山津照神社古墳(やまつてるじんじゃこふん) 山津照神社境内にある古墳時代後期の前方後円墳

山津照神社古墳
山津照神社古墳

 見 学 メ モ


【祭神】国常立尊(くにのとこたちのみこと)
【所在地】坂田郡近江町能登瀬
【アクセス】 米原ICから車で4〜5分

【山津照神社古墳】神社境内に所在
【墳形】前方後円墳
【規模】正確な大きさは不明。推定全長約46m、高さ6m
【築造時期】古墳時代後期

山津照神社付近
山津照神社付近

祭神として国常立尊を祀る山津照神社

山津照神社の境内図
山津照神社の境内図
田郡近江町の中央部を東西に流れる川がある。ゲンジボタルの生息地として有名な天野川だ。息長(おきなが)川ともいう。天野川の右岸に能登瀬の集落があり、その背後の丘陵地にこんもりとした森がある。祭神として国常立命(くにのとこたちのみこと)を祀る式内山津照神社の森である。

社は、北陸自動車道の米原ICから車で4〜5分ほどのところにある。米原ICで高速道路を降りて国道21号線を彦根方面へ進むと、ほどなく高速道路の高架の下をくぐる。その高架下あたりに、山津照神社の標識が道路の右側に立っている。

能登瀬集落
天野川に架かる息長橋とその先の能登瀬集落
さな標識なので見落としがちだが、標識の示す方向に狭い農道に入ると、東海道本線の踏切があり、さらにその先に天野川に架かる息長橋がある。橋の上から前方を見ると、能登瀬の集落の背後に小高い丘があり、石の大きな鳥居が目に入る。それが、山津照神社の一の鳥居である。

津照神社は、国常立命を息長氏の祖神として祀る神社として奈良時代に創建された。しかし、当初から現在の位置に鎮座していたのではない。以前はエン山の東麓の字オホキが鎮座地だった。現在地に移転されたのは明治16年(1883)である。

山津照神社
二の鳥居と山津照神社
の前年、社殿移転のために参道を拡張していたとき、古墳が見つかった。山津照神社の境内で発見されたため、山津照神社古墳と名付けられた。

陵の麓から階段を上っていくと、「山津照神社」の扁額を掲げた巨大な石の鳥居がそびえている。その先にある二の鳥居までの広い参道の左手を見ると、2つ並んだ石灯籠の奥に若宮八幡宮の小さな祠が建っている。どうやらその当たりが古墳の墳丘のようだ。



息長古墳群を形成する山津照神社古墳

灯籠の横に滋賀県教育委員会が立てた案内板がある。それによれば、山津照神社の境内に位置するこの古墳は、明治15年の社殿の移転に際し横穴式石室が見つかったのが発見の糸口だった。墳丘はすでに一部が削り取られて平らになっているが、全長約63mの前方後円墳である。

山津照神社古墳
山津照神社古墳
体部には石棺が安置されていたようだが、石棺がどうなったのかは分からない。しかし、石室からは、内行花文鏡、獣文鏡、五鈴鏡、金銅製装身具(冠?)残片、三輪玉、鹿角製刀子(ろっかくせいとうす)、馬具、勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、切子玉(きりこだま)、さらには坏蓋(つきぶた)、坏身(つきみ)、堤瓶(ていへい)、長頸壺(ちょうけいつぼ)、大型器台(きだい)などの須恵器類が出土した。墳丘からは、朝顔形埴輪や円筒埴輪も出土した。現在、これらの出土品の大部分は、滋賀県の有形文化財に指定されているとのことだ。

の古墳は、新庄の塚の越古墳、顔戸(ごうど)の後別当古墳と人塚山古墳、高溝の狐塚古墳らと共に、息長古墳群を形成している。このため、近江町内の高溝から顔戸、能登瀬にかけての地域は、古代の有力氏族だった息長氏の本拠地だったと考えられている。

津照神社古墳が発見された当時は、神功皇后(じんぐうこうごう)の父、息長宿禰(おきながすくね)王の墓ではないかと言われた。考古学的知見では、この古墳の築造時期は古墳時代後期、すなわち6世紀であり、息長宿禰王とは時代が合わない。少なくとも息長氏の首長の一人を埋葬した墓であることは動かない。6世紀の初めは男大迹王(おほどのおおきみ、継体天皇)が生きた時代であり、ひょっとすると男大迹王の登極を支援した息長氏某の奥津城だったかもしれない。いずれにせよ、この古墳は、湖北地域では最後に作られた前方後円墳として知られいる。



謎の古代氏族・息長(おきなが)氏

天野川の下流を見る
息長橋から天野川の下流を見る
長氏は、天野川の中・下流域を本拠地としていた。この付近は天日槍(あめのひほこ)が足跡を残した土地の一つであり、古くから渡来人の居住地でもあった。渡来人の持つ先進的な文化を吸収し、さらには琵琶湖の湖水を媒介とする日本海と淀川を結ぶ水上交通を掌握することで、巨大な勢力を持つことができたと推測されている。

長氏は、古代天皇家と関わりが深く、3世紀の後半から6世紀にかけて皇后を送りだすことで、大和の政治権力に大きな影響力をもった氏族とされている。特に、第26代継体天皇の即位にあたっては、東海地方の尾張氏と共にその即位をバックアップしたことで知られている。だが、政治的には有力な地位を占めることはなく、その実態は闇の中にある。

天野川の上流を見る
息長橋から天野川の上流を見る
『日本書紀』は応神天皇を生んだ神功皇后(じんぐうこうごう)、すなわち気長足姫(おきながたらしひめ)を、息長宿禰王の娘としている。しかし、神功皇后は伝説上の人物とする説もあり、その系図にどこまで信をおけるかは疑問とされている。

体天皇の后妃は『古事記』では7人、『日本書紀』では9人いたとされている。そのうちの一人は、息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の娘・麻績娘子(おみのいらつめ)である。ということは、息長真手王は継体天皇と同時代に生きた息長氏の首長とみなすこともできる。山津照神社古墳の築造時期が6世紀であるならば、その被葬者に息長真手王を当てることも可能となる。

かし、『日本書紀』は敏達4年(575)息長真手王の娘・広姫を立てて皇后とす、と記している。継体天皇の誕生は死亡年から逆算して西暦450年ごろとされ、一方、敏達天皇の誕生は538年とされている。90年近い年齢差がある二人の天皇に娘を嫁がせることなど現実的ではない。『日本書紀』の記述に誤りがあると考えなければならない。

姫が生んだ第1子を押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)という。本来なら敏達天皇亡き後、登極してもおかしくない皇位継承者だった。しかし、蘇我氏などに阻まれて即位することはなかった。だが、彼は後の舒明天皇(田村皇子)の父であり、天智天皇(中大兄皇子)や天武天皇(大海人皇子)の祖父にあたる人物である。

津照神社古墳から出土した副葬品に、珍しいものがある。五鈴鏡および金銅製の冠である。おそらく豪族の中でも特に卓越した豪族にしか与えられなかったものであろう。したがって、息長氏について書かれた資料はすくないため、謎の氏族とされているが、湖東の地を押さえて勢力を張った豪族だったことは間違いない。


2004/11/10作成by n_ohsei2004@yahoo.co.jp