檜原(ひばら)神社


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檜原神社の標識と〆柱< トピックス:
■崇神天皇の時、宮中で祀っていた天照大神(あまてらすおおみかみ)を笠縫邑(かさぬいむら)に遷して豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に奉斎させた磯城神籬(しきひもろぎ)。

■垂仁天皇の時、天照大神をこの地から伊勢神宮へ遷した後も、引き続き天照大神を祀ったため「元伊勢」と呼ばれている。

■天照大神を奉斎した豊鍬入姫命を祀った豊鍬入姫宮が大神神社の末社として同じ境内に建っている。 。

祭神
天照大神、伊奘諾尊、伊奘冊尊
所在地: 桜井市三輪字桧原
アクセス:
玄賓庵から0.3km、徒歩5分
檜原神社の標識と〆柱


 玄賓庵の白土塀の脇を通りの草堂と僧坊の間を抜けて先へ進むと、道は緩い傾斜の登り坂にかかる。その坂を上りきると急に視界が開ける。眺望のよい檜原の台地に出たためである。かって伊勢神宮のはじまりとされた笠縫邑(かさぬいむら)はこの台地にあった。現在は、大神神社の摂社である檜原神社が鎮座している。

本殿も拝殿もなく三輪鳥居が見える神社

 
三輪鳥居が見える神社
三輪鳥居が見える神社

 桧原神社は、万葉集などに「三輪の檜原」と数多くの歌が詠まれた台地の上にある。大和国中が一望できる絶好の場所に位置し、眼下に箸墓の森が見え、二上山の姿も美しい。 かってこの付近は大和の笠縫邑と呼ばれた。そのため境内には「皇大神宮倭笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)」と書いた大きな石碑が立っている。

 檜原台地に建つ桧原神社は、大神神社付近の摂社群の中では、最も北に位置している上に社格も最も高く創建も古い。天照大神が伊勢神宮に鎮座する前に、宮中からこの地に遷され、この地で祭祀されていた時代がある。伊勢神宮へ遷されると、その神蹟を尊崇して、檜原神社として引き続き天照大神を祀ってきた。そのため、この神社は広く「元伊勢」の名で親しまれている。

 寛政年間の台風によって、檜原神社は大きな被害をこうむり廃墟と化してしまった。だが廃墟のまま祭礼は行われてきた。戦後になって、現在のように整備された。三輪山の中にある磐座をご神体にしているので、檜原神社には本殿はなく、拝殿もない。だが、大神神社では見えなかった三輪特有の「三輪鳥居」とその奥にある神籬(ひもろぎ。神霊が降臨する時の臨時の宿り場所。小さめの樹木や岩石が選ばれる)などが再建されいる。

神遣い(かみやらい)にあった神たち

 『日本書紀』の崇神記によれば、第10代崇神天皇の6年、皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して天照大神を宮中から大和の笠縫邑に遷し、その場所に堅固な石の神籬を造り祀ったという。第11代垂仁天皇の25年になって、天照大神を豊鍬入姫命から離して倭姫命(やまとひめのみこと)に託すことになった。倭姫命は天照大神を鎮座させる場所をあちこち探したが、最終的に大御神の希望を入れて、伊勢国の度会宮に遷したという。

 天照大神の遷宮に関する伝承は、一種の神遣い(かみやらい)を物語るものと解してよい。神遣いの対象とされたのは、天照大神だけではない。倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ、大己貴神の荒魂)も同時に宮中から追い出された。その理由が『日本書紀』に記されているが、要領を得ない内容である。その部分を以下に転記してみよう。

 これより先に、天照大神・倭大国魂、二の神を天皇の大殿の内に並祭る。然うして其の神の勢いを畏りて、共に住みたまふに安からず。故、天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る。云々"

 問題となるのは、第二センテンスの解釈である。天皇を主語と解すれば、この二神の霊威が強力で畏れ多いので、同じ宮殿で一緒に住むのは精神的に落ち着かないとなる。だが、主語を神と解すれば、それぞれの神の霊威が強く、そのため二神が同床にあるのは畏れ多いことだとの意味にとれる。したがって、二神をそれぞれ他へ遷すことにしたという。

 宮中から追い出された天照大神は、豊鍬入姫命によって笠縫邑で祭祀されることになった。倭大国魂神は淳名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)に託して祀ることになり、神地を穴師邑にさだめた。だが、淳名城入姫命は髪が落ち体がやせて祀ることができなかったので、やむなく大倭直の祖の長尾市宿禰(ながおいちのすくね)に命じて鎮め祀らせたという。天理市新泉町にある「大和神社」は大国御魂神を祀る神社である。

 現在、檜原神社の境内には、豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が建っているが、その創祀は新しく昭和61年11月5日である。

田道間守(たじまもり)が持ち帰った橘

山の辺の道沿いの果樹園
山の辺の道沿いの果樹園

 桧原神社から北へ向かう「山の辺の道」は、それまでの山道と違って道幅が広い。進行方向の左側はミカンをはじめとする果樹園の緩やかな丘陵が下り、その向こうに大和盆地が広がっていてまことに眺望がよい。遠方に生駒山や矢田丘陵が横たわり、右手には纒向や三輪の山々が緑の垣根を作っている。大和の青垣と言われるゆえんである。

この辺りの丘陵地帯から、これから向かう穴師の里あたりにかけては、特に蜜柑畑が多い。蜜柑で思い出すのは、『日本書紀』が伝える田道間守の逸話である。第11代垂仁天皇は、晩年、田道間守に命じて常世国(とこよのくに)に非時(ときじく)の香菓(かぐのみ)を取りに赴かせた。いまの橘の実のことである。田道間守が橘の実をもって帰朝してきたのは、出発してから十年後のことである。だが、天皇はその一年前にすでに崩じていた。田道間守は、陵に橘の実をささげて慟哭し、ついには泣き死んでしまったという。この田道間守は三宅連の先祖とされている。彼が持ち帰った橘は、垂仁天皇の珠城宮跡のあたりに植えられ、代々の天皇に献上されるようになった。いま穴師の里あたりで蜜柑栽培が盛んな背景には、こんな伝説が秘められているのである。


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