|
今年の7月1日、中国蘇州で開かれていたユネスコの世界遺産委員会は、「紀伊山地の霊場と参詣道」を世界遺産に登録することを正式に決定した。紀伊山地の霊場とは、吉野・大峯、熊野三山、高野山の三つの霊場のことであり、参詣道とはこれらの霊場を結ぶ参詣道や信仰の道をいう。 三霊場のうち吉野と高野山は、筆者が住んでいる奈良県橿原市から比較的交通の便が良い。そのため、今までにも何回か参詣したことがある。だが、紀伊半島東南部にある熊野三山は、マイカーがあっても、出かけるには躊躇するほど日帰りの参詣には遠く感じられる。 なにしろ、熊野のクマは、辺境を意味する「隅(くま)」に語源があるとする説があるくらいだ。奈良や京都の都に住んでいた昔の人々には、紀伊山脈によって関係が絶たれた辺境の地に思えたのだろう。そうした意識は今の関西人にも受け継がれているのかもしれない。
応徳3年(1086)に院政を始めた初代の白河上皇から4代の後鳥羽上皇までの約100年間、歴代上皇たちはなんと100回近くも熊野御幸(くまのごこう)を行なったと記録されている(白河上皇9回、鳥羽上皇21回、後白河上皇34回、御鳥羽上皇28回)。つまり、院政期には、上皇の熊野御幸がほぼ年中行事と化したといってよい。 時代は、貴族社会から武家社会へ大きく転換しようとしていた。それに加えて、世の中は永承7年(1052)に仏法でいう末法の時代に入ったと認識されていた。時代の流れが読めず、末法の恐怖におびえる皇族や貴族たちは、熊野信仰に救いを求め,熊野御幸を行うようになったのだろう。 熊野の名は、熊野御幸をきっかけとして全国に知られるようになり、日本最大の霊場になった。中世には上下貴賤男女を問わず大勢の人々が列をなして熊野を詣でた。その盛況ぶりは、蟻が餌と巣の間を行列を作って行き来する様子にたとえられ、蟻の熊野詣と呼ばれた。
その他に、高野山から南下して伯母子岳や果無(はてなし)山脈を越えて本宮に至る小辺路(こへち)や吉野から大峰山脈を縦走する行者道を行く大峰奥駈け道もあった。 世界遺産への登録が決まったことで、各メディアは特別番組を組んで三つの霊場や熊野古道を紹介するようになった。7月19日の海の日には、「火と水と森の物語」と題して三つの霊場を中継で結んだ特別番組を、NHKが夜7時半から放送していた。その番組を見ながら、最近感じている疑問を解くヒントが、ふと得られたような気がした。そして、それを確かめるために、是非とも熊野三山を訪れるべきだと思った。 幸いなことに、近くに住む友人のT.Y氏とそのまた友人のA.K氏が熊野方面一泊旅行の同行を快く引き受けてくれた。二人は今年の春、壬申の乱の故地を二日がかりで巡った仲間である。またまた、A.K氏には探訪の足となる車を提供して貰ったばかりか、ドライバー役までお願いすることになった。この小旅行を実現できたのも、ひとえに氏のお陰である。この場を借りて謝意を表しておきたい(2004/07/26記す)。 |