玄賓庵(げんぴんあん)


玄賓庵の正面入り口 トピックス:

■平安時代の初期、玄賓僧都が隠棲していた庵。

■謡曲「三輪」は玄賓と三輪明神の物語を題材にしたもの。

■以前は三輪山の域内に築かれた庵だが、廃仏毀釈のあおりで現在の地に遷された。
所在地: 桜井市茅原377
アクセス:
狭井神社から0.7km、徒歩15分
玄賓庵の正面入り口


 狭井神社から玄賓庵へ向かうだらだら坂の「山の辺の道」を降ってゆくと、道を横切る小さな川があり、川辺に丸太を削った一本の標識が建っている。その標識には、神武天皇の皇后だった伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと)が詠んだとされる歌が書いてある。

狭井河よ雲立ちわたり畝傍山木の葉騒きぬ風吹かんとす

この歌は、神武天皇が崩御した後に、異母兄にあたる当藝志美美命(たぎしみみのみこと)が弟の三皇子を殺そうと企んだので、母の皇后はこの歌によって皇子たちに危機の迫っていることを警告したという。
さらに、以下のような説明書きが墨書してある。
当社の御祭神大物主命の御子・伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと)の御住所は、狭井川のほとり、この地域にあったと伝える。(古事記)
狭井とは山百合のことであり、初夏には一帯に可憐な花を咲かせる。又この地は古来より「出雲屋敷」といわれ我が国の建国にかかわるきわめて重要な場所である。大神神社

 伊須気余理比売命とは、『日本書紀』では媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)と記される大神の娘である。その住まいがあった場所が出雲屋敷とは面白い。現在は一帯が柿畑になっている。

 狭井川を過ぎてからは、人家が途絶えた寂しい道が続く。三輪山の方へ深く割り込んだあたりで山田の向こうに白壁が見えてくる。そこが玄賓庵である。

平安時代、玄賓僧都が隠棲したと伝える庵

人影もない草庵
人影もない草庵

 玄賓僧都は、河内の弓削氏の出で、山階寺(興福寺の前身)の僧である。桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ていたが、俗事を嫌った。桓武天皇の病気平癒に功あり、律師に任じられたが、これを辞退して782年に三輪山の松原谷に庵を結んで隠棲した。勅使が追って来て、僧都宣命の詔を伝えたが、玄賓は次の歌を作って固辞したという。
  三輪川の清き流れに洗ひてし衣の袖は更にけがさじ

 彼の草庵は山岳仏教の寺として栄えたが、その後荒廃し、寛文7年(1667)に比久宴光が再興した。明治の神仏分離で現在地に移されたという歴史を持つ。草堂には、木造の玄賓僧都像や不動明王座像が安置してある。不動明王座像は重要文化財の指定を受けている。

謡曲「三輪」とは

 世阿弥の作と伝えられる謡曲「三輪」は、玄賓僧都をモデルにしている。その筋書きでは、玄賓が三輪明神の化身である女性と知り合い、三輪の故事神徳を聞かされるというものである。物語は以下のように展開する。

 三輪山の谷あいに、世を捨てて庵を結び仏に仕えていた一人の僧都がいた。彼のもとに、美しい女人が仏に供える樒(しきみ)と閼伽(あか)水を持って通ってくるようになった。あるとき女人は秋も深まり夜寒になったので僧都の衣をいただきたいと、衣を所望した。僧都は乞われるままに衣を与えた。別れぎわに女人の住まいを聞くと、女人は三輪の里山すそ近くに住んでいると答えて立ち去った。不審に思った僧都があとを追って行くと、大木の枝に先ほど与えた衣がかけてあった。女人は三輪明神の化身だったのである。姿をあらわした三輪明神は、神も人も同じように迷いがある、僧都に接して仏道に縁を結ぶことができたと語り、その後三輪山の故事神徳を聞かせた。

 僧都の衣が掛かっていたという杉が、大神神社の境内に現在残っている。「衣掛杉(ころもがけのすぎ)」と呼ばれる杉の古株で周囲が10メートルもある。


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