらおとしが済んだばかりだという。堂内には秘仏薬師如来坐像、阿弥陀如来坐像と千手観音坐像を安置している。

内には、建仁元年(1201)の熊野詣の際の和歌会で、後鳥羽上皇(当時22歳)が詠んだ二首の歌のうち、次の一首を刻んだ碑が建っている。
浦さむく 八十島かけて 寄る波を 吹上の月に 松風ぞ吹く  


有馬皇子を祭る社
有馬皇子を祭る社
有馬皇子の墓
有馬皇子の墓と歌碑
いでながら、藤白は悲運の貴公子・有間皇子(ありまのみこ)が処刑された場所としても知られている。

馬皇子は孝徳天皇の皇子だった。今から約1350年前の斉明天皇4年(658)11月、皇子は謀反の疑いで逮捕された。皇太子の中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と京留守居役の蘇我赤兄(そがのあかえ)が仕組んだ罠にはまった結果だった。そのとき、天皇は牟婁(むろ)の湯(白浜の湯崎温泉)に行幸中だった。牟婁(むろ)の湯へ護送される途中、皇子は次の2首の歌を詠んだ。
磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば 亦かへり見む  (巻2-141) 
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る   (巻2-142) 
皇子が自らの運命を予知して詠んだとして、今でも人口を膾炙している歌である。

送された皇子は、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)の厳しい尋問を受けた。
「どんな理由で謀反を図ったのか」と皇太子に問われて、有馬皇子は次のように答えたという。
「天と赤兄が知っている。私はなにも知らない」
謀反への誘いが、皇太子たちの巧みな策略であることに気付いた有馬皇子の、悲痛な恨みがそう答えさせたのであろう。

婁(むろ)の湯で尋問を受けた後、その帰り道、有馬皇子は藤白坂で絞殺された。まだ19歳の若さであったと伝えられている。藤白神社から200mほど西の藤白坂の登り口に、有馬皇子の墓がある。その横に万葉歌碑が建っていて、「家にあれば〜」の一首が、佐々木信綱博士の筆で刻まれている。

白神社の境内には、この地で散った有馬皇子の御霊を祭る有馬皇子神社がある。さらに、境内には、皇子への同情と追慕から詠まれた次の万葉歌の碑が雑賀紀光氏の筆で刻まれている。
藤白の 御坂を越ゆと 白栲の 我が衣手は 濡れにけるかも   (巻9-1675) 


「曲水泉」
旧鈴木邸庭園の「曲水泉」
白神社から東100mのところに、鈴木姓の元祖とされる藤白の鈴木氏が住んでいた屋敷跡がある。鈴木氏も熊野詣と深い関係がある。熊野御幸が盛んになったころ、熊野の鈴木氏がこの地に移り住み、熊野三山への案内役として熊野信仰の普及につとめたという。

の鈴木氏の系図の中で、鈴木三郎重家や亀井六郎重清が特に有名である。二人がまだ幼少だった頃、牛若丸が熊野往還するとき必ずこの鈴木屋敷に滞在して遊んだという。そんな縁で、二人は源義経の家来になり、奥州の衣川館で戦死を遂げている。

では、人影もなくあれ放題の屋敷が二棟建っている。建物の裏にまわると、庭園の「曲水泉」が静かに水をたたえている。曲水泉とは、往古、貴人たちの優雅な遊びのために作られた仕掛けである。曲がりくねった水路に沿って庭石が並べてある。客人たちはそれぞれの庭石に腰をかけ、上流から流された杯が自分の目の前にくるまでに詩歌をつくり、杯を取り上げて酒を飲み、次へ流した。造園の年代ははっきりしないが、室町時代のものと推定されている。



今も往時の面影を強く残している中辺路

熊野古道館
熊野古道館
歴史展示コーナー
熊野懐紙を並べた歴史展示コーナー
々は海南ICから再び高速道路に入って、海南湯浅道路を南に向かった。終点の南部(みなべ)から、熊野街道の国道42号線で海岸沿い走って田辺市内に入り、その後、紀伊山中に分け入る国道311号線に進路を変えた。富田川(とんだがわ、もとは岩田川といわれた)沿い道を進むにつれて、川の両側から山の稜線がどんどん狭まってきて、いかにも木の国の奥深く入り込んできた気がする。

がて、富田川が石船川と合流する地点で「滝尻」という三叉路に出る。このあたりは、熊野古道の中辺路ルートが山中に分け入る出発点にあたる。川向こうの山麓に、三角屋根の建物が見えた。中辺路の観光案内と歴史紹介を兼ねた休憩施設として、平成6年度に建設された「熊野古道館」である(関連地図)。

野古道館には、観光客の便を考えて観光案内、休憩およびグッズ販売のコーナーが設けてある。中辺路の魅力をビデオで紹介する一画もあった。ビデオ語り部コーナーという。さらに、、正治2年(1200)に滝尻王子で催された和歌会の折の熊野懐紙や、定家の「熊野御幸記」、滝尻王子の所蔵品など30点が、複製品ではあるが歴史展示コーナーに展示してある。

辺路を通って熊野詣を行なう場合、田辺市よりの滝尻(たきじり)王子が起点となる。その滝尻王子は、富田川と石船川の合流地点に位置し、「熊野古道館」とは石船川を挟ん反対側に鎮座している。

滝尻王子
熊野霊域の入り口に鎮座する滝尻王子
熊野古道子
熊野古道の出発点
でこそ、田舎の鎮守の森の神社とさほど変わらない風情であるが、滝尻王子はかって中辺路の代表的な王子だった。熊野九十九王子の中でも五体王子の一つとして数えられるほど由緒ある王子だった。人々は、ここの川で身を清めてから参拝した。熊野御幸が盛んだったころは、社前では里神楽や和歌会などが行われたと記録されている。この滝尻から奥は御山、すなわち熊野の霊域と考えられていた。

田川沿いに中辺路町教育委員会が立てた案内板があった。それによれば、鎌倉末期以降、滝尻王子は熊野の御子神(みこがみ)五所を祀る五体王子とされててきた。しかし、室町時代に潮見峠越えで栗栖川へ通じる道が多く利用されるようになると衰退したという。明治時代に、村内の神社を合祀して十郷(とごう)神社とした。そのため、現在は滝尻王子宮十郷神社と称している。

社の脇から熊野古道が始まっている。往時の雰囲気を味わってみようと杉の木立の間を少し歩いてみた。すぐにつづら折りの急な坂道となり、古道ははるか上の方に向かって続いて行く。とてもではないが、この山道を分け入るには相当の覚悟がいると、坂の登り口であきらめた。

なみに、藤原宗忠(むねただ)が天仁2年(1109)に熊野参詣したとき、その日記『中右記』で、滝尻からの山道を次のように書いている。 "まず滝上坂をよじ登り、十五町ばかり巌畔(がんはん)を踏みようやく行き登る。すでに手を立つるごとし。まことに身力尽きおわんぬ" (まず滝の上の坂道をよじ登り、ついで十五町の岩だらけの道をひたすら上った。まるで手の平を立てたような急坂で、本当に体力を消耗してしまった。)



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