慈光寺(じこうじ)  国宝の「法華経一品経」など多くの寺宝を所蔵する、かつての関東屈指の大寺院

慈光寺の山門
慈光寺の山門 (04/02/08 撮影)

メモ

(寺号) 都幾山慈光寺
(宗派) 天台宗
(本尊) 千手観音立像
(所在) 埼玉県比企郡都幾川(ときがわ)村西平(にしたいら)
(アクセス)バス : JR八高線「明覚」駅から村営バスで15分、「西平」下車、徒歩35分。
車: 飯能寄居線を小川町方面へ、田中交差点(都幾川村役場)を白石峠方面に左折して、西平バス停先の信号を右折。


比企郡都幾川(ときがわ)村には、天台別院慈光寺がある。国宝の「法華経一品経」をはじめ多くの寺宝を所蔵する寺として、あるいは板東第9番の札所として知られている寺である。寺域は、西平集落の北に聳える都幾山の中腹に広がり、山門までは麓から徒歩で30分近い山道の参道が続く。平成16年2月の日曜日、都幾川村役場の近くの「田中」交差点から、車で山間部に入り、都幾川渓谷沿い道を通って慈光寺を訪れた。


奈良時代の開山以来、今日まで法燈を灯し続けている埼玉県唯一の寺

光寺の歴史は古い。参詣する前に、ざーっとその歴史を調べてみた。

慈光寺の標識
戸後期に書かれた「都幾山慈光寺実録」によると、天武天皇の白鳳2年(673)、慈光翁が僧の慈訓(じくん)に命じて千手観音像を彫ませ、本尊として祀らせたのがこの寺の始まりとされている。その後、役小角(えんのおずぬ)が来遊して、西蔵坊を設け修験の道場を開いた。また、鑑真(がんじん)和尚より教えを受け民衆から菩薩と崇められた釈道忠(しゃくどうちゅう、広恵菩薩)が、堂宇を整えた。このため、当寺では釈道忠を開山、役小角を根本開山としている。

安時代には、清和天皇から「天台別院一乗法華院」の勅額を賜った。貞観13年(871)、上野権大目安(こうずけごんだいさかん)・阿倍小水麿(あべのこみずまろ)が大般若経600巻を書写して奉納した。その経巻は関東最古の写経として、国の重要文化財に指定されている。平安時代にはまた、天台宗の慈覚大師も当山に来て、密教道場として宝樹坊を建て、多羅葉樹(たらようじゅ)を植えた。この記念樹は、1100余年後の現在も、本坊の前の庭で青々として茂っていて、県の天然記念物に指定されている。

参道途中からの眺め
参道途中からの眺め
倉時代には、臨済宗の祖栄西の弟子・栄朝が住職となり、塔頭(たっちゅう)霊山院を建てて禅の道場とした。「吾妻鏡」によると、慈光寺は鎌倉幕府の厚い庇護を受けていたようだ。源頼朝から寺領1200町歩を寄進され、さらに奥州平定を祈願して頼朝が「愛染明王像」を納めた事などが記されている。この幕府の庇護は、将軍家姻戚の比企遠宗の妻・比企禅尼によるところが大きかったようだ。

光寺はかつて関東屈指の大寺院であって、山中には75坊の僧坊があり、栄華を極めた。往時の様子は、慈光寺古絵図や一山絵図(1697年制作)によって伺い知ることができる。また『風土記稿』にも「昔は大伽藍にして、何の頃よりか台・密・禅の三宗を兼学」すとあり、鎌倉時代には関東の地で重きをなした寺院だった。

世において、慈光寺は在地勢力として強大な勢力を有したことを示す寺伝が残っている。松山城主上田朝直と太田道灌がこの寺を攻めたというのだ。おそらく、その頃は僧兵を抱え強大な軍事力を誇った寺院だったのだろう。だが、栄朝が開いた霊山院を除いて、当時の多くの僧坊は姿を消してしまった。僧坊跡は今も山内の至る所に山を大きく削って地形された平場として確認できる。今は観音堂をはじめとして数棟の堂塔を残すのみである。



鎌倉時代の寺の繁栄を物語る青石塔婆9基(県指定文化財)

著莪(シャガ)自生地
著莪(シャガ)自生地
がりくねった山道を登っていくと所々に「著莪(シャガ)群生地」と書かれた立て札が立っている。著莪はアヤメ科の植物で、日本の本州、四国、九州のスギ林や竹林などの林床に見られ、地下茎で繁殖し、群落を形成する。谷沿いの陰地や竹林などのかなり暗い場所にもよく生育し、5月初旬頃に薄青色の花を咲かせる。

莪は古い時代に中国から日本に持ち込まれた植物である。種子ではなく、地下茎でしか繁殖しないのであれば、人間の手でその地下茎の一部がこの山に植えられたことになる。あるいはこの山岳道場へ修行にやってきた山伏たちだったかもしれない。




9基の青石塔婆
9基の青石塔婆(県指定文化財)
がて、参道が大きく右に曲がった先の路肩に、多くの墓石が並んでいるのが見えてくる。よく見ると、墓石に混じって緑泥片岩の塔婆が立っている。これらの青石塔婆は、慈光寺に関係した僧の追善供養や逆修供養のために建立されたもので、弘安7年(1274)から寛正8年(1464)までの銘があるもの8基と、年不詳のもの1基がある。

さは1.3〜2.65m、幅35〜64cmと大型のものが多い。鎌倉時代の特色を持つこれら9基の優美な緑泥片岩製塔婆は、県の文化財に指定されている。明治初期の廃仏毀釈の嵐で多くの僧坊が廃絶となる以前は、各坊にあったと言われている。



国指定重要文化財「慈光寺開山塔」

開山塔の覆屋
開山塔の覆屋
らに参道を登って行くと、右手に古びた建物が見えてくる。鑑真の弟子で慈光寺を開山した釈道忠のために作られた木製の宝塔を収めた覆屋(おおいや)である。内部は暗くてよく見えないが、高さ5.10mの比較的小型の宝塔があるはずである。室町時代末の天文25年(1556)の銘が露盤に刻まれていたという記録があるため、その頃作られたものとして、昭和28年(1953)に県の重要文化財に指定された。

開山塔
開山塔
明板によると、開山塔の一階は八角形の土台に八本の円柱を建てて円筒状にしてあり、上端には亀の腹に似た厚板を載せ、側面には四方に扉を付けてある。二階は、一階の床から立ち上げた円形の中心部の上に組物を置き、方形の屋根を支えている。屋根は板で葺いた「とち葺き」で、勾配は急である。先端にある相輪は欠損していたが、昭和39年(1964)の解体修理のとき復元したという。

お、この解体修理のとき、その基壇の下から蔵骨器(ぞうこっき)発見された。須恵器の大甕で高さ51.6cm、口径30cm。中には、30〜40歳の男子のものと推定される焼骨が入っていた。あるいは開山道忠のものかもしれない。この蔵骨器も県の文化財に指定され宝物殿に展示してある。



武蔵最古の銅鐘と般若心経の道

山塔の覆屋の横は広い空き地になっている。ここには釈迦堂と蔵王堂が建っていたが、昭和60年(1985)11月26日の放火で焼失してしまった。釈迦堂は元禄8年(1695)に建立された五間四方で茅葺きの堂々とした建物だったという。まことに残念なことだ。

銅鐘
銅鐘
空海の破体心経
空海書 破体心経
き地の左手に「般若心経の道」と呼ばれる坂道がつづら折りになって上の方に続いている。坂の登り口に鐘楼があり、国の重要文化財に指定された銅製の梵鐘を吊されている。説明板には、鎌倉時代の寛元3年(1245)5月18日、栄朝が願主となって東国の名工「物部重光(もののべのしげみつ)」が鋳造し、慈光寺に奉納した銅製の梵鐘である、と記されている。

鐘には銘文が刻まれていて、当時の慈光寺は「天台別院」と呼ばれていたことが分かる。この梵鐘を制作した物部重光は、鎌倉時代から南北朝にかけて活躍した鋳物師で、鎌倉大仏や鎌倉建長寺の梵鐘(国宝)も彼の作品である。

鐘の高さは150cm、口径88cm、重量は509kgとのことだ。年代が分かる梵鐘としては埼玉県内最古のものとされている。梵鐘を吊した鐘楼は昭和60年(1985)の火災で釈迦堂や蔵王堂とともに焼失してしまったが、寺の復興を願う関係者の浄財で平成2年に再建された。

楼の横から緑泥片岩を敷いた石段が続いている。般若心経の道である。石段の脇のところどころに石碑が立っている。日本を代表する般若心経の名筆を石碑に復元したものだ。観音堂まで坂道に沿ってに全部で8基ある。平成4年に新しく据え付けられたもので、空海や良寛などの筆跡を鑑賞でき、それなりに楽しい。



本坊の前で枝を張る天然記念物の多羅葉樹

慈光寺本坊の玄関
慈光寺本坊の玄関
若心経の道を登ってきても、あるいは駐車場脇の売店の横の平坦な道を来ても、慈光寺の山門の前に出る。江戸後期に建立された四脚門の中門をくぐると、目の前に本坊の正面玄関がある。唐破風の立派な構えだが、その横に続く本坊は、1300年の歴史と関東最大規模の栄華を誇った寺院のイメージとはかけ離れた建物である。どうみても質素な山寺の本堂にしか見えない。

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天然記念物の多羅葉樹
の本坊の前で、埼玉県の天然記念物に指定された巨大な多羅葉樹(たらようじゅ)が枝を張っている。モチノキ科の常緑樹で、幹周り2.7m、高さ18mもある。慈覚大師が密教の法門を伝えた天長年間(824〜834)に、大師自ら植えた樹齢1100余の老木である。昭和63年(1988)4月7日の豪雪で、朽ちかけていた枝が折れた。また幹の内部が腐っていたので、大手術を施して復活させたそうだ。

の木の葉は楕円形で、裏面は傷つけるとその部分が黒くなる性質がある。それを利用して昔はこれをハガキの代用にしたことから、”ハガキ(葉書)の木”とも呼ばれている。郵便葉書の語源がこんなところにあったとは知らなかった。多羅葉(たらよう)の語源も、経文を書いたヤシ科の多羅樹(たらじゅ)に似ていることにあるようだ。



薄暗い光の下で数々の宝物を展示する宝物殿

慈光寺宝物殿
慈光寺宝物殿
坊から左の方へ進むと、慈光寺所蔵の数々の文化財を保存展示する宝物殿がある。拝観料は300円である。玄関を入り、左側の壁に取り付けられた電源スイッチを入れて、左手の収蔵庫に入る。薄暗い光の下に数多くの宝物がならんでいる。主なものを挙げてみよう。

■法華経一品経29巻に開経の無量義経、結経の観音賢経、および阿弥陀経・般若心経各1巻を加えた写経全33巻(国宝)
 文永7年(1270)、後鳥羽天皇をはじめ藤原兼実ほか一族の人々が法華経など33巻を書写して奉納したもので、厳島の平家納経、久能寺経とともに日本三大納経の一つに数えられている。
■経箱(国指定重要文化財)
 上記の経巻を納めたもとの伝えられる鎌倉時代の経箱。表面は黒漆塗り、内部は朱漆塗り、外縁を面取りして螺鈿を散らしてある。
■大般若経600巻(国指定重要文化財)
 関東最古の写経。貞観13年(871)3月に上野権大目安(こうずけごんだいさかん)・阿倍小水麿(あべのこみずまろ)が書写して奉納した。そのうち152巻が現存している
■金銅密教法具14口(国指定重要文化財)
 密教独特の宗教行事に使用する花瓶(けびょう)、独鈷鈴(どっこれい)などの金工品。このうち花瓶の一口に徳治2年(1307)の銘がある。銘がある密教法具は珍しく、鎌倉時代の基準作とされている。
■蔵骨器(ぞうこっき)(県指定文化財))
 昭和39年(1964)に重要文化財の開山塔を解体修理したとき、その基礎下から発見された。須恵器の大甕で高さ51.6cm、口径30cm。

の他にも、紙本墨書(国指定重要文化財)、絹本着色徳川家康画像(県指定文化財)、絹本着色天海僧正画像(県指定文化財)、日吉山王七社版木(都幾川村指定文化財)、木造聖僧文殊坐像(県指定文化財)、木造宝冠阿弥陀如来坐像(県指定文化財)などが陳列されている。



般若心経を原寸大で展示解説している般若心経堂

般若心経堂
般若心経堂
物殿の前をまっすぐに進むと正面に「般若心経堂」が建っている。まだ新しいお堂で、最澄の書から作られた「般若心経堂」の扁額が掲げてある。堂内に入ると、中央に尾張徳川家伝来装飾法華経観世音菩薩普門品の写しが長々と展示してある。平安時代後期の作であるが、本物は徳川美術館に収蔵されているとのことだ。

かって正面右には、千手観音菩薩が厨子の中に安置されていて、近くから拝観できる。このお堂を訪れたとき、先客がいた。一人の老婦人が菩薩像の前に座って般若心経を読誦していた。般若心経とは、「大般若経」600巻の集大成といわれる経典で、膨大な量の「大般若経」からエッセンスだけを抜き出してまとめた、いわばダイジェスト版である。

千手観音像
千手観音像
しくは「般若波羅蜜多心経」と言い、サンスクリット題名はPrajnaparamithrdayasutraで、「悟りをひらくための智慧を説いた教え、その核心という意味だそうだ。漢訳は8本あるとされ、多数の経典の中で最も有名なものである。我が国では玄奘訳の「般若心経」が最も流布していて、殆どの各宗がこれを用いている。「空」の境地を説いた経典で、空の境地とは何事にもこだわりのない心のことで、悟りにもこだわるな、煩悩の克服にもこだわるな、と教えている。



本尊の千手千眼観自在菩薩を安置する観音堂

観音堂
入母屋造・銅板葺きの観音堂
東三十三観音霊場第九番札の観音堂は、境内の一番高い所に建てられている。般若心経堂の横を通って続いている「般若心経の道」の長い坂道を100mほど登って、やっと観音堂に達する。

の縁起では、天武天皇2年(673)に開祖・僧慈訓が春日という神仙から観音像を授かり、その像を祀るために観音堂を建立したとされている。説明板によれば、現在の観音堂は享和3年(1803)に97世義然によって再建された入母屋造りである。だが、老朽化が進んだため平成5年(1993)から4年がかりで修復が行われた。修復事業では、本尊の解体修理を行うとともに、屋根を茅葺きから銅板葺きに改修し、さらに堂内外の修復と周辺整備を行ったという。

尊の千手観音立像は秘仏で、普段は厨子の中に収められている。像の高さは270cmであるが、面白いことに頭部と体部の制作時期が異なる。頭部は室町時代の天文18年(1549)の制作だが、体部は江戸時代の享和2年(1802)に制作されたものである。

千手観音像
本尊千手観音立像
手観音は正しくは千手千眼観自在菩薩という。一本の手で25の願いをかなえるとされ、その為42本の手を持つ姿をしている。慈光寺の千手観音は、その手の中で一本だけ後ろを向いているのが特徴で、母親(観音)が子供(人)を背負っている姿を現しているのだと言われている。この秘仏が開帳されるのは、毎年4月の第2日曜日と17日で、その日は多くの信者が登山し、盛大に護摩法要が行われるとのことだ。

音堂の外陣は吹き放しになっていて、履物のまま昇殿できる。これは札所建築の特徴的な様式である。外陣の天井を見上げると、細部が非常に凝った造りになっている。柱ごとに彫刻木鼻をつけ、虹梁に細かい文様の地彫または彫刻を施し、その上は彫刻欄間で飾ってある。



(04/02/09 記す) 次へ 前へ