内山永久寺跡(うちやまえいきゅうじあと)


永久寺跡 トピックス:

■永久年間(1173 -1117)に、鳥羽天皇の勅願で亮恵上人が建立したとされる寺の跡。

■永久寺は、石上神宮の神宮寺として盛時には大伽藍を誇っていた。

■明治初年の廃仏毀釈で廃寺となり、現在は本堂の在った所に池が残るだけ。

所在地: 天理市杣之内町
アクセス:
夜都伎神社から1.7km、徒歩30分
永久寺跡の池

  夜都伎神社から北へ向かって進むと、やがて広い舗装道路に出る。標識に従って舗装道路を右にとり、揺るやな坂道を上ってゆくと、今度は左方面への標識がある。うっかりすると見落としがちな標識だが、この標識の先に「観光農園」の看板を掛けた大きな建物があり、そこが無料休憩所の”峠の茶屋”になっている。峠の茶屋の先は「山の辺の道」でも一番の難所ではと思われるほど急な坂道である。やっとの思いで坂を上りきると、その後は平坦な下り勾配の小道が続いている。柿の木畑を左右に見ながらしばらく進むと、やがて左手に池が見えてくる。かっての内山永久寺跡である。岸辺の木陰で腰を下ろしてのんびりと釣り糸を垂らしている姿がいくつか目に付いた。盛時には50以上の堂塔が並ぶ大寺院がここにあったという。池の畔に、昔の境内の様子を示した絵図が示してある。

昔の栄枯盛衰を映して静まりかえる永久寺跡の池

往事の繁栄ぶりを示す絵図
往事の繁栄ぶりを示す絵図

  現在は周りの木陰を映して静まりかえる池のあたりは、かって内山永久寺の本堂が建っていた所である。この寺は、第74代鳥羽天皇の勅願によって永久年間(1173 -1117)に建立されたので、永久寺という。開基は鳥羽天皇の受戒の師であった亮恵上人であったと伝えられる。

 社伝によれば、内山永久寺は石上神宮の神宮寺として盛時には50以上の堂塔を誇った真言宗の大寺院で、山号を内山、院号を金剛乗院といった。中世には興福寺の末寺となり、南北朝の頃には第96代後醍醐天皇が京都花山から吉野へ落ち延びる際に一時入寺して「萱の御所」とされた。江戸時代には971石の朱印地を与えられ、大和では東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ待遇を受けていた。だが明治の廃仏毀釈によって廃寺となってしまった。なお、東大寺の国宝、持国天と多聞天像は、その昔この寺が所有していた仏像であるという。

池の傍らに立つ芭蕉の句碑

芭蕉の句碑
芭蕉の句碑

  永久寺跡の池の畔に芭蕉句碑が建っていて、次の句が刻まれている。

 うち山やとざましらずの花ざかり  宗房

 松尾芭蕉(1644 - 1694)は、江戸に出る以前は出生地の伊賀上野に住み、「宗房(むねふさ)」と号していた。この句はその頃の作であるが、いつこの地を訪れたのかは記録がなくてわからない。

 句の意味は、「内山永久寺の参詣に来たが、外様(よその土地)の人にあまり知られていない桜が今を盛りに満開に咲き乱れていることよ」であり、寛文10年(1670)に刊行された『大和巡礼』という本に収録されているとのことだ。したがって、芭蕉が23〜24歳ごろに詠んだものと推定されている。


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