日本仏教の特性


熊野”三山”?

月の初め、マスコミは「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されることが正式に決定したと報じた。 その中には熊野三山も含まれる。 しかし、熊野三山と聞いたとき、何となく違和感を感じた。三山?

って、仏教寺院のことではなかったか? 気になって早速辞書を調べてみた。やはり、山には”僧が深い山を開いて建てた寺、また、寺の名につける言葉”(学研漢和大字典)という意味がある。確かに鎌倉五山とか京都五山など、「山」がつく言葉は仏教寺院を表している。そもそもお寺を建てることを「開山」という。

は、熊野三山は仏教寺院なのか? 熊野三山が、熊野地方にある本宮(ほんぐう)・新宮(しんぐう)・那智(なち)の3つの聖地の総称であることぐらい、日本人の常識だ。しかし、いずれも神社であって、寺院ではない。

の違和感に興味が湧いたので少し調べてみた。そしたら、面白いことが分かった。熊野三山は神社でありながら、主祭神を仏として祀ってきた時代がずいぶん長い間続いてきたのである。熊野三山は「熊野権現」とか「熊野三所権現」ともいう。権現とは、仏・菩薩が神に形を変えて現れることであり、時にはその神そのものを指すこともある。

が国では、神と仏を同体と見て一緒に祀る信仰行為が奈良時代から始まった。これを神仏習合という。神仏習合を理論付けし、整合性を持たせた思想は「本地垂迹説」と呼ばれている。本地垂迹説では、仏や菩薩がもともとの本体(=本地)であり、人々を救うために仮に神の姿(垂迹)をとって現われたと説く。

野では、神仏が習合するのも早く、12世紀前半には、本宮の主神の家都美御子(けつみみこ)神は阿弥陀如来と、新宮の速玉(はやたま)神は薬師如来と、そして那智の牟須美(むすび)神は千手観音とそれぞれ同体であるとみなし、各主神は本地がそれぞれ仮の姿をとって現れたものと考えるようになった。

うして平安時代末期から鎌倉時代のはじめにかけて、本宮・新宮・那智の各神社は神社ではあるが、実際に祀っているのは仏であるとの認識が一般化した。すなわち、家津美御子神は阿弥陀如来の仮の姿であり、来世での往生を約束してくれる。速玉神は薬師如来の仮の姿であり、衆生の苦しみや病を癒してくれる。牟須美神は千手観音の仮の姿であり、現世でのご加護を約束してくれる。

の結果、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落(ふだらく)浄土の地であり、熊野全体が浄土の地とみなされるようになった。だから、熊野三山という呼称は正しいのである。間違いではない。



神仏分離令の後遺症?

者は史跡探訪と称して、奈良県を初めとして各地の史跡や神社仏閣を訪れることを老後の楽しみにしている。神社を訪れて略縁起を貰えば、そこには神社の歴史や主祭神の名前が書いてある。寺院を訪れても同様で、開山の時期や開祖、本尊の名前が必ず書いてある。すなわち、神様は神社、仏様は寺院と、はっきり区別されている。

うした宗教に関する常識が江戸時代以前も通用するかというと、そうではない。現在のように神社と寺院が峻別されているのは、明治維新政府が明治元年(1868)に神仏分離令(しんぶつぶんりれい)という通達を出して、神社の中から仏教的色彩を強権的に排除した結果に他ならない。

れ以前は、神社と寺院の区別が必ずしも明確でない時代が長く続いた。神仏習合は奈良時代に始まっているから、江戸時代の末までおよそ1000年近い長きに渡って、そうした時代が続いたと言える。神仏習合は、むしろ我が国の宗教界の常態だったと言って良い。たとえば、神宮寺と呼ばれる寺があちこちにあった。八幡大菩薩を祀る神社だって各地にあった。神社に仏や菩薩が祀られていても、あるいは寺院に我が国固有の神々が祀られていても、それを当たり前と受け止めていた。

仏分離令の後遺症で、我々は現在の寺社の有り様が、創建以来のものと思いがちであり、また略縁起の書き方もそのような印象を与えがちだ。しかし、神仏分離令を拡大解釈して廃仏毀釈の嵐が吹きまくったため、神社と同体だった多くの寺の堂宇が壊された歴史があったことを忘れてはいけない。熊野地方を探訪してみると、神仏習合の名残を至るところで見いだすことができる。その最たる例は、熊野那智大社と青岸渡寺であろう。



神仏習合のフィクサーは修験道?

野三山の由来をたどれば、熊野地方の自然崇拝にその起源を求めることができる。本宮は大斎原(おおゆのはら)にあったイチイの大木をご神体として齋き祀っていた。同様に、新宮は神倉山(かみくらやま)の山頂付近にあるゴトビキ岩を、那智は那智の大滝をそれぞれご神体として祀ったのが、原初の姿であるとされている。

うした大木、巨岩、あるいは大きな滝などを信仰の対象とする山岳信仰は、自然を崇拝し、一方で恐れた太古の昔にすでに発生していたと思われる。古代の人々はそれぞれの神体に名前をつけた。それが、現在の熊野三山に祀られている主神の名前である。

西暦538年あるいは552年に伝来した仏教は、1世紀半を経過した7世紀末には、国教的地位を得るほど隆盛を見た。奈良時代の都・平城京はさながら宗教都市を思われるほど、七堂伽藍の寺院が林立していた。こうした事態を前にして、我が国固有の神道は危機感を募らせたのではなかろうか。神道が仏教にすり寄っていくという実に奇怪な現象を生むようになる。それが神仏習合である。

るいは、逆に仏教の側が巧みに神道へすり寄っていったのかもしれない。古来、我が国の国民性として、来る者は拒まずといった懐の深さがある。仏や菩薩を異国の神として、ほとんど抵抗することなく受け入れ、やがて母屋を取られてしまったのかもしれない。なにしろ、本家は仏や菩薩であり、神々は仮の姿だというのだから。

ころで、こうした神仏習合を仲立ちしたものがいなかっただろうか。いたとすれば、それは修験道にちがいない。修験道は日本古来の山岳信仰に、神道や外来思想の仏教・道教などを取り入れた我が国独特の民族宗教である。この宗教の特徴は、修行得験とか実修実験とか表現されるように、深山幽谷に分け入って、命がけの修行をし、霊力、験力を得ていくことにある。

野三山の信仰の場は、不思議なことに、修験道の行場と重複するところが多い。奈良県吉野村から紀伊半島の山間部中心を尾根伝いに和歌山県那智山まで続く道は、奥駈道(おくがけのみち)という。この道は大和朝廷の頃より修験道の行場として栄えてきた。現在でも修験道の行者や山伏がこの道を通って修行している。熊野三山の奥の院とされる玉置神社は奥駈道の中間にある。奥駈道の終着点である那智山は滝行の場として知られている。新宮が元あった神倉山は、修験者が研鑽を積んだ場所として知られている。

験道の仲介によって、本宮の家津御子(けつみこ)神は阿弥陀仏と、新宮の速玉(はやたま)神は薬師如来と、そして那智の夫須美(むすび)神は千手観音と、それぞれ同体とされたのかもしれない。そうした神仏習合は遅くとも11世紀には終わっていたはずである。11世紀末になると、旧来の熊野坐神、速玉神という呼称に代わって、本宮・新宮という名称が一般化し、那智も世に知られるようになる。すなわち、このころには熊野三所権現が成立していたものと思われる。

2世紀になって熊野御幸が盛んになると、熊野三山の検校がその先達(=道案内)を務めた。三山検校は熊野を統括する最高位で、園城寺や聖護院の修験者的な護持僧が歴代任命されたという。少し深読みするならば、熊野御幸を裏で演出したのは修験道の護持僧たちだったかもしれない。



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