橘寺(たちばなでら) 聖徳太子建立とされる7寺の一つ。太子が居住した上宮の跡とする伝承あり。

橘寺全景
橘寺全景

【所在】奈良県高市郡明日香村橘532
【宗派】天台宗
【山号】仏頭山上宮皇院
【本尊】聖徳太子像
【開基】聖徳太子
【アクセス】近鉄橿原神宮前駅から岡寺前行バス10分 川原または岡橋本バス停下車 徒歩5〜8分



 明日香村を東西に横切る県道155線を挟んで川原寺と対峙するようにたたずむ寺院がある。仏頭山を背景にして白壁の築地塀を巡らした橘寺である。太子建立の7寺の一つで、正式には仏頭山上宮皇院菩提寺といい、橘樹寺、橘尼寺とも称する。現在の寺地には、東面する四天王寺式伽藍配置の跡が残っている。しかし、橘寺の存在を示す最も古い文献は『日本書紀』で、680年(天武9)に橘尼寺で出火し10坊を失ったことが記録されている。この寺から出土する瓦は7世紀後半のものが多いが、7世紀前半に使われたとされる素弁蓮華門軒丸瓦も発見されていて、創建はその頃まで遡ると考えられている。


■聖徳太子出生の地
 寺伝では、橘寺は聖徳太子(=厩戸皇子)出生の地と伝える。出生地とされる伝承では、この地に欽明天皇の別宮があり、太子は574年(敏達3)にここで誕生したと言われている。厩戸皇子は太子の本名であるが、その名の由来は母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのみめみこ)が宮中の見回りの際にちょうど厩戸に来たところで産気づき太子を生んだため、とされている。

 この出生譚は『日本書紀』に記されているもので、キリスト教の影響を示唆する歴史学者もいる。後世になって太子信仰が盛んになった時、太子を讃仰するあまりキリスト生誕になぞらえて作り上げられた逸話だというのだ。しかし、当時の習慣では皇族の皇子は出生地の地名か、あるいは誕生後に養育を任された乳母の氏族名で呼ばれるのが一般的だった。厩戸という氏族名は存在しないから、橘寺付近に厩戸という地名があり、その地名にちなんで命名されたとする説もある。


■聖徳太子が住んでいた上宮(かみつみや)跡?
 寺伝では、この地は聖徳太子が斑鳩宮に遷るまで過ごした上宮の跡であると伝える。しかし、この伝承のいわれははっきりしない。橘が誕生の地ならば、このあたりに上宮があったはずだ、との推定から生まれた伝承であろう。『日本書紀』には、父の用明天皇が磐余双槻宮(いわれなみつきのみや)で即位したとき、聖徳太子を慈しんで宮の南の上殿(かみつみや)に住まわせたと記している。1984年(昭和59)に開始された桜井南部特定区画整理事業にともなう発掘調査では、その居館跡と思われる遺跡が桜井商高の東で発見された。6世紀後半から7世紀初頭の遺構であるため、聖徳太子の上宮の可能性が大とされている。現在は上之宮遺跡として住宅地の中に整備されている。


■聖徳太子が勝鬘経を講説した所
心礎
三光石
 寺伝によれば、606年(推古14)、聖徳太子は推古天皇に請われて勝鬘経(しょうまんきょう)の講説を三日間この地で行った。すると、蓮の花が天から溢れ落ちてきて庭に積もった。さらに南の山に千の仏頭が現れ、太子の冠からは日月星の光が輝くなど不思議なことがおこった。そこで、天皇がここに寺を建てるよう皇子に命じられ、皇子が尼寺を建立したのが橘寺の始まりとされている。

 境内には、勝鬘経講説に関係した史跡が残っている。「三光石」は、聖徳太子が勝鬘経の講義を行った際、冠が日・月・星の光を放ったとされていることからイメージされた石のようである。「蓮華塚」と呼ばれている塚は、降り積もった蓮の華を埋めた場所であるという。


■創建された頃は巨大な寺院だった
心礎
五重塔の心礎
   橘寺の具体的な創建時期は分かっていない。創建された頃の寺域は、東西870m、南北650mと広大であり、四天王寺式伽藍配置で建てられた金堂、講堂、五重塔などを含め66棟の建物があったという。日本書紀に『天武天皇9年(681)に尼房失火で十房焼く』の記載があり、その時の失火で10房を焼失した。1148年には落雷で五重塔が焼失、鎌倉時代に三重塔が再建されたものの、1506年に多武峰大衆によって焼かれてしまい、寺はその面影を失った。

 今の諸堂はいずれも江戸時代以降のもので、かつての華やぎを語るものは、美しい形の塔跡心礎しか残っていない。心礎に彫られた柱の穴は径約90cm、深さ約10cmで、その穴の三方に半円形の添え柱を彫ってある。


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