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| 第55次調査で出土した、格子状の溝で区画された大型掘立柱建物群 |
見 学 メ モ
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「弥生のカプセル」と呼ばれる下之郷遺跡とは・・・
集落の中心部は東西330m、南北250m(約7ヘクタール)におよび、この地区も3条の環濠が巡らされていた。さらに、集落の西側には、3条の環濠の外側に別区として居住域が設けられ、その外側からも2条の環濠が発見された。まさに、環濠だらけの弥生集落である。 集落がこの場所に築かれたことは、古代人にとっては当然であり、また現代人にとっては幸運だったと言える。付近は地下水が非常に豊かで、地中に潜っていた伏流水が地表に湧き出している。そのため、弥生時代人にとっては水稲栽培を行なうのに格好の地域であった。その一方で、地下水は古代人が残した遺品を良好な状態に保存してくれる。実際、下之郷遺跡では、当時の生活品などが良好な状態で保存されていた。これらの出土品は、現代の我々が弥生時代の社会や自然の復原的研究が進めるのに絶好の材料である。下之郷遺跡が「弥生のカプセル」と呼ばれるユエンである。
弥生時代中期の環濠集落跡としては、佐賀県の吉野ケ里遺跡(約40ヘクタール)、奈良県の唐古鍵遺跡(約30ヘクタール)には及ばないが、全国で3番目の規模を誇る。もちろん、滋賀県では最大である。 この遺跡は、弥生期の環濠集落としては全国で唯一、3条から9重の環濠が出土した珍しい集落跡である。銅鐸や盾、銅剣、石やじり、弓、盾などの武器・武具も多く見つかっていて、中国の歴史書『「漢書地理志(かんじょちりし)』に登場する「百余国」の一つだったのでは、と指摘する学者もいる。 下之郷遺跡からは、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの稲籾、ゲンゴロウブナやイノシシの骨を代表とする動物の骨や昆虫の羽根、ウリやノブドウなどの自然遺物なども出土していて、当時の社会や生活、自然環境を知る上で大変貴重である。
こうした下之郷遺跡の特殊性を勘案して、平成13年11月16日、文部科学大臣の諮問機関である文化審議会は、3条の環濠が周回している中心部7ヘクタールのうち、約3.3ヘクタールを国の史跡に指定した。これにより、遺跡の中心部分は将来にわたって保存されることになった。市教委としては、遺跡を通じて体験学習が出来るような公園の整備を進めたいとしている。 |
平成11年に、ほぼ完全な形で出土した木製の楯(たて)
興味深いことは、この木製の楯によって、下之郷遺跡が存在した時期が確定できた点である。年輪年代分析法によって、杉板に残る年輪から杉の木の伐採年代を求めたところ、紀元前190〜180年に伐採されたことが判明した。その結果、下之郷遺跡は今から約2100年ほど前のものと見なされるようになった。 |
下之郷遺跡の特殊性平成12年(2000)11月25日、市制施行30周年を記念して、守山市教育委員会は『弥生のなりわいと琵琶湖−近江の稲作漁労民−』と題するシンポジウムを守山市民ホールで開催した。各講演者の基調講演とその後のシンポジウムの内容は、平成15年3月に同教育委員会から出版されたシンポジウムと同名の冊子に詳しい。その中から筆者が特に興味を抱いた点を以下の示す。 少しずつ地点を移動しながら営まれた弥生集落
野洲川流域の弥生時代は、今からおよそ2500年前に始まったとされている。現在は野洲川の川床に埋没している服部遺跡は弥生時代前期の集落跡である。この遺跡からは約2万平米の水田跡が見つかっている。そして弥生時代中期になると、中心的な弥生集落は服部遺跡の南に移り、中期後葉にはおよそ2km四方の空間に下之郷遺跡、播磨田遺跡、二の畦・横枕遺跡、山田町遺跡の4つの環濠集落が次々と形成される。 ここに面白い現象が見られる。近畿地方の主な弥生遺跡は前期末ころから後期にかけて同一場所に環濠集落を継続して展開しているのが一般的だ。だが、野洲川流域の上記の4つの環濠遺跡は少しずつ地点を移動している。すなわち、巨大環濠集落である下之郷遺跡が衰退した後、その後裔集落として、その近辺に残りの三つの集落が順に営まれたと思われる、 弥生時代後期になると、下之郷遺跡、播磨田遺跡、二の畦・横枕遺跡、山田町遺跡の4つの環濠集落は解体し、巨大集落は消滅する。こうした現象は西日本一帯に一般的に見られる傾向である。ところが、野洲川流域では、これら4つの遺跡の南に、伊勢遺跡という巨大な集落が新たに誕生する。 井戸や環濠跡から温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの稲籾が同時に出土米の分類は、長粒種のインディカと単粒種のジャポニカに大きく分かれる。ジャポニカはさらに水稲の温帯ジャポニカと陸稲系の熱帯ジャポニカの2種類に分かれる。焼畑に適するのが熱帯ジャポニカ、良く管理された水田に適するのが温帯ジャポニカである。両者は同じジャポニカに属するが、形態的にもDNAレベルでも互いに異なっている。現在、日本で生産されている米はほとんどが温帯ジャポニカである。
およそ6000年前の縄文時代に、すでに稲作が行われていた。縄文遺跡から稲のプラントオパールがあちこちで見つかっていて、当時は焼き畑のような粗放農業が行われていたと推測されている。弥生時代に入る頃、おそらく中国南部からも温帯ジャポニカ種の稲を持った弥生人がぞくぞくと渡ってきて、水田耕作が始まったとされる。縄文時代の晩期後半より前の時代には水田はなかった。 下之郷遺跡の環濠や井戸の中から、約300粒の稲籾が出土した。遺跡は弥生時代中期後葉のものであり、誰しも温帯ジャポニカの稲籾であると信じて疑わなかった。市教委は、この稲籾の伝来ルートや品種を解明するため、静岡大学の佐藤洋一郎助教授にDNA鑑定による分析を依頼した。だが、分析結果は意外だった。"稲籾の約40%が熱帯ジャポニカ、純粋に温帯ジャポニカのものは20%程度、残りはどちらとも言えない中間的な性質をもっていた"というのである。 この分析結果は、複数の品種の稲が当時は同時に栽培されていたことの証左である。この事実をどう解釈するか。さまざまな推測がなされている。その一つは、当時は品種ごとに別々の田んぼに植えたか、あるいは多数の品種を一つの田んぼに植えていたとするものではある。多品種を植えていたことは品種により成熟時期が異なるため、災害などがあってもすべてに被害が及ばないように工夫されていたというのである。 6〜9条の環濠が意味するものアメリカの人類学者R.B.ファガーソンによると、人類は定住生活を始めたことで戦争を誘発したという。それまでの人類の生活パターンは移住暮らしだった。集団の間で緊張が生じて戦争に近い状態になっても、移住することでその緊張から解放された。だが、農耕社会のように定住の暮らしを始めると、集団と集団との緊張は、集団暴力や戦争という手段で解決されることになった。 集団と集団の争いを予見して、中国では8000〜7000年前ころから、村の周りに壕を巡らすことが始まったとされている。掘った土を盛り上げて壁を造った。その壁が都市国家の城壁の起源となった。日本でも、弥生時代に入るとまもなく、濠を巡らせ守りの壁を築く村が生まれた。環濠集落である。 弥生時代は水稲栽培が行われた。そのことで、我々はなんとなくのどかな時代だったという印象を受けがちだ。だが、実態は違う。弥生時代は、日本の歴史上、戦争が始まった時代だ。強力な首長に統率された集団が近隣の村々を切り従え「ムラ」から「クニ」へ大きく時代が動いた時期である。攻撃から集落を守るために環濠集落が作られたことが、そのことを示している。戦闘のための本格的な武器や鎧・楯も発達した。 近畿地方には、何重にも濠を巡らした多重環濠集落が多い。濠の縁には木の柵が築かれていたであろう。考古学者は矢が届かないための工夫である、と環濠を設けた理由を説明している。下之郷遺跡も、中心部は3条の環濠が巡らされていた。その外側の居住地区の外縁には、北東から南東域にかけて6条から9条の環濠が連続して掘られていた。 こうした多重環濠が戦争のための防御施設であった可能性は否定しない。西の3周濠のところで銅剣、石剣、石鏃や弓が集中的に見つかっている。しかし、外縁の6条から9条の環濠というのはいかにも多い。そのために、別の目的があったのではないかとされている。
コイやフナといった魚と水田は、非常によい関係にある。梅雨から夏にかけて水田からはき出される濁り水に誘われて、大量のフナやコイが遡上を開始し、川につながる水路を通って水田まで押し寄せるという。日頃は琵琶湖の沖の深い水中にいるため捕獲がむずかしい魚たちが、この時期産卵のため田んぼに勝手にやってきて、まさに取ってくれと言わんばかりに群れている。魚をせき止め、水路の水を抜けば手づかみでこれらの魚を捕まえることができた。 下之郷の集落に住んだ弥生人がそうした知識があったなら、環濠は魚を呼び込むための水路を兼ねていたのかもしれない。その証拠に、6条から9条の環濠は集落の北東から南東域にかけて築かれていた。北西部や南西部では見つかっていない。なぜなら、集落は東から西へ緩やかに傾斜した扇状地の上に位置している。 「生業複合」という概念がある。国立歴史民俗博物館の安室知(やすむろさとる)助教授が、民俗学の立場から守山市周辺の水田や内湖の利用を研究して生み出した言葉である。水田に水が漬くときはコイやフナなどを育てられる。水田というと稲だけを作るように見えるが、実は水田や内湖での魚の捕獲も重要な生業だった。野洲川流域に住んだ弥生人は稲作漁労民だったのである。彼らは水田耕作で稲を栽培すると同時に、琵琶湖の魚が水田まで遡上してくる性質を利用し、淡泊資源として大いに活用していたのである。 (*)守山市教育委員会編 『弥生のなりわいと琵琶湖−近江の稲作漁労民−』 より転載 |