広隆寺(こうりゅうじ) 聖徳太子のスポンサーだった秦河勝が建立した寺

広隆寺の南大門(仁王門)
広隆寺の南大門(仁王門)

【所在】京都府京都市左京区太秦蜂岡町32
【宗派】真言宗
【山号】蜂岡山
【アクセス】京福電鉄嵐山線「太秦」駅下車すぐ。または、市バス右京区総合庁舎前下車、徒歩2分


 京都市の四条大宮から京福電鉄嵐山線の電車に乗り、「太秦」駅で下車すると、近くの交差点の角に広隆寺の南大門(仁王門)が周囲を威圧するように建っている。南大門を入ると石畳が続いていて、その右手には赤堂と通称される講堂が、左手には薬師堂、能楽堂、地蔵堂が甍を並べている。石畳の正面には本堂の上宮王院(じょうぐうおういん)太子殿がどっしりと構えている。石畳の道を左にとって本堂と庫裡の間を北に進むと、弥勒菩薩半跏蔵など多くの仏像を安置する新霊宝殿へと導かれる。1982年(昭和57)に新築された和風の建物で、周りにはツバキやサツキの花樹が植えられ、建物の前の池には蓮が水面に顔を出している。
 この寺には塔がない。それぞれの堂宇も古代の寺院にありがちな肩苦しい様式で配置されていない。加えて、境内に植えられた桜や紅葉、松などが程良い大きさで、境内の雰囲気に心を和ませる明るさと静けさがある。好きな寺院の一つである。


■創建は推古天皇の時代まで遡る京都で最古の寺
 この寺の創建にかかわる逸話が『日本書紀』に記されている。603年(推古11)11月聖徳太子は群臣を前にして、「私は尊い仏像を持っている。だれかこの仏を祀るものはいないか」と尋ねられた。そのとき秦河勝(はたのかわかつ)が「私が祀りましょう」と名乗りで、仏像を拝領した。そして、その仏像を祀るために建てた寺が、今の広隆寺の前身である蜂岡寺である、というのだ。

 836年(承和3)作成の『広隆寺縁起』は、別の創建伝承を伝えている。あるとき聖徳太子は秦河勝に次のような話をした。「私は昨夜、不思議な夢をみた。香ばしい香りに満ちた桂(かつら)の林の中に大きな枯れ木があり、五百羅漢がその下に集まってお経を読んでいる。枯れ木からは大光明が放ち、羅漢の読経が微妙な声で仏法を説いているように聞こえ、まことに格別な霊地に思えた」。すると、河勝は「その場所は我々が住む葛野(かどの)です」と答え、その場所へ聖徳太子を案内した。そこでは、大きな桂の枯れ木の周りを無数の蜂が飛んでいて、その蜂の群は羅漢が説法しているように見えた。そこで、仮宮殿を造って楓野(かえでの)別宮となずけ、河勝に命じて蜂岡寺を建立させた。楓野別宮は桂宮院のことであり、現在の建物は鎌倉時代の再建だが、国宝建造物として広隆寺の奥に建っている。

 『広隆寺縁起』は、蜂岡寺はもともと葛野郡九条川原里・同荒見社里にあったが、それを現在の地に移したと伝える。京都市北区白梅町にある北野廃寺が蜂岡寺の旧地であるとする説がある。しかし、二つの寺から出土する創生期の瓦の様相が異なっており、7世紀前半に別の寺として成立していたとする説もある。


■何回も火災を免れてきた仏像たち
弥勒菩薩半跏像
弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)
 広隆寺には、仏像だけでも国宝が17体、重要文化財が31体もある。この寺は818年と1150年に火災にあって創建時の諸堂はことごとく失われた。それにもかかわらず、これだけ多くの仏像が護られてきたことは、奇跡に近い。新霊宝殿には50数体の仏像が安置されていて、一度に参拝することができる。その中に、宝冠弥勒の名で親しまれている弥勒菩薩半跏像がある。国宝1号に指定された優美な弥勒像である。弥勒菩薩は56億7000万年後にこの世に現れ、人々を救うという未来仏である。半跏像は右手の指を頬に近づけ、まっすぐに下ろした左足に右足首をのせて、衆生の救済方法を思案している姿であるという。聖徳太子が河勝に授けた仏像は、この宝冠菩薩とされている。赤松で造られているため、朝鮮半島からの渡来仏であるという説がある。

 実は、広隆寺にはもう一体の弥勒菩薩半跏像が安置されている。やはり国宝であるが、幾分憂いを含んだ表情をしているため、「泣き弥勒」の名で知られている。この仏像も朝鮮半島からの渡来仏であるとする説がある。『日本書紀』によれば、623年(推古31)7月新羅の使節が来朝して、仏像1体および金塔と舎利を献上した。これらの献上品のうち仏像は蜂岡寺に安置し、その他は四天王寺に納めた、と記されているためである。


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